2003年に作家ダン・ブラウンが書いた、この『ダ・ヴィンチ・コード』は、出版されると、たちまち世界中で大ベストセラーになった。
直ぐ様、日本でも角川書店で翻訳されて、上下巻が店頭に並んだ。
売れる!売れる!
厚手の上下巻が面白いように売れた。
売れると、次の戦略はダン・ブラウンがそれ以前に書いた小説を並べる事。
『パズル・パレス』、『天使と悪魔』、『デセプション・ポイント』と店頭の目立つコーナーに、『ダ・ヴィンチ・コード』と並べられると、これまた、相乗効果でバカスカ売れたのだった。(本当に何億儲かったんだろう……もの凄い数の増刷だったはずだ)
そして、かくいうミーハーな自分も、それらを買い求めて走った。(今、考えると、すべての上下巻を揃えるのに結構な金額を使ったと思うが、ブームという熱病に侵されている時は、こんなものだろう)
期待して、『ダ・ヴィンチ・コード』を手に取り、最初の一頁をめくると………
すぐにつまづいた。
む、難しい~。
何じゃこりゃ?
考えてみればレオナルド・ダ・ヴィンチの事なんて『モナリザ』や『最後の晩餐』を描いた画家くらいの知識しかない自分。
『ウィトルウィウス的人体図』??
『マグダラのマリア』??
『テンプル騎士団』って何??
頭の中で『?』マークがグルグル駆け巡る。
あきらめようか?
いや!これだけ元手がかかってるんだし、読み進めねば!
そして、ドケチ根性に背中を押されて、格闘しながら時間は過ぎて………
上下巻を徹夜で読破した。(多分、途中で辞めれば2度と手に取らないと思って)
読んだ感想、面白かった。それに何だか賢くなった気もした。(錯覚)
ダン・ブラウンの文体に1度慣れてしまえば、後の小説も時間はかかったが読む事ができた。(『天使と悪魔』、『パズル・パレス』、『デセプション・ポイント』と。)
今、考えると、よくも、まぁ読破できたものだと思う。
とてもじゃないが、今じゃ徹夜で読破するなんて体力もなければ気力もないが……。
で、ここまで読んでみても、やはり『ダ・ヴィンチ・コード』の出来が一番だと思った。
そうして、ベストセラーになれば当然、映画化の話も浮上してくる。
でも ……… これが 映画に向いている原作 なのだろうか???
これだけの濃縮された情報量のある小説を、わずか2時間強の映画にまとめられる?
自分のイヤな不安をよそに、次々と映画制作は進行していく。
監督はロン・ハワードに決まり、主人公ロバート・ラングトン教授には、トム・ハンクス。
ヒロインのソフィー・ヌヴーには、『アメリ』のオドレイ・トトゥ。
イアン・マッケランやら、ポール・ベタニー、そしてジャン・レノと有名どころのキャストが揃っていく。
そして、映画が公開されると小説と同じように映画もヒットした。
ヒットしたのだけど ……… 自分の観た感想は、この映画は、少し『失敗』だと思った。
多分、小説を読んだ事がある人には理解出来ても、読んでない人には、まるでチンプンカンプンだったはずだ。
情報量の多さは、とてもじゃないが収まりきれない。(149分あろうが、完全版の174分だろうが)
例えば、『最後の晩餐』に隠された秘密の説明なんてものになると、物凄く時間を使う。
『最後の晩餐』の絵は、横長のテーブルに、イエス・キリストを中央にして、12人の使徒が順番に腰かけている姿が描かれている。
12人の使徒は、いずれも男性のはずだが、向かってキリストの左に座っている人物ヨハネが、女性のように描かれているのだ。
長いソバージュの髪をたらして、その表情は目をふせている。
この人物ヨハネが、実は、『マグダラのマリア』という女性じゃないのか?っていうのがダン・ブラウンの解釈。
そうして、この『マグダラのマリア』と『イエス・キリスト』の間には、奇妙な空間が存在する。
それは『 V 』の字になった空間である。
この『 V 』は『聖杯』でもあり、『マリアの子宮』を型どってる事も意味しているというのだ。
つまり、マリアとキリストの間には『子供』がいたんじゃないか?というのである。
そして、その子供が、何代も、何世紀も子孫を残し続けて、キリストの血を受け継いで、この現代にも生存して生きている。
そして、それは、今、ラングトン教授の目の前にいる●●だった。
っていうのが、この映画の最大の秘密なのである。
こうして文章で書けば分かりやすくても、映画として、この部分を描こうとすれば下手をすると、話の緊張感を削いでしまいかねない。
映像つきで、この部分の詳しい解説が始まると、まるで映画を観ている気分ではなく、どこかの講義に参加させられている気分になってしまう。
嫌な予感は当たった。
「へ~え」、「ほぉ~」とは感心しても、それまでのラングトン教授の逃走劇の緊迫感は、ここで一気に消えてしまったのだ。
『ダ・ヴィンチ・コード』の小説は素晴らしい。
素晴らしいんだけど、映画には向かない原作もあるのだ。
監督のロン・ハワードは原作の『ダ・ヴィンチ・コード』を一回バラバラに解体すべきだった。
そうして無駄と思われる部分は、あえて削ぎおとして再構築していく。
映画と小説は完全に別物だと割りきって。
でも、そこまでするにはベストセラーゆえ世間の悪評が怖かったのだろうか。
ちと残念。