2021年9月30日木曜日

よもやま話 「『スピルバーグの映画が苦手な理由』と、その考察」

 





どの写真でも笑顔のスティーヴン・スピルバーグ


もはや知らない人は誰一人としていない有名な監督であり製作者。



でも、私、この人の映画が昔から、大の苦手なのだ。


この人、映画の事を全て知り尽くしているくらい賢い人で、小狡い(こずるい)人だと、昔から思っている。



やらしい言い方をするなら、


こうすれば万人にウケる!

ってのが、ちゃんと分かっていて映画を撮っているのだ。



その「万人ウケ」の仕掛けに、とうの昔から気づいていた私は、世間が「今度のスピルバーグの新作は!」なんて大騒ぎしていても、冷静に傍観しておりました。



皆さん、映画を盛り上げる為には、どんなシーンを入れれば、一番に盛り上がると思います?


どうすれば、その映画が確実に《ヒットする!》と思います?


その問いに答えるなら、答えは簡単。(でも言っちゃっていいのかな?)



映画の中に、必ず追いかけっこのシーンを入れること。


これがあれば、確実に、その映画が盛り上がる。


そして、必ず《追いかけっこ》がある映画は、あまりコケる事はないのである。(こう断言する!)



これはスピルバーグに限らず、他の名だたる映画監督たちでも、ちゃんと知っている事だし、映画を撮る上での、最大の常套手段なのだ。



映画が中だるみしてきて、観客が「つまらないなぁ〜」と思う瞬間、この《追いかけっこ》のシーンを入れれば、観客の興味を、なんとか繋ぎ止められる。



007の映画なんてのが、その代表格だろう。

必ずといっていいほど、敵に追われるジェームズ・ボンドのシーンが、どの映画にも挟み込まれている。



これを、もちろんスピルバーグも知っていて、大いに自分の映画に利用する限り、利用した。


映画『激突』では、延々どこまでも追いかけてくる大型トラック。



ジョーズ』では、鮫が追いかけて襲ってくる。


ジュラシック・パーク』では、デカイ恐竜が襲ってきて、それに逃げ惑う人々。


インディー・ジョーンズ』なんて、一本の映画の中に、どれだけ、この《追いかけっこ》のシーンを挟んでいるか数え切れないくらいである。



それらが、次々にヒットしたのも、この追いかけっこによる割合が大きいのは、もう、この説明で充分お分かりになると思う。



でも、スピルバーグの場合、見た目の派手な、この《追いかけっこ》のシーンでも、他の監督たちの作品とは、どこか違うような違和感を、私、ずっと昔から感じておりました。



計算的で策略的なんだけど、そんなシーンを入れていても、この《追いかける側》と《追いかけられる側》、その関係性や理由がとても稀薄なものに見えたのである。



追いかけてくる《大型トラック》や《ジョーズ》、《恐竜》なんかに、とくに特別な《追いかける》理由なんかないのだ。


言うなれば、ただ《追いかけてくる》だけ。


インディー・ジョーンズのシリーズだけは、制作がジョージ・ルーカスで、脚本がローレンス・カスダン(白いドレスの女)だけあって、敵のナチスがインディーを追いかける《理由》は少しだけ存在する。(まだマシな方か)



こんな意味のない《追いかけっこ》も、初見のインパクトは強くても、2度目、3度目には飽きられて、年とともに風化していくというもの。



見た目だけで驚かすようなホラー映画が、まさにソレ。

繰り返し観る回数や長い年月に耐えられないのは、それが一番の理由なのだ。



そうして、自分が感じていたようなスピルバーグの《小ズルさ》や《計算高さ》を、誰も彼もが感じ始めてくる。



生前、あの淀川長治先生さえ、


「映画とは心の芸術、それをソロバン勘定で見せられて、もうウンザリした」


と、スピルバーグの『シンドラーのリスト』で、クソミソのコメントしている。



このスピルバーグ、「こうやれば万人にウケる」を今度はアカデミー賞を取るために、アカデミー会員たちに対して、猛然と発揮したのだ。



ユダヤ人の彼が監督して、重々しく撮った『シンドラーのリスト』は、もちろん一般ウケしなかったが、スピルバーグ的には大満足。


最初から、これはアカデミー賞を取るためだけに撮った映画なのだ。


興行収益なんて二の次、三の次。


「赤字が出ても、他の映画で、きちんと補てんすればいいだろうさ」


頭の中で、即座にソロバンを弾いているスピルバーグ。(その証拠に、この『シンドラーのリスト』と同年に『ジュラシック・パーク』をぶつけております。 (ともに1993年公開) )


この《したたかさ》、《がめつさ》、《策略的》というかなんというか……ある意味凄いわ(笑) 。(浪速(なにわ)の商人(あきんど)みたい)



こんなスピルバーグの策略にまんまとノセられた当時のアカデミー会員たちは、こぞってスピルバーグにアカデミー賞を与えてしまう。(このあたりからアカデミー賞の権威もガタ落ちになった気がする)



でも、この『シンドラーのリスト』を当時の勢いで、今、2021年に有難がって観返す人が何人いるのかねぇ〜。(私は観ないけど)



今では、そんなスピルバーグも製作にまわって、監督は滅多にしなくなった。(もう存分に稼いだだろうさ)



そして、そんな昔のスピルバーグ作品も、どんどん風化しつつある。



大人の男女のドロドロした愛憎劇もない、下ネタもない、腹を抱えて笑い転げられるわけでもない、殺伐とした息を殺すようなシーンもあまりない……子供から大人までの「万人ウケ」ばかりを狙った結果が、今の行き着いたスピルバーグ映画の評価。



「大人になったらスピルバーグ映画は卒業しよう」

なんてことを言う輩も、現在は増えている中、とっくに卒業していた私は、

「やっと、みんな目が覚めたか……」と一人ほくそ笑む。


長々、お粗末さまでした。


※それでもインディー・ジョーンズだけは面白いけどね。(少しのフォロー)

2021年9月26日日曜日

ドラマ 「殺人ブルドーザー」

 1974年  アメリカ。




6人の工事作業員たちが、岩だらけの整地作業を懸命にしている。


ここは大西洋の海に囲まれた絶海の孤島である。(リゾート計画?)



そんな場所へ、ある日、宇宙から隕石らしきものが落ちてきた。


この隕石は『未知の生命体』らしくて、青白い閃光を放つと、近くにあったブルドーザーに乗り移ってしまった。


宇宙人の魂が宿ったブルドーザーは勝手に動きはじめる。(どうもブルドーザーの前方にある2つのライトが目玉の役割みたい)


そうして、6人いる作業員たちを1人ずつ、まるで仕事人のように、じわじわと闇討ちしていく。(ブルドーザーのデカイ成りで、姑息にもスキを狙いながら殺してゆくのだから、性格は残忍でも、繊細かつ慎重なんだろう)



残されたのは、後二人。


やっと宇宙人が乗り移ったブルドーザーの犯行に気づくと、


「こうなりゃ、殺られる前にこっちからやってやる!!」と意気込む。



ザ・《パワー・ショベル》vs《殺人ブルドーザー》の闘い!



それは息を呑む壮絶な闘いとなっていく………。(チャン、チャン!)




最近、マジメな事を書きすぎたかもしれない。


ちょっと気持ちを一旦リセットしたくて、こんな映画を選んでみました。



とにかく、この映画はアホ映画。

超がいくつも付くくらいのくだらなさである(笑)。



だから、擁護しようもない。


思いっきり、こき下ろすだけこき下ろしてくださいませ。(あらすじを書きながらも、途中でアホらしくなってきたほどである)




テレビ映画として作られた、この『殺人ブルドーザー』には、一応原作らしきモノがあるらしいが、多分急ごしらえの作品。



その為か、低予算の匂いがプンプンしてくる。



設定では大西洋の孤島になっているものの、多分、海が見渡せるようなどこかの石切り場じゃないかな?



そんな場所にテントを貼って、いくつかの重機を持ちこむと、ハイ!撮影。



集められた俳優6人も、ほぼ無名の方々ばかり。(一応主役が、現場監督役のこの人らしいが、誰なんだ?コイツ?(笑) )



クリント・ウォーカーって人?(『特攻大作戦』にも出ていた?まるで覚えてない)



青白い光は、昔のアニメーション合成。



それにしても、


なぜ?宇宙人は、こんなに身動きが取りにくくて、厄介なデカブツのブルドーザーに憑依したんだろう?》(あっ!マジメに考えちゃダメだ!なんせアホ映画なんだから (笑) )



まぁ、とにかく、このアホみたいな設定で、大真面目に語るのも、一瞬で馬鹿馬鹿しく思えてしまうような、稀な映画なのである。



でも、こんな映画にも、やっぱりマニアックな固定フアンがいるみたいで、近年のDVD化には一部で歓喜の声が上がっているとか……(『捨てる神あれば拾う神あり』)



まぁ、分からない気もしないでもないけど。



小難しい映画に疲れた時には、こんな頭カラッポにして観れるのも必要なのかもね。



いちいち

「バッカじゃねぇのー!」、

「アホか!」、


ブルドーザー待ってないで、さっさと逃げろよ!(もっともだ)


と、ツッコミながらご覧あそばせ (呆れ笑) 。

2021年9月25日土曜日

人物 「『ノーントン・ウェイン』&『ベイジル・ラドフォード』」





ノーントン・ウェイン(左側)(1901年〜1970年 (69歳没) )

ベイジル・ラドフォード(右側)(1897年〜1952年 (55歳没) )



多分、この二人をピック・アップして書いたものなど、あまりないかもしれない。(書こうとさえ誰も思わないかも)



現代では、知る人も少ないかもしれない。



なんせ活躍していた時期が、30年代末〜50年代くらい。

自分なんて、まだまだ産まれてもいないような、遠い昔に存在していた二人なのである。



それでも、この二人は、長い映画史の中でも、稀に特異な位置づけにある存在だと思う。



お笑いコンビでもないのに、お互いに俳優同士の二人は、元々仲が良かったのか?ウマがあったのか?



世間や周りは、二人を勝手に《コンビ》として認知してしまい、名だたる有名監督の作品や様々なジャンルの映画を二人して渡り歩いていくという………



そう、映画史でも珍しい《コンビ俳優》の二人なのである。



もちろん、この二人を初めて観たのは、アルフレッド・ヒッチコック監督の『バルカン超特急』から。(ベイジル・ラドフォードの方は、それ以前の、ヒッチコックの『第3逃亡者』にも出演していたらしいが、とんと覚えてない。機会があれば観直してみたいと思う)



雪の為に、出発できない列車。


たった一つあるホテルに駆け込むものの、空いているのは、狭いタコ部屋みたいなメイド部屋。


ブツブツ文句を言うものの、二人仲良く狭いベッドに落ちついていると、言葉の分からないメイドがやって来て、笑いながら平気で生着替えを始めるもんだから、二人はビックリして度肝を抜かれる。(このシーンの面白いことよ)



今度は英国でのクリケットの試合の行方が気になる二人は、ホテルの受付にたまたま掛かってきた電話に勝手に出る。


「そっちはイギリスだよな? どうなった試合は?! ナニ? 全然興味がない?!お前はそれでも英国人か?!」


知らない相手は、なぜ怒鳴られているのか意味が分からず、要件を伝える暇さえない。


勝手に出た電話に、勝手に怒って切っちゃう(ガチャン!)勝手なベイジルさん。


「全くどうなってるんだ……」と、またもやブツクサが止まらない二人は、そのままフロントをシレ〜として離れていく。



それからも列車で事件が起きようが、二人はクリケットの試合の事で盛り上がっていて、あくまでもマイペース。(最後は協力して、一応大活躍するのだが)



そんなこんなで、映画のラスト、なんとか無事に英国に辿り着いてみると、



《試合は大雨の為、中止になりました》の無情な張り紙が。


あれほど楽しみにしていた二人は、呆気にとられて、トホホ…の顔。



こんな調子で『バルカン超特急』は幕切れとなる。



サスペンス映画なのに、こんなフザけたシーンが盛り沢山入っているんですもん。


主役のマイケル・レッドグレーヴとマーガレット・ロックウッド以外の、こんな脇役の二人にまで、陰ながらスポットが当てられて、オチまでついている。


これが『バルカン超特急』が名作といわれる所以なのである。


こんな『バルカン超特急』を若い時に楽しんで、今でもたま〜に、忘れた頃に観返す時があるが、やっぱり面白い。(オモチャ箱をひっくり返したような楽しさがあるのだ)




そして、数年前に《姉妹編》としてうたわれている『ミュンヘンへの夜行列車』の存在を知って、ごく最近観れたわけだけど、二人の様子は相変わらずだ。(映画の出来は、監督がキャロル・リードなので「ん〜ん……」満点まではやれないのだけど、そこそこ面白い)



第二次世界大戦が勃発しても、二人の心配は別にある。


「ベルリンの友人に貸してあるゴルフクラブ、返ってくるだろうか?あのクラブは凄い飛距離がでるのに……」

ベイジルはそればかりが気がかり。


「郵送してもらうように電話してみればいいじゃないか?」ノーントンは何でもないように言ってのける。


で、公衆電話を探すも、ナチスが割り込んできて、「この電話は使えないぞ!あっちへいけ!シッシッ!!」と邪険に追い払われる二人。


駅の構内にいても、「邪魔!邪魔!」と言われ、やっと座った指定席さえも、「ここは我々が使う!とっとと出ていけ!」とナチス兵に追い出されて、一般席に追いやられる二人なのである。(もう、いつでも踏んだり蹴ったりの二人)


久しぶりに観たノーントン・ウェインとベイジル・ラドフォードのコンビに、なんだか懐かしさを感じて、この『ミュンヘンへの夜行列車』も、それなりに楽しんだ私なのだった。



こんなコンビの面白さに久方ぶりに触れてみると、またもや、とことん調べたくなるのが、私の性格。



そうしたら、出てくる!出てくる!


まだまだ、あるじゃないですか!


二人がコンビで映画に出ている作品が!!(そう、こんなモノじゃなかったのだ!当時の二人の人気は、本国イギリスでも地味〜に浸透していたのであった)



1941年には、ノーントン・ウェイン&ベイジル・ラドフォードの二人が主演で、『Crook's Tour』(クルックのツアー)なんて映画が作られてしまう。(日本未公開、未DVD化、未Blu-ray化)


今度は、このコンビは中東にひょっこり現れて、ドタバタスパイ合戦に巻き込まれるというものらしい。


サウジアラビア、バグダッド、イスタンブールなどなどを旅しながら、『バルカン超特急』並のスパイ戦を繰り広げるというのだから俄然期待が膨らんでしまう。(なぜ?これをDVD化しない?是非、是非お願いしたい!)




1945年の『夢の中の恐怖』は、オカルト・ホラーで5本のオムニバス映画。(これはDVD化されております)


『バルカン超特急』のマイケル・レッドグレーヴも出演していて、もちろん、このコンビもオムニバスの1本に出ているとか。(でも《オカルト映画》に、この二人が出ていてどんな出来なのか想像つかない。いつか観てみたいが)



1946年の『A girl in a million』(百万の少女)。(日本未公開、未DVD化、未Blu-ray化)


英国コメディらしい。(二人はまたもやクリケットに夢中な英国人役)



1948年の『四重奏』はサマーセット・モーム原作の、これまた4本で成り立っているオムニバス映画。(DVD化されております)


これもコンビで出演している。(文芸作品かな?)



まだ全てを把握出来てないが、出てくる!出てくる!二人のコンビで出演している映画。(ミュージカル映画もあるとか。歌うの?この二人が?!)



でも、この二人が、当時、なんでこんなに起用されたのかだけど……なんとなく分かるような気がする。



戦争中でも、ドラマティックな事件が起きても、その中でも《普通の人々》は普通に存在しているのだ。



ゴルフが好きで、クリケットに夢中なり、旅行好き……

ごくごく普通な一般人の二人。



この二人が、画面にひょっこり顔を出すだけで、観ている人々は、妙な《安心感》や、緊迫した場面でも《息抜き》が出来たのかもしれない。(私がそうだ)



それにしても、二人の生年月日を調べてみると、改めて妙に老けていることに驚く。



『バルカン超特急』の頃、ノーントンなんて、まだ38歳、ベイジルの方も42歳くらいなのだ。(ゲゲッ!今の自分よりもオッサンに見える!)



2つの世界大戦の苦労や経験が、二人を実年齢よりも急激に老けさせたのか………



こんな安穏とした自分には想像すらつかないような、とても過酷な時代だったのだろうが、そんな中でも、人々を楽しませる為に《普通っぽさ》を演じた二人は、今の時代、もっと再評価されてもいいんじゃないのかな?



とりあえず、二人が残した作品を、今、楽しめるのは至福の幸せである。



長々、お粗末でございました。(さてと、手元にある『バルカン超特急』と『ミュンヘンへの夜行列車』を再視聴しましょうかね)


2021年9月21日火曜日

映画 「ミュンヘンへの夜行列車」

 1940年  イギリス。




第二次世界大戦前夜。


ヒトラーの指揮下にあるドイツ軍が、チェコスロバキア、プラハの上空から、

「ボマーシュ博士を引き渡せ!」のビラを一斉にばら撒いた。


チェコで特別な装甲板の開発に勤しむ天才科学者『ボマーシュ博士』。


ボマーシュの研究はドイツにしてみれば喉から手が出るほど手に入れたいものなのだ。


博士は、身の危険を感じて、娘の『アンナ』(マーガレット・ロックウッド)と一緒に英国に亡命しようとするのだが、時すでに遅し。


娘アンナはドイツ軍に捕まって、あっけなく強制収容所送りとなってしまう。


無理矢理チャーター機に押し込まれたボマーシュ博士は、心残りのまま一人、英国へと向けて旅立っていった。



そして、強制収容所………


ヒトラーの思想に逆らって、ドイツ兵にボコボコにされている人々の中に、『カール・マルセン』(ポール・ヘンリード)という若者がいた。


元教師であるマルセンは、ドイツ語教育を拒否した為に収容所送りになったのだという。


そんなマルセンに同情していくうち、アンナはすっかり打ち解けて親しくなっていく。


ある日、鉄柵越しにマルセンがアンナに話しかけてきた。


「見ろ!あの見張りは昔、知り合いだった男だ。もしかしたら脱走に協力してくれるかもしれない」


「でも、上手くいくかしら……」 


そんなアンナの不安をよそに、マルセンの手引きで、二人は見事に収容所から脱走した。


「やったー!」喜ぶ二人は船に乗り、無事にイギリスへと辿り着く。



だが、あまりにも簡単すぎやしないか?


そう、このカール・マルセンという男はナチス・ドイツの手先だったのだ!(ゲゲッ!騙したのね!)



「いいか!娘に、新聞で尋ね人の広告を載せさせるんだ!きっと向こうからコンタクトをとってくるはずだ」


「分かりました」


アンナの信用を得て、博士の居処を突き止める作戦なのである。

そんなマルセンに、だまされてるとも知らずに、すっかり信用しきっているアンナ。


アンナが広告を出して、しばらくすると、滞在するホテルに謎の男から電話がかかってきた。


「港町の演芸場へ行け!そこで『ガス・ベネット』を探すんだ!」


訳の分からないアンナ………

でも、(父に会えるのなら………)という思いで誘い文句にのると、次の日、見知らぬ男『ガス・ベネット』を探してまわる。


そんなアンナに目を光らせているマルセンがいるとも知らずに………。




以前、アルフレッド・ヒッチコック監督がイギリス時代に撮った映画『バルカン超特急』を、このblogでも取り上げて、猛烈に褒めちぎった事があった。


とにかく古い映画(1938年)なのだけど、テンポはいいし、大勢いる出演者たちのキャラクターたちも、それぞれ立ってる。


それにミステリーなのに、全編にユーモアが散りばめられていて、徹底した娯楽作品に仕上がっているのだ。(これぞ!まさにエンターテイメント!って感じ)


だから、監督は違えど、姉妹編と噂されていた、この映画『ミュンヘンへの夜行列車』も観る前から、期待値は相当上昇していたのである。



なぜ?この両作は《姉妹編》なんて扱いで呼ばれているのか?



1、作られた年代が共に近いこと。(『バルカン超特急』1938年、『ミュンヘンへの夜行列車』1940年)


2、《列車》を取り扱っていること。


3、共に両作のヒロインを、マーガレット・ロックウッドが演じていること。(私、この人が大好きである)


4、そして、共に、ノーントン・ウェインベイジル・ラドフォードのコンビ俳優が、同じような乗客役で出演していること。



これだけ共通点があるのだから、比べられるのも仕方ないというものである。




で、やっとこさ念願叶って観れた『ミュンヘンへの夜行列車』だったのだけど………



ちょっとばかし、ハードルを上げすぎたのかもしれない。



まぁ、とにかく話が遅々として進まないのだ(笑)(「いったい、いつになったら列車の旅になるんだ?!」って感じ)



この後、やっと探し当てた『ガス・ベネット』もとい、本名『ディッキー・ランドール』(レックス・ハリソン)のおかげで、やっと親子は再会する。(『ベネット』、『ランドール』……呼び名が多すぎて、このあたりは頭がこんがらがってくる)



それでも、またもやナチスに裏をかかれて、今度は親子共々、ナチスにさらわれてしまう始末。(またかよ)



そうして、今度は、この『ランドール』が自身の汚名返上とばかりに、逆にナチスの将校に変装して、アンナとボマーシュ博士の奪還に乗り出すのである。(ここまでで映画の半分が経過している)



「もう、いつになったら列車に乗るんだよ!」なんて次第にイライラしはじめていたら、終盤になってやっと駅の場面。



「娘と博士をミュンヘンへ連れてこい!」と、ナチスの上層部より命令がくだされて、駅に連れて来られる親子。


「娘は私を信頼しています!私も同行します!」とナチス将校に扮した『ランドール』も乗り込んでくるのだが、それに疑惑の眼差しを向けるのが、あのカール・マルセン。


そんなナチだらけが占拠する列車に、あの!『バルカン超特急』でも活躍した迷コンビが、やっと乗客として乗り込んでくるのである。(oh! 懐かしい!)

ノーントン・ウェインベイジル・ラドフォードの迷コンビ。(水玉模様の蝶ネクタイがベイジルの方)



変装しているランドールに見覚えある『カルディコット』(ノーントン・ウェイン)が、


「アイツは英国人だぞ!クリケットの名人だった奴だ。なんでナチなんかに変装してるんだ?!」


と気づいて、『チャータース』(ベイジル・ラドフォード)にそっと耳打ちする。(なんと!『バルカン超特急』と同じ役名)


やがて、事情を知った二人はランドールに協力して、アンナと博士奪回の為に人肌脱ぐのである。(二人ともナチスに変装する)



そうして、なんとかナチスの裏をかいて、ミュンヘン行きへの列車から脱出した御一行は、車でスイスへ行くロープウェイまで到着。(騙されたと知るカール・マルセンとナチスたちも「逃してたまるかー!」の勢いで、後を追いかけてくる)


博士とアンナ、コンビ二人を先にロープウェイに乗せると、一人残った『ランドール』(レックス・ハリソン)は、ナチスの集団相手に、激しい銃撃戦がはじまる。



さぁ、ナチスの猛攻撃を振り切って、ランドールは、アンナたちのいるロープウェイの向こう側まで無事にたどり着けるのか………



こんな話が『ミュンヘンへの夜行列車』の主なあらすじである。(ほぼネタバレになってしまったかも)


観終わってみれば、これはこれで、中々面白かったって思えるんだけど。(列車の場面って、「コレだけ?」と、ちと拍子抜け)



ほぼ、後半はレックス・ハリソンが一人活躍する。



なんだか顔の幅が狭くて、長〜い顔が独特のレックス・ハリソン。


これで6回も結婚して、愛人がわんさといたプレイボーイだったというから、人の好みは、よ〜分からん。(愛人が自殺したり、その後も離婚した相手も自殺したりして、次から次に波瀾万丈の人生。プレイボーイというよりは《魔性の男》かも)


この映画では、まだデビューして間もない頃じゃないかな。(後に、オードリー・ヘプバーンとの『マイ・フェア・レディ』やジーン・ティアニーとの『幽霊と未亡人』で、光る演技力を見せつけるハリソンさんなのだけどね)




ヒロイン役のマーガレット・ロックウッドは、さすがに綺麗で、モノクロながらも色々な衣装で(目の保養)楽しませてくれている。


でも、不満も少々ある。


この映画での扱いが、父親のボマーシュ博士と一緒で、まるで《記号》みたいな印象しか受けなかったのである。


ヒッチコックの『バルカン超特急』では、怒ったり、動揺したり、笑ったり、はしゃいだりしていて、色々な表情を見せてくれていたのに。(敵相手にキックもした)



この映画でのアンナ役は、自分の意志に関係なく、どこか、その境遇に流されるがまま。


ちょっと物足りなさを感じてしまった。(もっと、ハッチャケたマーガレットが見たかった)




ノーントン・ウェイン&ベイジル・ラドフォードのコンビは、この映画でも大活躍する。


この二人が出てきた後半から、この映画は、やっとエンジンがかかって面白さを増し、怒涛のラストまで牽引してくれている。(この二人は流石である)




この映画の監督は、キャロル・リード



以前『第三の男』でも書いたのだが、この映画でも同じように、場面場面では、惚れ惚れするような構図で、綺麗なモノクロを撮りあげている。


ただ、この人の場合、物語の進行としては、少しばかり不出来な部分もある感じがする。



昭和の時代に、あれほど持ち上げられていた『第三の男』も、平成を過ぎて、令和になると、その評価は、もはや持続出来ていない事に最近になってビックリした。(今じゃ、キャロル・リードのランキングでも『第三の男』は5位なのだ)



それに、この『ミュンヘンへの夜行列車』と『バルカン超特急』を比べてみても、ハッキリと分かるのは、《ユーモア》の足りなさ。



騙し騙されの掛け合いは、あまりにも続けば、少々《しつこさ》を感じてしまった。


それゆえに前半は少し退屈、後半はノーントン・ウェイン&ベイジル・ラドフォードのおかげで最高でございました。



1940年の戦争真っ只中ゆえ、仕方ない事なのかもしれないけど、それでも『バルカン超特急』を痛快な娯楽作に仕上げた、監督のヒッチコックと脚本家のシドニー・ギリアットの力量は並々ならぬモノがあると思う。(おかげで80年以上経っても楽しんでおります)



でも、この《ユーモア・センス》ばかりは、昨日今日で、誰でも身につくものでもないしねぇ〜。(それぞれの監督の資質の違い。生来持ち得るモノって感じですかね)



《姉妹編》なんて呼び名も、監督同士の力量を秤にかけるようで、なんだかキャロル・リードには、ちと残酷な事なのかもしれない。



この映画はこの映画で、充分に佳作と呼べるのだから、良しとしときましょうかね。


星☆☆☆。


※でも『バルカン超特急』は数倍楽しい事を請け負っておく。(あっ、また言っちゃった (笑) )

2021年9月11日土曜日

映画 「チェンジリング (1980) 」

 1980年  カナダ。






殺された魂は、その復讐をとげるまで、決して安らぐことはないのか………



この映画を観終わった後、すぐにこんなキャッチ・フレーズが浮かんできた。



この映画は、自分が偶然探し当てた映画としては、久しぶりの大当たりだった。(なんで当時この映画を観てなかったんだろう!バカ!バカ!)


そのくらい大傑作!(配役、演出、カメラ・アングル、ストーリー展開、謎解き、ラストに向けての恐怖感………ああ、何もかも自分好みだ。)




不慮の交通事故で、妻と一人娘を亡くしてしまった作曲家の『ジョン・ラッセル』(ジョージ・C・スコット)。


傷心のジョンは、妻子と暮らしたニューヨークを離れて、ひとりシアトルへ移ることにした。


とりあえずシアトルの大学で音楽の教鞭をとるを事になったジョン。


ジョンの名声の為か、講義を行えば、教室は受講生で入りきれないくらい満杯になる(大人気だ)


シアトルでは、歴史保存協会に勤めている親切で美人な女性『クレア・ノーマン』(トリッシュ・ヴァン・ディヴァー)を紹介された。


「とにかく住む所を決めないとね……」


音楽家のジョンはピアノを弾くので、騒音でご近所トラブルになるようなマンションには、とても住めない。


するとカーマイケル財団が所有する《チェスマン・ハウス》と呼ばれる屋敷が、運良く見つかった。


そこを借りてジョンは住むことになる。


何も問題のないような古びているが広々とした屋敷。


ただ、夜になれば、やっぱりジョンは亡くなった妻子を思い出して、シクシク枕を濡らす日々が続くのだが。(可哀想に)




そんな生活が始まって、しばらく経った頃、ジョンは、夜な夜な何かを叩く物音に気づき始める。


(配管の故障か?それとも、どこかの水漏れ?……)


業者に頼んで点検してもらうも、どこにも異常はない様子だ。



そうして、しばらくすると、今度はジョンの耳に聞こえはじめる奇妙な囁き声。


助けて………助けて………」


この屋敷には、確かに《何か》がいるぞ!(幽霊が!)


ジョンはクレアに相談するも、クレアは「そんなバカな!」と最初全く取り合わないのだが、この屋敷の不審な過去を調べはじめると、段々と信じるようになってくる。


「本当に何かいるのかも……」


そんな二人は霊媒師を招いて、屋敷の中で降霊会をはじめようとするのだが………





少しずつ静かに積み重ねていく恐怖に固唾を呑むばかり。


いつしか食い入るように最後まで観ておりました。(こんな体験も久しぶりだ)



降霊会で、霊媒師が口述速記で何十枚もの紙に鉛筆を走らせる場面なんてのは、中々の迫力だ。


「お前はいったい何者なの?」


超スビードで、紙の上に殴り書きで鉛筆をはしらせる霊媒師の紙を、ワンコそばの要領で、1枚、1枚抜き取る助手は、あ・うんの呼吸でアッパレの職人技。(もう、スゲー光景!ジョンも口あんぐり。)


紙には《ジョセフ》と書かれた名前が見えてくる。(同時にこの降霊会の録音もしてある)


やがて、足の悪い男の子『ジョセフ』が、屋根裏の部屋にあるバスタブで、父親に溺死させられて殺された、というショッキングな真相が判明する。(もう、この場面も残酷過ぎて微動だに出来ないくらい)


「助けて…お父さん……助けて……メダル……ぼくのメダル……」



《メダル》って何のことだ?


それにしても殺された男の子の名前が『ジョセフ』なんて、今現在、この町で猛威を振るっている大富豪で議員の『ジョセフ・カーマイケル』(メルヴィン・ダグラス)と同じ名前じゃないか!!



それに、この殺された男の子『ジョセフ』の遺体はどこにあるんだ?!



こんな疑問にぶち当たったジョンは、もはや知らん顔も出来ない。


助手としてクレアを伴って、素人探偵よろしく、事件の真相へと乗り出していくのである……。




私、この主演のジョージ・C・スコットトリッシュ・ヴァン・ディヴァーメルヴィン・ダグラス、監督のピーター・メダックに関する事を、まるで何も知らなかった。



大体、自分の好む映画の選び方ってのがあって、


「あの知ってる俳優さんが出ている」とか、


「あの監督が撮った他の作品は?」とか、なので、知らない監督や知らない俳優ばかりの映画なんてのは滅多に選ばない。(今まで大体失敗してるし、ある種冒険なのだ)



そんなのでず〜っと地続きで選んでいる中で、なぜか?この映画にはフラフラ〜と不思議に惹きつけられた。(こんな風に書くと、この映画のように不気味な感じがするだろうか (笑) )



とりあえず、この映画が、あまりにも自分好みの傑作だったので出演者や監督について多少調べたので、サクサクっと短く書いておこうと思う。



ジョージ・C・スコット……けっこう有名な俳優さんらしい。それに中々の変わり者。


なんせ、アカデミー賞で主演男優賞を受賞しても「別に要らない!」と辞退してるのだから。(相当な変わり者でしょ?)


それから何度もノミネートされても、アカデミー賞を無視、無視。


「あんなのくだらないお祭り騒ぎさ」(アカデミー賞の権威が廃れた今、この人先見の明があったのかしら?)



クレア役のトリッシュ・ヴァン・ディヴァーさんとは、1971年の映画『ラスト・ラン /殺しの一匹狼』で知り合い、ご結婚。


それからも夫婦二人で、この『チェンジリング』のように度々共演を重ねたようである。




メルヴィン・ダグラス……この映画では、すっかりヨボヨボおじいちゃんのダグラスさんだが、あのグレタ・ガルボジョーン・クロフォードのいた時代から共演して活躍していたらしい。(さすがにグレタ・ガルボは知っていても、あんまり作品は知らんわ)


この『チェンジリング』では、高圧的でふんぞりかえったジョセフ・カーマイケル議員役。(ほぼ晩年の作品である)



ピーター・メダック監督……90年代の珍作、レナ・オリンの『蜘蛛女』の監督だったらしい。(なんとなく覚えてるけど。相当変な映画だった記憶が……)


『スピーシーズ2』なんてのも撮ってるとか。(これも《2》まではさすがに観ていないかも)


謎の宇宙外生命体と人間のDNAを合体させて、特殊な第3の生命体を作りだす話じゃなかったかな?(なんか続々とシリーズが続いた記憶があって、根気のない自分は観る気が失せた)




こんな豆知識を調べてみて、いちいち「へ〜」、「ほ〜」なんて感心する私。


そんなのを知っても、この映画自体の評価は全く揺らぐ事はないのだけど。




映画の後半も、見せ場がたっぷり。


埋め立てられた古井戸から見つかった白骨遺体や、メダルの発見(教会での洗礼メダルだったらしい)。


本物とニセ物のジョセフ取り替え殺害の真相など、ハラハラ、ドキドキものである。



そうして真相に近づいたジョンに、ニセ者の《ジョセフ》である、カーマイケル議員は警察の力を借りて圧力をかけてくる。



「見つけたメダルを渡して貰おうか!」


カーマイケルの手先になって乗りこんできた警部に、断固「NO!」の返事で突っぱねるジョン。


「令状を持って家宅捜索するぞ!待ってろよ!」と息巻いて出ていく警部。



そうして、しばらくするとクレアから、家に居るジョンに電話が。


「さっきの警部さんの車が突然道端で横転したのよ!もちろん即死よ!」(ゲゲッ!何てこと!! これも霊の仕業なのか? どんだけ凄い事が出来るんじゃ、この霊は?!)




そうして、ジョンは今まで集めた証拠を持って、カーマイケル議員の屋敷へと乗り込んでいく…(最後の直接対決!)




もう、何から何まで、この映画に惚れ込んでしまった私。


怒涛のラストまで完璧である。



私の評価は、ここまで絶賛しているんですもん!もちろん星☆☆☆☆☆。


今の時点で、今年観たモノで一番かも。


オススメしておきます!(こんな映画を刑務所で見せればいいのに。きっと犯罪の再犯率も減るはずである)


2021年9月8日水曜日

映画 「ドリアン・グレイの肖像」

 1945年  アメリカ。




男なのに、たぐいまれなる美貌と若さを持つ美青年『ドリアン・グレイ』(ハード・ハットフィールド)。


そんなドリアンは画家『バジル』(ローウェル・ギルモア)の元で肖像画のモデルになる。


絵も完成間近の時、バジルの知人で快楽主義者、へそ曲がりな男『ヘンリー卿』(ジョージ・サンダース)が呼ばれもしないのに、バジルのアトリエにノコノコやって来た。


そんな変わり者のヘンリー卿も肖像画の出来に感心して「これは傑作になるぞ!」と、大絶賛し、褒め称える。


そしてモデルになったドリアンに目を向けると、ドリアンを羨んで「若さと自由奔放な生活こそ最高なのだ」と、勝手な持論で演説までし始めた。


純真無垢なドリアンは、その言葉に心うばわれて、「自分の代わりに絵が歳をとってくれればいいのに……」なんて、ボヤいたりする。



そんなドリアンは、ある日、舞台歌手『シビィル』(アンジェラ・ランズベリー)と出会って、二人は恋におちた。


結婚しようか、どうか……迷っていたドリアンだったが、またもやヘンリー卿の悪魔のささやき。心は簡単にぐらつきはじめる。


「たった一人の女に縛られるなんて……君はこんなにも、まだまだ若いのに……」


(そうだな!俺はまだ若いんだ!結婚なんて馬鹿馬鹿しい。や〜めた!!)


あっさり、シビィルとの結婚を破談にしたドリアン。


だが、それがショックで、シビィルは後日、可哀想に自殺してしまう。


さすがにうろたえるドリアンだったが、

「お、俺のせいじゃない!」と自己弁護と責任逃れ。(いや、充分お前のせいだよ)


そんなドリアンが、ふと、あの肖像画を見てみると、驚いたことに、醜く変化しはじめていた。


腐りかけたような肌色と深い皺……


まるで、ドリアンの内に秘めた邪悪さが、もろに絵に乗り移ったかのようである。


「こんな絵、絶対に人に見せられない!」


バジルの家から自分の肖像画を盗みだしたドリアンは、それをこっそり隠すのだが………



1891年、オスカー・ワイルドが書き上げた、この同名の小説は、21世紀の現代に至るまで、メディアの力を借りて、微妙に形を変えたりしては、我々の目に入ってきたり、耳にしたりしている。


ドラマ化や舞台化も時折されていて、映画にも3度なっている。


今更、小説を手にとって読むのもねぇ〜(ちょい面倒くさい)


そんな時は映画が楽チン!それも1作目を観るに限るのである。(1作目なら、ほぼオリジナルの小説に近い内容だと思っているので)




で、観た感想なんだけど………当時としては中々、前衛的な映画だったのかもしれない。


モノクロ映画なのに、ドリアンの肖像画を映し出す場面になれば、途端に鮮やかなカラーに切り替わる。(醜悪に変化する肖像画は、カラーで観れば中々のインパクトで、「ドキッ!」とするかも)


でも、なんで?このドリアンにだけ、こんな《不思議》が起ったのかねぇ〜。(女遊びをしたり、女をアッサリ棄てるようなクズ男は他にも沢山いるだろうに)


むしろ、ドリアンに、くだらない事をいちいち入れ知恵する『ヘンリー卿』(ジョージ・サンダース)の方に、私なら天罰を与えたいくらいに思えた。



人がどう生きようが、結婚しようが、ほっとけよ!


快楽主義者だか、なんだか知らないが、こんな風に、自分の価値観を無理矢理押し付ける輩(やから)が、一番厄介である。



実際の、この役を演じたジョージ・サンダースも、当時としてはハリウッドの中で異質であり、変わり者で通っていたらしい。


ジョージ・サンダース》


この人の出演した他の映画を観ても、それは明らかである。



ヒッチコックの『レベッカ』では、死んだレベッカの元愛人で、ローレンス・オリヴィエをおとしめようとする、つくづくイヤな男。


『幽霊と未亡人』では、結婚してるのに、未亡人のジーン・ティアニーをたぶらかす、これまたイヤ〜な最低野郎。


『イヴの総て』では、悪女『イヴ』(アン・バクスター)に騙されたふりをしながらも、裏でイヴの過去を洗いざらい調べ上げて、最後にコテンパンに打ちのめす、コラムニストのアディソン・ドゥーイット役。



けっこうな頻度で、嫌われる役を演っているジョージ・サンダース。(そんな映画を、ほぼ観ていて知ってる自分も、中々の変わり者なのだけど)


こんな一癖も二癖もある役ばかりを演じるジョージ・サンダースの評判は、とうとう、当時、ある有名なミステリ作家のインスピレーションにもなったようである。


女流ミステリー作家『クレイグ・ライス』……。


近年、日本でも発刊されているが、ライス女史によって書かれた『ジョージ・サンダース殺人事件』なるミステリー小説が存在するという。(もちろんフィクションだろうが、コチラは機会があれば、是非読んでみたいと思う)




アンジェラ・ランズベリーもイングリット・バーグマン主演の『ガス燈』では、端役のメイド役だったけど、やっと、マトモなヒロイン役。(でも、トホホ……前半で自殺してしまうけど)

でも、若い時は、この人も中々綺麗だし可愛らしい。(この映画では美声も披露する。歌うのは『黄色い小鳥』)


身長が高すぎなければ、王道のヒロイン役で充分いけたのにねぇ〜。(173cm。昔の女性にしては高い)


この映画の後は、やっぱり端役を続けながら、舞台を中心にやっていくアンジェラさん。


彼女の真価は後年の代表作『ジェシカおばさんの事件簿』まで、まだまだお預けである。




アンジェラ・ランズベリーが死んで、後半、この映画で代わりにヒロインを務めるのが、なんと!あのドナ・リードである。


リチャード・ウィドマークと共演していた西部劇『六番目の男』のドナ・リードは、馬を軽々乗り回し、色気を存分にふりまいて、リチャード・ウィドマークを終始デレデレにさせていたっけ。


この映画では、数年後にドリアンから求婚されるという、王道中の王道、可憐なお嬢様『グラディス』を、魅力たっぷりに演じております。


アンジェラには悪いが、ドナ・リードの眩しいくらいの美しさと色気には、あと半歩、アンジェラは及ばないかも。(単に自分がドナ・リード好きという贔屓(ひいき)もあるが)




そうして、最後、この主人公『ドリアン』を演じたハート・ハッドフィールド


この役柄が、当時の人々にインパクトは与えても、近い周囲の人々には相当気持ち悪がられたみたいである。(この後、徐々に衰退していき舞台に戻っていったらしい。この人の事、全く知らないはずだわ)



「この映画の後、皆が、私と一緒に食事する事すら、拒むようになりました」は、ハッドフィールドの弁。


まぁ、これですもんね。(そりゃ、不気味がって、さすがに嫌がられるわ)


顔立ちは、後年スーパーマンを演じたクリストファー・リーヴにも似ているハッドフィールドさんなんだけどね。(やや、こっちの方が痩せてるけど)




映画のラスト、醜悪に変わり続ける肖像画にとうとう我慢出来なくなったドリアンは、ナイフを突き立てる。


すると、自分自身がその場にバッタリ(ウッ!)倒れて、絶命。


絵は、みるみる元の綺麗なドリアンに戻っていくのだが、代わりに、地べたで絶命しているドリアンの遺体は醜い肖像画の姿へと変っていく。(まぁ、けっこうインパクトのある結末)



1945年の当時では、あまりにも強烈で、先駆け過ぎた作品だったかもしれない。(アンジェラ・ランズベリーも、この映画でブレイクしないし)



美しさを求めて、男たちが過剰な美意識に走り始めた今、この『ドリアン・グレイ』の物語も、警鐘として、やっと受けとめられるようになってきた?……のではないだろうか。


そんな気がするのである。

星☆☆☆。(何事もほどほどが一番て事で)


2021年9月5日日曜日

映画 「白いドレスの女」

 1981年  アメリカ。




弁護士『ネッド・ラシーン』(ウイリアム・ハート)が人妻『マティ』(キャスリン・ターナー)と偶然知り合い、愛欲の日々に溺れながらも、いつしか、二人にとって邪魔なマティの金持ち夫を殺して、財産を奪おうとする官能サスペンスである。


だが、ことは、そう簡単には上手くいかないのが、この手の映画の常。(お約束のドンデン返しが待ち構えている)



監督は、『スター・ウォーズ』や『レイダース』の脚本で有名なローレンス・カスダン

そして、これが監督デビュー作である。(キャスリン・ターナーのデビュー作でもある)



当時はウイリアム・ハートとキャスリン・ターナーの大胆な濡れ場が話題になり、大ヒットしたものだった。



とにかく、この二人が、いつでも、どこでも

「やりたくなったら、やっちゃう!」


まるで獣のような二人なのだ。



夫エドモンドが連れてきた、幼い姪の『ヘザー』が泊まりに来ているのに、ネッドは一晩でも(ムラムラ)我慢できなくて、夜中にマティを求めて豪邸にやってくる。


そんな折、寝惚けて、二人がいるベランダに現れたヘザーは、『ネッド』(ウイリアム・ハート)の、ギンギンに光る《アレ》を見てしまって、目の玉が飛び出るほどビックリする。(そりゃ、そうだろうよ。幼い子供には刺激がつよ過ぎるわ (笑) )


『マティ』(キャスリン・ターナー)は、マティで、最初こそ、


「私には夫がいるのよ。ダメよ!ダメ、ダメ〜!」


だったのに、もうネッドに会えば、自分からパッパと脱いで、自ら求めちゃうほど大胆に変貌してくる。



「あなたが私の身体に火🔥をつけたんだから!」


終始、こんな具合なのである。




こんな風に、お互い好きモノ同士の二人は、いつしか、出張が多くて留守がちなマティの金持ち夫『エドモンド』の愚痴を頻繁にするようになってくる。


「あのチンチクリンで意地悪な小男!」とか、

「あの男が死んでくれれば、姪のヘザーと私に2等分ずつ財産が入ってくるのに……」と、言いたい放題のマティ。



マティの魅力に、すっかりのめり込んでるネッドも、

「アイツを殺してしまいたいよ!」と言い出す始末。



こんな二人に、陰で散々な悪口を言われている夫『エドモンド』なのだけど…………それを演じるのは、なんと!この映画の翌年に『ランボー』シリーズで大ブレイクする『トラウトマン大佐』役のリチャード・クレンナなのだ!!


リチャード・クレンナの名誉の為に言っておくが、リチャード・クレンナは、ブ男でも小男でもない。(映画の中でも、そんなに悪い夫でもないのに、やたら、この二人にクソミソ言われるのは、ちょっと気の毒である)



とうとうエドモンドの殺害を決心したネッドは、以前弁護士として関わった爆弾のプロである『テディ』(ミッキー・ローク)の元を訪ねた。(イケメンだったミッキー・ローク。後年、整形依存や入れ墨マニアになるとは、よもや、この時は誰も知らない)


「あんたには前に世話になったから……」と、ネッドの悪だくみにも協力的で、爆弾の組み立て方をレクチャーしてくれる、とても悪党とは思えないほど優しいテディ。


そんなネッドの不審な様子に、親友で検事の『ピーター』(テッド・ダンソン)は、側にいてハラハラ。


「あの女に関わらない方がいいぞ!」

おどけながらも、注意を下すピーターは本当に親友想いだ。(『CSI』や『ダメージ』で有名なテッド・ダンソンも若いなぁ〜)



そんな忠告も振り切って、ネッドは計画を実行しようとするのだが…………



久しぶりに観た『白いドレスの女』は、現在の出演者たちの変わり果てた姿を知る者としては、妙に感慨深い気持ちにさせられた。


そう、「誰だって歳をとる」し、「みんな昔は若かった」のだ。(それだけ、あれから長い時間が経ったんだなぁ〜)




それにしても、今更ながらに気付くが、この映画のカット割りの多さに驚く。


ほんの数秒、何カットかのシーンが流れれば、すぐに別のシーンに切り替わる。


こんな極端に短いシーンを、ずっと連続でつなぎ合わせて、映画は完成しているのだ。




多分、監督のローレンス・カスダンは編集に凝り過ぎる人。


次作の『再会の時』でも、ケヴィン・コスナーが出演していたらしいが、編集で出演シーンを全カットになった話は有名な話だし。(その後、コスナーは、カスダン監督の謝罪で、『シルバラード』に起用されるんだけど)



ただ、この『白いドレスの女』も、編集に凝るあまり、今観ると、あちこちに意地悪な見方をすれば、何箇所かチョンボを見つけてしまった。(あきらかに、「『このシーン』と『このシーン』の間に突然『こんなシーン』が入ってくるのは、おかしいぞ?」って部分がある)



デビュー作ゆえ、気合が入り過ぎたか?カスダン監督?


それとも、目の前で繰り広げられるウイリアム・ハートとキャスリン・ターナーの官能シーンの連続に、冷静さをうばわれてしまったのか……



久しぶりに観た自分でさえも、やっぱり、ドキドキするしね。


星☆☆☆にしときましょうかね。(本編の映像はこんなに大人しいモノじゃない。だいぶ遠慮しておりまする (笑) )