2019年9月23日月曜日

映画 「ダヴィンチ・コード」

2006年 アメリカ。





2003年に作家ダン・ブラウンが書いた、この『ダヴィンチ・コード』は、出版されると、たちまち世界中で大ベストセラーになった。

直ぐ様、日本でも角川書店で翻訳されて、上下巻が店頭に並んだ。




売れる!売れる!


厚手の上下巻が面白いように売れた。



売れると、次の戦略はダン・ブラウンがそれ以前に書いた小説を並べる事。


『パズル・パレス』、『天使と悪魔』、『デセプション・ポイント』と店頭の目立つコーナーに、『ダヴィンチ・コード』と並べられると、これまた、相乗効果でバカスカ売れたのだった。(本当に何億儲かったんだろう……もの凄い数の増刷だったはずだ)



そして、かくいうミーハーな自分も、それらを買い求めて走った。(今、考えると、すべての上下巻を揃えるのに結構な金額を使ったと思うが、ブームという熱病に侵されている時は、こんなものだろう)


期待して、『ダヴィンチ・コード』を手に取り、最初の一頁をめくると………





すぐにつまづいた。


む、難しい~。

何じゃこりゃ?



考えてみればレオナルド・ダヴィンチの事なんて『モナリザ』や『最後の晩餐』を描いた画家くらいの知識しかない自分。





『ウィトルウィウス的人体図』??

『マグダラのマリア』??

『テンプル騎士団』って何??





頭の中で『?』マークがグルグル駆け巡る。


あきらめようか?



いや!これだけ元手がかかってるんだし、読み進めねば!

そして、ドケチ根性に背中を押されて、格闘しながら時間は過ぎて………





上下巻を徹夜で読破した。(多分、途中で辞めれば2度と手に取らないと思って)


読んだ感想、面白かった。それに何だか賢くなった気もした。(錯覚)




ダン・ブラウンの文体に1度慣れてしまえば、後の小説も時間はかかったが読む事ができた。(『天使と悪魔』、『パズル・パレス』、『デセプション・ポイント』と。)



今、考えると、よくも、まぁ読破できたものだと思う。


とてもじゃないが、今じゃ徹夜で読破するなんて体力もなければ気力もないが……。





で、ここまで読んでみても、やはり『ダヴィンチ・コード』の出来が一番だと思った。





そうして、ベストセラーになれば当然、映画化の話も浮上してくる。

でも………これが映画に向いている原作だろうか?

これだけの濃縮された情報量のある小説を、わずか2時間強の映画にまとめられる?



自分のイヤな不安をよそに、次々と映画制作は進行していく。




監督はロン・ハワードに決まり、主人公ロバート・ラングトン教授には、トム・ハンクス。

ヒロインのソフィー・ヌヴーには、『アメリ』のオドレイ・トトゥ。

イアン・マッケランやら、ポール・ベタニー、そしてジャン・レノと有名どころのキャストが揃っていく。




そして、映画が公開されると小説と同じように映画もヒットした。


ヒットしたのだけど………自分の観た感想は、この映画は、完全に『失敗』だと思った。





多分、小説を読んだ事がある人には理解出来ても、読んでない人には、まるでチンプンカンプンだったはずだ。



情報量の多さは、とてもじゃないが収まりきれない。(149分あろうが、完全版の174分だろうが)





例えば、『最後の晩餐』に隠された秘密の説明なんてものになると、物凄く時間を使う。





『最後の晩餐』の絵は、横長のテーブルに、イエス・キリストを中央にして、12人の使徒が順番に腰かけている姿が描かれている。

12人の使徒は、いずれも男性のはずだが、向かってキリストの左に座っている人物ヨハネが、女性のように描かれているのだ。




長いソバージュの髪をたらして、その表情は目をふせている。

この人物ヨハネが、実は、『マグダラのマリア』という女性じゃないのか?っていうのがダン・ブラウンの解釈。



そうして、この『マグダラのマリア』と『イエス・キリスト』の間には、奇妙な空間が存在する。





それは『 V 』の字になった空間である。


この『 V 』は『聖杯』でもあり、『マリアの子宮』を型どってる事も意味しているというのだ。



つまり、マリアとキリストの間には『子供』がいたんじゃないか?というのである。


そして、その子供が、何代も、何世紀も子孫を残し続けて、キリストの血を受け継いで、この現代にも生存して生きている。



そして、それは、今、ラングトン教授の目の前にいる●●だった。


っていうのが、この映画の最大の秘密なのである。




こうして文章で書けば分かりやすくても、映画として、この部分を描こうとすれば下手をすると、話の緊張感を削いでしまいかねない。


映像つきで、この部分の詳しい解説が始まると、まるで映画を観ている気分ではなく、どこかの講義に参加させられている気分になってしまう。



嫌な予感は当たった。




「へ~え」、「ほぉ~」とは感心しても、それまでのラングトン教授の逃走劇の緊迫感は、ここで一気に消えてしまったのだった。



『ダヴィンチ・コード』の小説は素晴らしい。


素晴らしいけど、映画には向かない原作もあるのだ。



監督のロン・ハワードは原作の『ダヴィンチ・コード』を呑み込んで、そして1回バラバラに解体すべきだった。




そうして削り取り、削り取り、再構築していく。

映画と小説は別物と割りきって。



でも、そこまでするには、ベストセラーゆえ世間の悪評が怖かったのだろうか。

残念ながら、星☆☆である。