2021年4月21日水曜日

映画 「ロリ・マドンナ戦争」

1973年 アメリカ。




《ロリ・マドンナ》って何だ?


《ロリコン》?で《マドンナ》って事?


驚くなかれ、これ名前らしい。



「お前が『ロリ・マドンナ』なんだろう?!」


乗り継ぎの為に、人気のないバス停で降りて、次のバスを待っていた『ルーニー』(スーザン・ヒューブリー)は、目の前に停まったおんぼろトラックから降りてきた男二人組に、突然拉致された。


拉致したのは、フェザー家の長男『スラッシュ』(スコット・ウィルソン)と、禿げていてザンバラ髪の気持ち悪そうな弟の『ホーク』(エド・ローター)。


男たちは有無を言わさず、自分達の家までルーニーを連れてきたのだ。



今、ルーニーの目の前にいるのが、男たちの父親で、これまた禿げてる上に、でっぷり肥っていて貫禄充分の『レイバン・フェザー』(ロッド・スタイガー)。


そのレイバンが、こうして威圧的に質問しているのである。


「人違いよ!私は『ルーニー』よ!!役所に電話して問い合わせればいいわ!!」


「嘘だ!!それにうちには電話なんてない!」(どんな家だ!)


ルーニーが見渡せば、今いるこの家もボロボロ朽ち果てた状態で(なるほど…)電話なんてないのも、妙に納得してしまう。


ルーニーを取り囲むように、先程ルーニーを拉致してきた男たち以外にも、何人か同じような年頃の男たちがいて、台所では老けたおばあさんのような容姿の女性もいた。


(あれが母親で、これ、全部がこの人の息子たちなのかしら?)


その中で、一人だけハンサムで、この場に場違いそうな青年の姿がルーニーの目に留まった。


『ザック・フェザー』(ジェフ・ブリッジス)である。


(この人は、なんかマトモそうだわ……)


そんなルーニーの前で、レイバンの執拗な質問は、まだまだ続いており、目の前に手紙が差し出された。


「これはお前が書いた手紙だろう?!」


文面には、ルーディーなる人物に宛てて、「朝、8時のバスで着くわ。《ロリ・マドンナ》より」なんて言葉が書かれていた。


「これは私の筆跡じゃないし、なんなら目の前で書いて見せましょうか?」


「筆跡なんて、いくらでも変えられる!!」



もう、何を言っても聞く耳無しの頑固オヤジ!!

いったい何なの?!この人たち?!


それにしても、私は、この手紙の人物《ロリ・マドンナ》に間違えられて、ここに連れて来られたんだわ……いったい、この《ルーディー》とか、《ロリ・マドンナ》って誰なの?……



そのルーディーとは、フェザー家の近隣に住んでいる《ガットシャル家》の息子だった。


元々、この広大な土地一帯はフェザー家が所有していたモノだったのだが、税金滞納で、その半分を《ガットシャル家》が買い取り、数年前に越してきたのだ。


だが、自ら招いた事とはいえ、それを認めたくないフェザー家の家長レイバンは、「ここから出ていけ!」だの、あくまでも強気な姿勢を崩さない。


ガットシャル家はガットシャル家で、正当な権利として、この土地を買い取ったのだ。


それに文句を言われる筋合いでもなく、いつまでも土地の牧草地を明け渡さないレイバン・フェザーに向かっ腹を立てている。


ガットシャル家の家長である『パップ・ガットシャル』(ロバート・ライアン)や子供たちの怒りも、もはや頂点!(先日、飼ってたブタがフェザーの連中に盗まれたばかりなのだ)



そんな時、息子のルーディーが思いついたのだ。


「俺が、架空の婚約者《ロリ・マドンナ》を創作して、彼女が『バスで会いに来る』なんて嘘の手紙を出すんだ! 

アイツらバカで単細胞だから、こんな罠にも気づかないでノコノコ手紙を盗みにやって来るさ。 

そして誰も来ないバス停で待ち続ければいいんだ!その隙に蒸留所に繋いであるブタを取り返す!」



はたして、ルーディーの予測通りにフェザー家は、ニセの手紙を盗み読むと、おめおめとバス停にやって来た。


ただ、誤算だったのは、誰も降りないはずのバス停に、運悪くルーニーが現れた事だったのだ。



ブタをなんとか一匹だけ取り戻し、ついでにフェザー家の蒸留所をメチャクチャに破壊して、清々した気持ちで帰ってきた息子たちから、勘違いで連れていかれたルーニーの話を聞いたパップ・ガットシャルは青ざめた。


全く関係ない女の子を巻き込んでしまったのだ!


「これは何とかしないと……」


そんな父親の心配をよそに、子供たちは「ほっとけばいいんじゃねぇの~」とノンキに構えている。



そして、蒸留所をメチャクチャにされたフェザー家は、またもやカンカン!


両家の争いは、徐々にヒート・アップしていくのであった………。



映画評論家の町山智浩さんが紹介している、これも《トラウマ映画》の1本である。


このblogでも、《トラウマ映画》のいくつか観てきて、「これは傑作!」ってのもあれば、「これは、DVD化されなくて当たり前だろうなぁ~」なんてのもあり、自分の評価は五分五分。


この『ロリ・マドンナ戦争』にしても、あんまり期待もしていないで、「まぁ、とりあえず観てみるか…」くらいの軽い気持ちでした。



そして、………なんとも「ヘンテコな映画だなぁ~」ってのが率直な感想。



あんまり話としては、救いようもない凄惨な話なんだけど、何度か観てみると、不思議と笑いどころもあるのに気がついたりして………


噛めば噛むほど、味がしてくるようなスルメみたいな映画ってところでしょうか?(この表現もどうなんだろ?)



それに、この映画、けっこう有名どころの俳優たちが出ていて一見の価値はありかも。


ロッド・スタイガー(夜の大捜査線)やらロバート・ライアン(特攻大作戦)やら……


若いジェフ・ブリッジスやらも出てるし、ゲイリー・ビジーなんてのも。(ガットシャル家の息子のひとり)




そんな中で、私が、この映画でも、ひときわ目をひいたのは、エド・ローターなのでした。



エド・ローターといえば、イヤな悪役、汚れ役を専門にやってる俳優なんだけど(チャールズ・ブロンソンの『デス・ハント』もご覧あれ)、この映画では、その汚れ役も群を抜いて強烈なインパクトである。


禿げてるだけでもインパクト大なのに、残ってる後ろ毛は、ザンバラ縮れ状態。


痩せてガリガリで、肉がなくて細い足。


これじゃ、見た目、《エガちゃん》じゃないですか!!(笑)



こんなエガちゃんじゃない!エド・ローターはキモさも大爆発。



妄想がいっぱいに膨らむと、頭の中に人々の声援や喝采の声が聴こえてきて、蒸留所でブタ相手に、ひとりコンサート。(キモ~)


素っ裸になると、女モノのブラジャーをつけて、ショーツを穿いて、おてもやんの化粧をやりだす『ホーク』(エド・ローター)。(オエ~)



そこへ通りかかった兄の『スラッシュ』(スコット・ウィルソン)とふざけあうと、その格好のまま、二人抱き合って、グルグル転げまわる。(何?この絵面………もう、書きながら自分でも段々気持ち悪くなってきた (笑) )



そんな場所へ、ガットシャル家の末娘『シスター・E』(ジョーン・グッドフェロー)が、運悪く現れた。


二人の野獣の本能はメラメラで、二人がかりで襲いかかってくる。


「イャアーーーッ!!」


だが、押さえつけながらのスラッシュのキスを段々、自ら、せがむように受け入れてしまうシスター・E。(?)



そんな二人に、「俺も」とばかりに、ホークが覆い被さろうとした瞬間、


「イャアーーーッ!!『あなただけは』絶対にイャアーーーッ!!」


と大絶叫するシスター・Eなのだった。




……………………《イケ面》ならよくても《キモ面》はお断り。(このシーンに複雑な女心をかい間見てしまう私である)



結果、娘を傷物にされたパップ・ガットシャルの怒りは猛烈になり、この後は、両家が血で血を洗うような凄惨な抗争に発展していくんだけど ………


こんな中で、『ルーニー』と『ザック』(ジェフ・ブリッジス)は相思相愛になる展開もあるのだが、観終わってみれば、エド・ローターの《キモさ》だけが印象的に残る映画。



これをトラウマと呼ぶのなら、ある意味、本当にトラウマかも (笑) 。


今回は星での評価はご勘弁を。


これを誰にでもオススメしていいものやら……。


《キモさ》の扉の奥を、少しだけ覗いてみたい方は、ご覧あれ。(ただし責任は持てませんけど (笑) )


お粗末さま!


2021年4月18日日曜日

映画 「肉体の遺産」

1960年 アメリカ。





アメリカ南部のテキサスに広大な土地を所有する富豪『ウェード・ハニカット』(ロバート・ミッチャム)。


今日も朝早くから、使用人たちを引き連れて、沼にやって来ては、趣味の狩猟を楽しんでいる。


そんな時、ウェードの側にいた使用人『レイフ』(ジョージ・ペパード)は、何かの不審な気配に気がついた。


「危ない!!」


レイフがウェードを押し倒し、ウェードを狙った銃弾はギリギリ肩をかすめた。


慌てて他の使用人たちが、狙撃者を捕まえて引っ張ってくると、その男は別に悪びれた様子でもない。


憎悪をたぎらせた男は、ウェードをキッ!と見据えると、

「俺の女房に手を出すな!!」

と言い放った。



そう……ウェードは狩猟以外にも、町中の女たちに手を出す《女漁り》が趣味だったのだ。


肩を撃れても、どこか余裕をみせるウェードは「こんなのは唾でもつけておけば治る」と言い、撃った男を咎めもしないで、即、解放させた。


それでも、(まぁ、撃たれたんだし、痛いしで)レイフに連れられて町の病院へ直行。


町医者には、「もう、女漁りもいい加減にしないか!今度は命がないぞ!!」とガミガミお説教される。


そんな説教にも「フフン…」と、まるで聞く耳なしのウェード。


手当てが済むと、レイフはウェードを屋敷に送り届けた。



「誰かいないか?!」


左腕を吊っているウェードが広間で叫ぶと、妻の『ハンナ』(エリノア・パーカー)が現れた。


ハンナはウェードの怪我を見ても、表情すら変えない。


「あら、何か御用かしら?」


「怪我をしてるんだ、気遣ってくれないか」

ウェードが着ている、血だらけのシャツを引き裂き、強引に脱がしてやると、ハンナは、それを燃え盛る暖炉にポイ!と放り投げた。


長年、ウェードの女遊びに苦しめられ、もう、ひと欠片の愛情すら残って無いのだ。


(どうせ、どっかの女をたぶらかした報いで、こんな目にあったんでしょ……)


何も言わなくても、ハンナの冷やかな目は、無言でそれを語っている。



こんな冷えきった夫婦生活に、ハンナが忍耐強く耐えているのは、ただひとつ……一人息子のセロンの為だった。


ハンナが溺愛している、17歳になった青年『セロン』(ジョージ・ハミルトン)。


だが、蝶よ花よで、あまりにも大事に育てすぎたのか……温室育ちのセロン青年は、まるで世間知らずのお坊っちゃま。


今日も借地人のオッサン連中にからかわれて、馬鹿にされて帰ってきた。


「もう、こんなのはイヤだ!僕に狩りを教えてよ!!」

セロンは父親のウェードに懇願した。


「正気か?お前の事に口出ししないのが、母さんとの約束だ」


「男になりたいんだ!」


真剣な息子の表情にウェードも心を決めたようだ。

「なら、お前の集めてる切手やら蝶やらを全部捨てるんだ!」(笑)



ウェードは猟銃の撃ち方を教えてやると、次の日からレイフをお供に、息子セロンの狩りの特訓がはじまった。


どんどん狩りの魅力にハマっていくセロンに動揺を隠せない母親のハンナ。


「あの子には手を出さない約束よ!」

ハンナの直訴も届かず、ウェードの予想を遥かに越えて、セロンは射撃の名手になっていく。


そして、町ではイノシシが現れ、田畑を食い荒らす被害が続出しはじめた。


「何とかしてくれないか?!」

小作人たちが集団でウェードの屋敷にやって来ると、皆で訴えた。


(ウェードなら仕留めてくれるかも……)の期待をよせて……


だが、ウェードが口にしたのは、


「イノシシ狩りは息子のセロンにやらせる!」だった。


(エェーッ??あの、お坊っちゃんのセロンにぃー?!無理!無理!!)


だが、小作人たちの当てはハズレて、セロンは一発でイノシシを仕留めてしまった。(ゲッ!( ゚ロ゚)!!マジ?!)


「おめでとう、お前もこれで《立派な男》だ!」


やっと少し自信を持てたセロンの為に、屋敷では盛大に祝おうと、仕留めたイノシシを振る舞うために《イノシシ・パーティー》なるモノが開かれる事になった。(イノシシの丸焼き。美味しいのかね?)


そんなパーティーに、かねてから気になっていた女の子『リビー』(ルアナ・パットン)を誘いたいセロン。


でも、……まだまだ内気なセロン青年は自分から、とても声をかける勇気がない。(恥ずかしいよ~、無理!無理!)


「仕方ねぇなぁ~」


渋々、見かねた使用人のレイフは、恋のキューピッドよろしく、二人の仲介役になるのだが………



ロバート・ミッチャム目当てで観た『肉体の遺産』。


物語としては、重々しくない大河メロドラマって感じだろうか。


150分って時間は、(けっこう長いなぁ~、面白くなかったらどうしよう…)と思っていたけど、(時間が経つのも「アッ!」という間)面白かったです。



監督はヴィンセント・ミネリ


ヴィンセント・ミネリ作品は、大昔にジーン・ケリー主演の『巴里のアメリカ人』を観ていて、今回久しぶり。(まぁまぁ面白かったと思う)



この物語、全ては『ウェード』(ロバート・ミッチャム)が根っからのスケコマシであった事が、原因で巻き起こす悲劇。


使用人の『レイフ』(ジョージ・ペパード)は、実は『ウェード』(ミッチャム)が他の女に産ませた私生児なのだ。


お坊っちゃま『セロン』(ジョージ・ハミルトン)は知らないが、セロンとは異母兄弟の間柄なのである。(母親はもちろん知っていて、尚更、『ウェード』(ミッチャム)を憎んでいるのだ)


まぁ、クズみたいな最低の父親なのである。



当時の《バッド・ボーイ》なるイメージで、こんな最低な役柄がまわってくるのも、しょうがないといえば、しょうがないのだけど………。


でも、実際のロバート・ミッチャムは、真面目で、奥さん一筋の愛妻家だったので、この役柄とは真逆と言ってもいいくらいなのである。(結婚も1回だけ)



役柄と真逆なのは、ミッチャムだけではない。



この内気で世間知らずのセロン役のジョージ・ハミルトン、彼もこの役柄とは、まるで真逆のプライベートなのだ。


実際のジョージ・ハミルトンが、生粋の《女ったらし》だったのは、有名な話だ。



その華麗な女性遍歴なんて、ズラズラ挙げてもお釣りがくるくらい見事な名前が並ぶ。


エリザベス・テイラーやら、アメリカ大統領の娘やら、あの!マルコス大統領婦人、イメルダ・マルコスやら、ヴァネッサ・レッドグレーブなどなど……(しかも大物ばかり。こんな純朴そうな青年がねぇ~)




有名なエリノア・パーカーの芝居を初めて、じっくり観たかも。(綺麗な人。17歳の息子がいる役は勿体ない気もする)



ジョージ・ペパードは、この後にオードリー・ヘプバーンとの共演『ティファニーで朝食を』で大ブレイクするのだが、やっぱり若い頃のペパードは格好いい。


この物語、レイフ役のジョージ・ペパードが一番に美味しい役で、実質は影の主役って言ってもいいかも。



私生児として、父親の『ウェード』(ロバート・ミッチャム)には息子とは認められず、甘んじて使用人の立場に収まりながらも、異母弟の『セロン』(ジョージ・ハミルトン)を憎むこともしないで、心底気づかうことの出来る『レイフ』(ジョージ・ペパード)は、「どんだけ人間が出来てるんだ!!」と、褒めちぎりたいくらいに感心しきりである。



もう、ミッチャムもエリノア・パーカーもジョージ・ハミルトンもおいてけぼりで、物語が進むにつれて、私、ジョージ・ペパードだけに肩入れしながら夢中になって観ておりました。


「こんなレイフが幸せにならなくてどうするの?!」なんて思っていたら、最後の最後で救われた。


特に、映画のラストシーンでは、ジョージ・ペパードの気持ちに光が射すようで、なぜか清々しい余韻が残る。


けっこう見応えのある傑作ですよ。

時間の充分ある時にオススメしておく。


父親はクズなのに、全く憎みあわない異母兄弟の物語も珍しい。


星☆☆☆☆。

※ただ、邦題は、原題名の『Home from the Hill』(丘からの家)の方が、ずっといいかもね。


2021年4月15日木曜日

映画 「手錠のままの脱獄 《トニー・カーティス編》」

1958年 アメリカ。




トニー・カーティスも、この映画『手錠のままの脱獄』では名演技を見せている。


手錠の鎖に繋がれたままシドニー・ポワチエと川に流されながら泳ぎきるなんて、本当に命がけだ。(片手を鎖に繋がれて、片手しか使えないなんて実際に泳げるモノじゃないって)


けっこうハードな場面を要求するスタンリー・クレイマー監督である。(走っている列車に飛び乗らせようとしたり、俳優も命がけだ)



W主演と銘打っている『手錠のままの脱獄』であるが、当時のスタジオ・サイドは、シドニー・ポワチエよりは、たぶんにトニー・カーティスの方に肩入れしていたと思う。


声にこそ出さなくても、彼が《白人》であるが故だ。



それまで、端正な顔立ちと共演者たちに恵まれる幸運で、瞬く間にスター・ダムに駆け上がってきたトニー・カーティス


ロバート・ミッチャムが蹴った、このジョーカー役で

「何としてもオスカーを手に入れたい!」

と熱望していたはずだ。(ミッチャムに言わせれば「《白人と黒人が鎖に繋がれる》なんて有り得ない!」と言う理由で断ったらしいが)


だが、結果はシドニー・ポワチエと同じく、アカデミー賞では主演男優賞のノミネートだけに終わった。


そして、これ以降は全くアカデミー賞やゴールデン・グローブ賞など、名だたる賞には、生涯、縁がなかったトニー・カーティス。(シドニー・ポワチエは後年、『野のユリ』で、黒人初のアカデミー賞主演男優賞に輝いている)



これまで、このblogでも何本か、トニー・カーティスの出演する映画を観ていて、それらを取りあげている自分は、その理由が段々と分かってきたような気がする。



決して、彼の演技が下手くそだからとは思わない。

むしろ、演技は上手い方だと思う。



ただ、それらはトニー・カーティスと対峙する《素晴らしい受け手》に恵まれるか、どうかでガラリと変わるのだ!



彼の代表作をズラズラ~と挙げてみても、それは見るも明らか。


バート・ランカスターと組んだ『空中ぶらんこ』。(他にもランカスターとは何本かあるらしい)


ケーリー・グラントと組んだ『ペティコート作戦』。


ジャック・レモンと組んだ『お熱いのがお好き』などなど……



もちろん、一枚看板で主役を演じた作品にも良いモノはあるだろうが、これらの個性豊かな俳優たちとタッグを組んだ時こそ、彼の本領は、存分に発揮されるのである。



『空中ぶらんこ』では、バート・ランカスターのアクロバットに懸命についていこうとするし。(これについていけるのも並大抵の事じゃない)


『ペティコート作戦』ではケーリー・グラントがとぼけた表情をすれば、それに呼応するかのような、おどけた演技をする。



『お熱いのがお好き』では、ジャック・レモンが振りきった女装演技で大笑いさせれば、それにジト目で軽いツッコミを入れたりもする。



彼は個性的な俳優と組みさえすれば、それに牽引されて、自分の中に隠れている資質を、上手く引き出せる事ができるのだ。



根が素直で従順な性格なんだろうか………ある意味、特異な性質。


しかも、これが、相手が女優だと、あまり上手くいかないのだから、つくづく変わっている。



自分自身の、こんな性質をトニー・カーティスは分かっていただろうか?


分からなかっただろうなぁ~。


だが、何人かの映画スタッフたちは気がついていたかも。


その証拠が、これらの作品たちなんじゃないだろうか。



この『手錠のままの脱獄』にしても、シリアスで重厚な、シドニー・ポワチエの演技に牽引されている様子は、素人ながらも分かってしまう。



それが決して悪いとは思わないし、逆に良い効果を挙げている事も分かるのだが、《主演男優賞》を取れなかったのも分かるし、《ノミネート》で終わったのも充分に納得してしまうのだ。



彼は良い意味で、最高の《No.2》なのだ。



ただ、彼がダイヤモンドのような輝きを持っていても、暗闇では自分自身で光る事は出来ない。


アクの強い個性派俳優たちの光に晒されてこそ、ダイヤモンドは輝きをみせるのである。



こんな性質を彼が充分に自覚していて、助演に甘んじていれば、とっくにアカデミー賞の助演男優賞くらいは取れていたはずである。



だが、与えられる役割は、主演かW主演。


観る側は良くても、本人にしてみれば、俳優人生を重ねていくほどに、訳の分からない不安さで苦悩したんじゃないだろうか。



自分自身が歳をとっていけば、自分を引き上げてくれるような先輩俳優や同世代の俳優たちは、どんどん、目の前から居なくなっていくのだ。



もう、どうしていいのか分からない。


そんなモノを、自分よりも年下の俳優連中にゆだねるのも、もはや無理。


ベテランと見られるほどのキャリアは、それを容易に許せなくなっていくのだ。(「俺の芝居を上手く引き出してくれよ」なんて甘えられるものですか。)



人知れず、後年は、こんな苦悩に悩まされたんじゃないか………と、自分なんかは想像してしまう。(晩年は容姿の変化とともに、俳優業も徐々に衰退していったしね)



やっぱり主演という地位は格別なのだ。



主演を張れる人は、常人とは違うような《何か》を持っている人。


ただ、そこにいるだけで、常に全身から周りに向けて、放射状に《何か》を放っているような……そんな雰囲気を漂わせているのだ。



そんな特別な人物たちが、トニー・カーティスが関わってきた、


バート・ランカスターだったり、

ケーリー・グラントだったり、

ジャック・レモンだったり、


シドニー・ポワチエだったりするんじゃないのかな。



この映画『手錠のままの脱獄』を観てみて、内容よりも、主演の二人に想いをはせての、自分なりの考察でございました。(本当に、今回、あんまり映画の内容語ってないなぁ~)



読んでくれた人ありがとう。

長々とお粗末さま

2021年4月14日水曜日

映画 「手錠のままの脱獄 《シドニー・ポワチエ編》」

1958年 アメリカ。





『手錠のままの脱獄』を観た。


タイトルからもお察しできるように、黒人『カレン』(シドニー・ポワチエ)と白人『ジョーカー』(トニー・カーティス)の二人が、お互いの手錠に鎖を結びつけられたまま逃亡するお話である。



この映画、違う人種間の友情を描いた映画として、あまりにも有名すぎて、観る前から、ほぼ大体の粗筋を知ってしまっていた。


この映画が、ロベール・ブレッソン監督の『抵抗』のような、緊迫感ある《脱獄映画》なら嬉々として、とっくに観ただろうに、そんな風じゃないのは分かりすぎるくらい分かっていたので、ついつい、今日まで二の足をふんでいたのである。


それに、ことは、デリケートな、昔からアメリカが抱えている《人種間の問題》が関わってくるし……。



この映画も、ただの《脱獄映画》にならないのは、当時のアメリカの世相を充分に反映しているからかもしれない。(まぁ、最後、脱走は失敗に終わるしね)


「黒人と白人の間でも、友情は育つし、きっと分かりあえる!」


この手の主題を掲げた映画が、当時のアメリカでは次々と作られはじめた時期だったのだ。


その背景にあるのは、きっと、黒人たちの不満に脅威を感じはじめた白人たちが、それを少しでも和らげようとする、ある種の試みだったんじゃないだろうか……自分なんかはそう思っている。



そうして、この手の映画に選ばれたのが、デビューして間がない、若い黒人青年シドニー・ポワチエだったのだ。


シドニー・ポワチエは、《白人が家に招きたくなる黒人》とまで言われた人だった。


礼儀正しくて、穏やかで、人当たりの良さそうなシドニー・ポワチエ。


当時の撮影所では、黒人はポワチエだけで、他は皆、白人ばかり。


そんな中で、好奇の目にさらされながら演技しなければならないのだから、ポワチエの受けたプレッシャーは計り知れない。



だが、この映画『手錠のままの脱獄』でポワチエは、その演技力を高く評価され、いきなり躍進する。


アカデミー賞こそ主演男優賞のノミネートに終わったが、ベルリン国際映画祭と英国アカデミー賞では、見事に主演男優賞に輝いたのだった。



映画のラスト、『ジョーカー』(トニー・カーティス)を抱きかかえながら、迫り来る保安官に向けて、声を張り上げて歌い続ける『カレン』(シドニー・ポワチエ)に胸が熱くなる。



怒鳴るとか、罵倒するとかじゃなくて、歌う事で《自由》を《権利》を懸命に主張するところに、この映画が、「ただの人種差別的な映画とは違うぞ」と、思わせてしまうのだ。



一躍、その演技力で黒人唯一のスターになってしまったシドニー・ポワチエ。


ただ、この映画での飛躍はポワチエにとって、良いスタートでもあったが、これより先、苦しめられ続ける映画人生の幕開けでもあった。



なんせ、来る役、来る役が同じような役ばかり。



白人市場主義の中にシドニー・ポワチエを紛れ込ませて、最初は反目しながらも次第に和解していく……


『いつも心に太陽を』、『招かれざる客』、『夜の大捜査線』……


それらはポワチエの傑作といわれるモノだが、どれもこれもが同じような感じのする映画ばかりなのである。



当時としては、唯一の黒人スター、ポワチエを光らせる為にはしょうがなかったのだろうけど、《黒人と白人が手に手をとって、いつかは、きっと分かりあえる》なんて主題の映画も、こんなに続けば、観ている方も、ちとウンザリしてくるかも。


次第にハリウッド内ではポワチエの受けは良くても、黒人たちの間では、

「白人に平気で尻尾をふりやがって…」なんていう陰口が囁かれるようになってくる。


こんな外野の声が、本人の耳にも入ってきたはず。



苦しかったろうと思う……


たった一人で、それに耐えながら映画に出続けることも……。



何事も、一番最初に先陣をきって進むというのは、大変な重圧であり困難な事なのだ。


黒人唯一の映画スター……



だが、ポワチエはこんな状況に腐らずに、次第にこんな風に考えはじめたのじゃないだろうか。


(いつかは、きっと自分の後に続く黒人俳優たちが出てくるはず……それまで踏みとどまるのだ! 黒人が《異種》扱いされずに、自由に役を選べる……そんな日が必ずやって来る! それまで私は耐え抜くのだ。私はそんな彼らの《土台》になる!!)


何だか、自分なりの解釈でシドニー・ポワチエの心の声を書いてみたけど、案外コレ、的を得てるんじゃないかな?


そんな風に思ったか、どうか分からない(?)が、ポワチエに続く黒人俳優たちは、この後に続々と現れだした。


中でもデンゼル・ワシントンは特に目をかけていて、先輩黒人俳優として助言していたくらいである。(これは本当)


そんな黒人スターが世に出るキッカケになった、この『手錠のままの脱獄』は、ある意味、黒人俳優たちにとっては、バイブル的なモノじゃないのかな?


星☆☆☆☆であ~る。


そして、次回は、もう一人の主役であるトニー・カーティスについて。


これまで、何本か、このblogでもトニー・カーティスが出演している映画を挙げているが、この人に関しては、自分になりに、多少、思うところもあって……


そのあたり、ゆっくりと書いていこうと思うのであ~る。

2021年4月10日土曜日

映画 「アウトローブルース」

1977年 アメリカ。




出所まで、後1ヵ月。


『ボビー・オグデン』(ピーター・フォンダ)は刑務所で、ギター片手に作曲と歌う事に没頭していた。


刑務所長もボビーの才能にホトホト感心していて、最近じゃ応援してくれている。(どんだけ優しくて和やかな刑務所なんだろ)



そんな刑務所に、スター歌手の『デュプレ』(ジェームズ・キャラハン)がバンド仲間を引き連れて慰問公演にやって来た。(本当に刑務所なんだよね?ここ?!)


「これはチャンスだ!」とばかりに、優しい所長はボビーを連れてくると、デュプレにお願いして、「是非、このボビーの歌を聴いて頂けませんか?」と自ら掛け合った。


「……まぁ、聴くぐらいなら…」


ブスッとしたデュプレがお愛想で言うと、ボビーを特設ステージの舞台上にあげる所長。



そして、ボビーの歌が始まった。

自ら作詞作曲したカントリー・ソングを朗々と歌い上げるボビー。


舞台上の他の演奏者やコーラスたちも、そんなボビーの歌に聞き惚れて感心している。


そして、あのデュプレさえも……


デュプレの目が妙な輝きをみせた。



しばらくすると、ラジオからは身に覚えのある曲が流れ出す。


「これは俺の作った曲じゃないか?!」


ボビーの歌がラジオから流れてきたのだ……だが、そのメロディーにあわせて歌っているのは、慰問に来ていた、あのデュプレ本人なのである!!


デュプレは、堂々とボビーの曲を《盗作》したのだ。


(許せん!!……)



そして、やっと出所したボビーは、すぐさま、その足でデュプレのいるスタジオに乗り込んでいった。


警察所長と懇意にしていて、曲も大ヒットしているデュプレは、バンド仲間に囲まれて、ヘラヘラと終始ご満悦。

テレビカメラまで来ていて、もっか取材中である。


そんな場所へ、突然、乗り込んでいったボビーは、開口一番デュプレの前に行くと怒鳴り散らした。


「あれは俺の作った曲だ!!」


ボビーを目の前にしても、悪党デュプレは、ひるむ様子すらない。

「何の事だか知らんなぁ~……あれは俺の曲だよな?なぁ、みんな?!」


デュプレの取り巻きたちは全てデュプレの味方なのだ。


「そうだ!そうだ!!」

多勢に無勢……ボビーの状況は極めて不利だ。


「さっさと、そのドアから出ていきな!!」


だが、ボビーは自分の大切なギターを壁にソッと置くと、スタジオ内で大暴れしはじめた。

録音スタジオのガラスには椅子が投げられて、木っ端微塵。


「何すんだ?!このヤロウー!!」


ボビーとデュプレは掴みあいになり、それを取り巻きたちが引き剥がそうとしている。


揉み合いになっていると、床下に誰かの銃が「ボトンッ!」と落ちた。


咄嗟に拾いあげたボビー、その銃は暴発すると弾丸が発射され、デュプレの右足を撃ち抜いた。


「ギャアアアーッ!!!」

デュプレの絶叫に、たまたま近くにいた警察たちも駆けつけてくる。


ボビーは自分のギターを手に取ると、人混みの中を、一目散に走って逃げた。



出所したばかりで、すぐさま逃亡者となってしまったボビー。


そんな不遇な立場のボビーだったが、そんなボビーを神様は見捨てなかった。



あの慰問に来ていたコーラスグループの一人、『ティナ』(スーザン・セント・ジェームズ)はデュプレの盗作を良しとせず、ボビーの生歌を売り込もうと、アチコチのラジオ局やレコード会社に根回ししはじめたのだ。


やがてボビー・オグデン本人のレコードが発売されると、たちまちにヒット・チャートで上昇しはじめ、逃亡中のボビーは巷では有名人、時の人になってしまう。



そんな逃亡中のボビーは、あろうことか、湖の側に建つティナのコテージに偶然、逃げ込んできたのだった。


運命はティナとボビーを引き合わせると、二人はたちまちに………。



久しぶりのピーター・フォンダである。


ピーター・フォンダが映画に出ると、画面からは、たちまち溢れでるB級感。


それでも、たま~に

「そろそろピーター・フォンダの映画が観たいなぁ~」

と思わせてしまうのは、やっぱり、そんなピーター・フォンダが、自分は好きなのかもしれない。


なんせ、どれもこれもお気楽に観れるしね。


疲労回復には、ピーター・フォンダの映画は、もってこいなのだ。(こういう需要っていうか、効果がある事を最近やっと知った次第である)


特に、この物語は現実じゃ絶対に有り得ないくらいの《夢物語》だ。



逃げ込んだティナのコテージで、ボビーが何を言い出すのかと思えば、いきなり《ナニ》の提案をしてくることに、ひたすら(ビックリ)驚く‼


「刑務所に6年間いて、女性に飢えてるんだ……君なら下手くそな俺でもリードしてくれるんじゃないかと……」(初対面の女性に、いきなりのこんな提案。普通なら、「ハァ?馬鹿じゃないの?!さっさと出ていって!!」になるに決まってる)


だが、ティナはそうならずに、こんな紛れ込んできたボビーに同情して、優しく受け入れてくれるのだ。(ありえない!)



こんな同情が、一変して愛情に変わると、二人は毎晩毎晩「好き!好き!」状態。



オマケに逃亡中にも関わらず、こんなボビーを売り出そうと、ティナは奮起しはじめる。


「絶対に今にヒットチャートで1位になるわよ!!」


レコード店に二人で出掛けていくと、ボビーのレコードが馬鹿売れしている。


「あの~ボビー・オグデンさんですよね?サインしてください!大フアンなんです」

たちまちにティーン・エイジャーの行列に取り囲まれて、ボビーはサイン攻め。


警察の包囲網をかいくぐりながら、二人は、こんな風にアチコチに出現しては話題をふりまきはじめる。



オマケに、曲の売り上げ金を寄付なんてするものだから、メディアは、すっかりボビー・オグデンの味方になってしまった。


警察はいつまでも逮捕出来ないボビーにイライラ。

病室では、脚を吊っているデュプレがボビーのニュースを観ながら、ひとり苦虫を潰したような顔をしている。


「あのヤロウ~、調子にノリやがってぇ~………」



多額の賞金をかけてボビーを追いつめようとするデュプレ。

さぁ、ボビーとティナ、二人の愛の逃亡はどうなるのか……?





ここまで、全ての夢が叶う夢物語みたいな話もお目にかかったことない。


刑務所から出所したばかりの犯罪者が、恋人と名声の両方を、いとも簡単に手に入れる話なんて…。(日本じゃ、どこに行っても白い目で見られるに決まってる)


しかも最後はハッピー・エンド。(盛大に結婚式まで挙げてしまう二人)



監督のリチャード・T・ヘイトンは、前年の『未来世界』でもピーター・フォンダとタッグを組んでいて、この映画でも連続の再タッグ。(気が合ったのか?)


それでも夢物語と割りきってみれば、これはこれで中々面白いし、楽しいかもね。(オカシイ~、ピーター・フォンダの映画で褒めたくなるなんて。だいぶ疲れているのかな? (笑) )



オススメしておく。(ピーター・フォンダの貴重な歌声も含めてね)

星☆☆☆☆。


2021年4月5日月曜日

人物 「ロジャー・ペンローズ」

(1931年~ イギリス)





知ってる人は知っている。

興味のない人には、まるで知られてないかも。



それでも彼は現代の偉人であり、大天才!


それが《ロジャー・ペンローズ》様なのである。


2020年度のノーベル物理学賞は、このロジャー・ペンローズ様が受賞した。


コロナ禍の中で、ノーベル賞の受賞式も、今回、ひっそりと行われていたけど、ペンローズ様の受賞は「やっとか…」と思うほどで、やや遅すぎる感じもしていたほど。


凄く過剰な持ち上げようだと思うだろうが、凄いお方なのだからしょうがない。



実は白状すると、無知な自分は、ペンローズ様の存在すら、ごく最近まで知らなかった。


私、昔から、版画家のマウリッツ・エッシャーのフアンだったので、エッシャーを通じて、知った次第なのである。



マウリッツ・エッシャー(1898~1972年)



エッシャーといえば《騙し絵》


美術にあまり興味がない人でも、エッシャーの騙し絵は、必ず、どこかで見たことがあるはず。(そのくらい超有名)



たとえば、この有名な代表作《滝》


頭上から落ちて流れる滝の水は、流れ流れて、重力なんてのを無視して、また元の頭上にまでたどり着き、また、同じように流れ出でる。


目で追いながらも、延々繰り返される、こんな不可思議な絵に、最初見た時は、心底おったまげた。


……まるで、脱け出せない迷宮に迷い混んだような気持ちにさせてしまう。



この名作《上昇と下降》も同じ。

昇っても、昇っても、永遠にたどり着かない、堂々巡りの階段。(何やねん、これ)



こんな摩訶不思議な空間を、緻密な計算で、しかも版画で描いてしまうエッシャーさん。


どれもこれも、一度見たら素通りなんてできない程、「ジーッ」と見入ってしまう傑作ばかりである。(あ~《エッシャーの個展》があれば見に行きたいなぁ~)



こんなエッシャー、

「私は芸術家ではない、ただの版画家だ」と謙虚なコメントをしている。


(随分、遠慮深い人だなぁ~……)と思っていたら、その理由もやっと分かってきた。



エッシャーの絵には、元にある図案が、そもそもあったのだ。


絶対に有り得ない《不可能図形》……その図形を考案したのが、何を隠そう、

ライオネル・ペンローズ』と、その息子である『ロジャー・ペンローズ』の親子だったのである。(Oh!!( ゚ロ゚)!!)



親子で大天才の二人。


父親のライオネル・ペンローズは精神医学、医科遺伝学、小児科学、数学などなど……(他にも色々ある)の権威。(どんだけ頭が良いの?)


その子供たちも、やっぱり大天才たちばかり。


そんなライオネルの四人の子供たちの中でも、このロジャーは、特に別格。(他の兄妹たちも凄いんですよ)


ロジャーは数理物理学、数学、科学哲学に秀でているという大天才に成長していくのだ。



こんな親子は、(どういう頭をしているのか?)共同で、今まで見たこともないようなトンデモない図形を完成させて発表する。



それが《ペンローズの三角形》だったり、《ペンローズの階段》だったりするのだ。


《ペンローズの三角形》




《ペンローズの階段》


現実世界では、絶対に有り得ない不可能な図形。


他にも、親子が考案した図形はまだまだある。(《ペンローズ・タイル》なんてのもある)



エッシャーの版画は、このペンローズ親子が考案した図形に想像を膨らませたモノ。


しかも、ペンローズ親子はエッシャーの絵のアドバイザーでもあったのである。(あ~、だから謙虚なコメント。それでもエッシャーの残した版画の傑作たちが、決して色褪せることもないのだけれど)



こんな発明だけでも、もはや大発見なのに、天才と言われる人は、これだけでは終わりません。



今度は、ロジャー・ペンローズは、かの有名なアインシュタイン博士に、真っ向から対決を挑み、そして勝利するのである。


《アインシュタイン博士》



それが、

《相対性理論によってブラックホールの形成が証明されることの発見》なのだ。


 

相対性理論とは、アインシュタインが創始した理論なんだけど、一言で言うと時間空間に関する理論。(まぁ、凡人の自分には何が何やらチンプンカンプン)



ある日、天体物理学者のシュヴァルツシルト博士が、相対性理論のアインシュタイン方程式を解いてみると、その結果、《特異点》なるモノが存在することに気づいたのだった。



当時、アインシュタイン自身はこの《特異点》(ブラックホール)について、


「あくまで理論的な計算の結果出てきたもので、実在するものとは無関係」と判断してしまい、そして、1939年に発表した、自身の論文では、ブラックホールの存在を完全に《否定》したのである。



それに「待った!」をかけたのがロジャー・ペンローズ。



そんなアインシュタインが導き出した《ブラックホール否定説》を、同じように、相対性理論を生み出した方法や同じ計算方法を使って、ガラリと覆して見せたのである。


「特異点、つまり《ブラックホール》は相対性理論から、自然に導き出せるのだ!」と。



星の大きさが、一定の重さになると、その星が崩壊(大爆発)する。


すると、そこには《特異点》が誕生するのだ。



それが《ブラックホール》


あらゆる物質や光さえも呑み込み、一度入ると脱け出せない漆黒の穴。


それをアインシュタインの相対性理論を逆に使って、立派に証明してみせたのである。



もう、相対性理論やら方程式やら、天才同士の頭の中はどうなっているのやら……


とにかくロジャー・ペンローズはアインシュタイン相手に堂々勝利した。



そうして、今までの功績を認められて、ノーベル物理学賞を受賞したロジャー・ペンローズ様なのである。



自分たちが、目にするSF映画などにも、こんな物理学者たちの発見は大きく関わっているはず。


凡人の自分は、天才ペンローズ様の足元にも及ばないのは充分承知。

でも、その偉大さだけは、多くの人に知ってほしい。


こんなblogに記しておくことで、知るきっかけになった人ができたなら、これ幸いである。(おしまい)



※この文章を書くために、ここ数日間、ペンローズの三角形やらエッシャーの騙し絵やらを、ずっと考えていたせいか、トンデモない悪夢を見てしまった。


これが凡人である自分の限界なのかもね。

あ~、それにしても疲れたビ~。



2021年4月2日金曜日

人物 「サルバドール・ダリ」

(1904~1989年 スペイン)



♪《ダリ》だ!《ダリ》だ!《ダリ》だぁー!!(ガッチャマン風に)



《サルバドール・ダリ》である。


このblogも3年を過ぎると書いてる自分も、ややマンネリ気味。


今回はガラリと目先を変えて(読んでくれる人がいるか、どうか分からないけど)、シュールレアリストの画家《サルバドール・ダリ》について、チョコチョコっと書いてみようと思う。



その前に《シュールレアリズムとは》について、かいつまんで説明すると、

『理性による監視を全て排除して、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り』なのだそうだ。(Wikipedia参照)



まぁ~難しい言い回しだこと。



要するに、有名なピカソやら、岡本太郎のような、凡人たちが見ても「何じゃこりゃ?!まるで訳の分からない!!」のが、シュールレアリズムの画家たちが描く絵。


現実世界から離れた、自分の思い付きや考えを、第3者の目なんか気にせずに、キャンバスに描いていくのが、シュールレアリズムが目指す世界なのだ。


描く方も、そんなのを念頭に描いているのだから、見る側も、受けとり方は「どうぞご自由に!」って事を言いたいんだと、自分は解釈している。



でも、こういうジャンルの絵って「素晴らしい!」と大絶賛する者もいれば、「どこが良いのか全然分からない!」と毛嫌いする者もいたりして、評価は真っ二つに別れやすい。


かくいう自分も、この手のジャンルの絵画は、ちと苦手。



だが、そんな中で、《サルバドール・ダリ》の絵だけは別格に思っていて、わりと好きな方なのである。



有名なサルバドール・ダリの代表作、『記憶の固執』。


整然とした空間の中に、歪んだ時計が溶けるように垂れ下がっている、一見奇異な絵なんだけれど、綺麗な色使いや繊細なタッチで、全体的に落ちついた様子。


他のシュールレアリストたちのハミ出すような荒々しさとは、まるで違う……(案外、この人、繊細で常識人なのかも…!)なんて思わせてしまうのだ。


写真を見れば、目ん玉をひんむいて、長く伸ばしてあるカイゼル髭を、おっ立てたりして(水飴で固めてるらしい)、せいいっぱい道化てみせるダリなんだけど、これも何か複雑な気持ちの裏返しだったりして。


そんなダリの生い立ちを知ってみると、この道化ぶりも、複雑怪奇な絵も、何となくだが分かるような気もしてくる。



ダリには兄がいたらしいが、ダリが産まれる9ヶ月前に亡くなっていたらしい。


そして、ダリが産まれると親は、死んだ兄の名前をそのままダリに名付けたのだ。


「お前は死んだ兄の生まれ変わりなんだからな!」(まぁ~なんてドライな親なんでしょ)


ガーン!( ̄▽ ̄;)


(俺は死んだ人間の代わりか……それなら俺の存在理由って何なんだ?……)


こんなドライな親から産まれたとは思えないほど、生まれつき繊細な性質のダリは、こんな十字架を生涯抱えることになり、ひとり思い悩む。


美術的な才能はあっても、埋められない心の中にポッカリ空いた穴……。


有名な美術学校に入って、その才能が頭角を表しても、教師と対立して、とうとう放校処分にまでなってしまう。(荒れてた時期もありました)



そんな悶々とした気持ちをもて余す日々を送るダリだったが、ある日、運命の女性が目の前に現れた。


「この女性(ひと)だ! この人こそが自分が求めていた運命の女神!!」


その女性の名は『ガラ』……だが、このガラさん、すでにダリの友人と結婚している、れっきとした人妻だったのだ。


それでも諦めきれないダリは「好き!好き!」攻撃。


そんなダリの情熱にほだされて、ガラさんの気持ちもユラユラ揺らぐ。(まるで昼メロの世界 (笑) )



ドロドロの愛憎劇やスッタモンダがあった末、とうとうガラさんは離婚し、ダリが30歳になったとき、二人は、やっとこさ結婚したのだった。(ガラさんはダリより10歳上。姉さん女房である)


こんなダリは、ガラが1982年に亡くなるまで(ガラさん享年88歳)、ガラひとすじの猛烈な愛情だったらしいが、肝心のガラさんは若い男が好きで、たまにフラフラする時があったらしく、ダリは年中ヤキモキしていたとか。



で、その注目を集めるガラさんなのだが………





………………ごめんなさい!

欲目に見ても美人だとはいえないような容姿(アララ…ガックリ⤵)。



片や、サルバドール・ダリの若い頃は、「まるで映画スターじゃないか!」と思えるほど絶世の美男子なのである。



こんな美男子が、なぜにこんな女性に夢中になるのかねぇ~(まぁ、人の好みはそれぞれなんだけどさ~)


とにもかくにも、女神(?)を手に入れたダリは、それから本業である画家の仕事も絶好調!


次から次へと、後世に残るという傑作を産み出していくのである。(このガラさんが、ダリにとってはインスピレーションの源になるらしいのだから、ある意味、やっぱり幸運の女神だったんだろうな)




そして、こんな本業で絶好調なダリだが、意外にも、まるで畑違いな映画の世界でも大活躍しているのだ。



古くは1929年に公開された映画『アンダルシアの犬』は、有名なルイス・ブニュエル監督との共同制作。(私、この映画を怖くていまだに観れない。わずか21分の短編映画なのだが、●●を剃刀で切り裂く場面があると知ってしまい、想像しただけで「ゾゾーッ!」と震え上がってしまう。●●は牛の吹替を使ったらしいのだが、それでも生理的に、やっぱりダメだ)



ヒッチコックが監督した『白い恐怖』(1945年)でもサルバドール・ダリは協力している。


主人公グレゴリー・ペックが記憶喪失になって、その記憶を探ろうとして夢に出てくる場面は、ダリがデザインした摩訶不思議な空間である。(当時としては大がかりなセットだ)



いかがだったろうか?


自分の稚拙な文章でも、こんなサルバドール・ダリに興味を持っていただけただろうか。


少しでも興味を持っていただければ、これ幸いである。


幻想的なサルバドール・ダリの残した傑作に触れてみるのも、たまにはいいかもしれない。



ただ、シュールレアリズムの絵は、自宅に飾る絵じゃないなぁ~(こんなのを壁に飾った日には落ち着かないに決まってる (笑) )


長々、お粗末さまでございました。