2022年5月1日日曜日

映画 「わが谷は緑なりき」

 1941年  アメリカ。





オッ!誰だ?この可愛らしい少年は?!


知る人ぞ知る ……

『猿の惑星』や『ポセイドン・アドベンチャー』、『処刑教室』、『地中海殺人事件』などなど …… 名脇役として晩年まで活躍した、あの、ロディ・マクドウォールの子役時代のお姿なのであ〜る。

ロディ・マクドウォール


とにかく浮き沈みの多い映画界。


子役スターで大ブレイクしても、その後は鳴かず飛ばずになるのが、ほとんど。


そうして、その後の人生、悲惨な末路を辿るのが、ほぼお決まりのコースである。(それぞれ思い描く人物がいるだろう)



この人くらいじゃないのかな?


子役でデビューしても、その後も上手く青年期を乗りきって、重鎮な脇役として、生涯無事に活躍された俳優って。(ハリウッドでは稀な成功例なのかも)



こんな、マコーレー・カルキンにも似たような(んん?(笑))可愛らしさを持つロディ・マクドウォール少年は、映画界にデビューすると、早速、あの巨匠からお声がかかる。


西部劇でならしたジョン・フォード監督である。


この『わが谷は緑なりき』は、フォード監督にしては、珍しく西部劇ではない。


19世紀末のイギリスはウェールズ地方、山あいにある、小さな炭坑町で働く人々の生活を描いている。


そして、ロディ演じるヒュー・モーガン少年の目を通して全編が描かれているのだ。(幼い頃の自分の思い出を回想しながら、語り部として。実質上、影の主役なのである)



丘の上にある炭坑工場には、毎朝、大勢の男たちが、日々の糧となる賃金を稼ぐ為、出勤していく。


男たちは煤(すす)だらけで、全身真っ黒になりながらも黙々と働いている。


そんな男たちが家路に着くと、女たちは薄汚れた身体を洗ってあげながら、美味しい手料理で精一杯もてなすのが、毎日の日課なのである。



もちろん、モーガン家でもソレにならって生活している。


一家の家長『ギルム・モーガン』(ドナルド・クリスプ)。

成人した立派な体躯をした五人の息子たちも、皆、同じ工場で働いている。



そんな夫と息子を支える妻の『ベス』。

一人娘の『アンハード』(モーリン・オハラ)は、母親の手助けしながらクルクルと働く。



そんな一家に、もう一人。

歳の離れた末っ子の『ヒュー』(ロディ・マクドウォール)がいて、皆に溺愛されながら育っていた。


父も母も、五人の兄たちや姉のアンハードも、幼いヒューには特別に優しい。(末っ子って得だ)




大家族モーガン家の暮らしぶりは、日々、こんな具合である。



そんな折、長男であるイヴォールの結婚式が町の教会で盛大に挙げられた。



結婚式を執り行うのは、着任したばかりの若い牧師『グリュフィード』(ウォルター・ビジョン)である。




そんなグリュフィード牧師に(一目惚れして)熱い視線をおくるアンハード。(あらあら)



その夜、町の人々が大勢集まり、モーガン家では賑やかな宴が行われる。



こんな幸せな日々が延々続くと信じて、全く疑わなかった人々 ………

だが、次の日から町は不穏な空気に包まれはじめるのだ。




工場のいきなりの賃金値下げ ……(ゲゲッ)



もちろん、コレに納得出来るはずもなく、男たちは、全員で大ブーイング!(ブー!ブー!)


「組合を作って、断固闘おうじゃないか!エイエイオー!!」



全員一致の意見の中、モーガン家の家長であるギルムだけが、なぜか一人だけ反対する。


町の人々は、そんなギルムを疎んじはじめ、息子たちにもソッポを向かれてしまう始末。



だが、妻のベスや娘のアンハード、幼いヒューの気持ちは変わらない。


いつだってギルムは、尊敬する立派な父親像なのである ……





小さな炭坑町の衰退、時代とともに変わりゆく人々の生活を、映画は淡々と描いている。



やってる内容は、けっこうシビアでハードなのだけど、なぜか?この映画に限ってはドヨ〜ンと暗くならずに、カラッ!としていて、逆に晴れやかな気分になるのだから不思議だ。




暗い内容の話を、そのまま暗く描く事は、誰でも思いつくような凡庸な事。



ソレを、反対に《明るく》、《晴れやか》に観せているところに、巨匠ジョン・フォード監督の非凡な才能がキラリと光っている。(この辺りが、現代の監督との埋められない《才能の差》なのかもしれない)



まるで、ソレを、そのまま暗く描く事は《芸無しの仕事》とでも言ってるようである。(コホン!心してよく聞いておくように(笑))




オマケに、この映画も止め絵にして、そのまま額縁に入れて飾りたいほどの、美しい構図のショットがバンバン!映像として映し出される。



本当に綺麗。ほとんど絵画である》




これぞ、天才職人のなせる技。


満場一致でアカデミー作品賞受賞も納得の出来栄えなのである。(この頃のアカデミー賞は権威があったなぁ~。今じゃ選ぶ人間たちが節穴だらけで、ダメダメだけど)





そうして、もちろん、幼いヒュー少年にも、ちゃんとしたドラマが用意されている。




真冬の川に足を滑らせた母親を助けるため、あわや凍傷で下半身麻痺。(寒そう〜!何とか回復してホッ!)



学校ではイジメっ子に《炭坑町から来た田舎モン》呼ばわりされて、ズタボロで帰宅する。



見かねた兄たちがボクシングを伝授して、イジメっ子には勝てるようになるも、今度は意地悪な鬼教師に失神するほど鞭打たれたりもする。(もう、この子も次から次に災難続き。踏んだり蹴ったりだ)




でも、「大の大人が子供を、ここまでいたぶるなんて、とても許せん!!」と、クズな鬼教師には、自ら出向いて行き、正義の鉄拳をお見舞いする炭坑町の仲間たち。(この部分、最高にスカッ!とするぜ)




一方では、美しい姉の『アンハード』(モーリン・オハラ)と牧師の叶わぬ恋を描きながらも、変わりゆく炭坑町の日々は、ゆっくりと過ぎてゆく ……





この映画を観たのは数十年ぶりだったが、やっぱり色褪せない傑作で面白かった。



未見の方には是非オススメしとく。


偉大な監督ジョン・フォードを語る上で見過ごせない、至極の一本である。


星は、当然!☆☆☆☆☆。(映画『船乗りシンドバッドの冒険』の頃よりも若い、モーリン・オハラも特別綺麗だよ~)


2022年4月23日土曜日

ドラマ 「『わが子よ』シリーズ」

 1981年〜1986年。(シリーズ全6作)





写真は女優、小林千登勢さんと星谷和美さんである。(星谷和美さんを知ってる人、何人いるかなぁ~)



その昔、お昼には、専業主婦たちの為の良質な帯ドラマの時間帯が特別に設けられていた。


旦那や子供を、仕事や学校にとっとと(出ていけ(笑)!)送り出し、家事をこなした後は、ゆっくりとお昼を食べながら、午後の短い帯ドラマを観る。


そんな習慣が当たり前だった時代に、午後13時から30分間、月曜から金曜の帯で『花王 愛の劇場』は放送されていたのだ。(1969年〜2009年まで。長っ!)



その中でも、わたしが特に観ていたのは、この『わが子よ』のシリーズ。



もちろん、お昼放送の時間帯には学校に行ってて自分なんか観れるはずもないのだけど、この『わが子よ』のシリーズに限っては、毎年、夏休みの7月から8月の末ギリギリくらいまで放送されていたので、けっこう観る機会はあったのだ。



お話の骨格は全シリーズ、ほぼ決まっている。



小林千登勢さん演じる母親(離婚して一人で生計をたててる)と難病に侵された娘が、試練を乗り越えて、再生しようとする感動ドラマだ。(後、一家には祖母がいたり、幼い弟がいたりする)



全6シリーズをとおして、母親役の小林千登勢さんの登板は変わらず。


祖母役の川上夏代さんも、ほぼ同じだった気がする。


川上夏代さん。この人も有名なおばあさん女優でした》



娘役は、第1作と2作目を、あの《わらべ》やドラマ『積み木くずし』で有名な、高部知子さんが熱演。(この方、本当に演技力にかけては、当時、ズバ抜けて上手かった記憶があるので、《例の事件》がなければ、今頃、大女優になっていただろう)



3作目は全く覚えてなく、確か、4作目は娘役を若林志穂さんがやっていたはず。(この辺りの記憶は、ちとボンヤリで曖昧)


なんせ、《難病ドラマ》なので、扱う病気も特殊なモノばかり。


《骨肉腫》だったり、《腎臓病》だったりするので、演じる方も大変そうであった。




で、私の記憶が特にハッキリしてるのが、『 わが子よ Ⅴ 』の、小林千登勢星谷和美の母娘編なのである。



美容院を切り盛りしている『香山由紀』(小林千登勢)。(やっぱり、ここでも夫はいない)


年老いた祖母『かね子』(川上夏代)、小学生の息子。


そうして、中学三年生の娘『みずき』(星谷和美)のいる一家は、けっして裕福ではないけれど、ごくごく平凡な4人家族だ。




目下、娘のみずきは、女ながら柔道部に所属していて、猛練習に明け暮れる日々。


そんなみずきが、ある日練習していると、突然《右脚》に、今まで感じた事のないような激痛がはしる。




「痛い!痛い!痛ーい!!」

柔道部の顧問の先生や母親の由紀にともなわれ、即、病院に駆け込んで精密検査をしてみると …… 検査の結果はなんと!10万人に1人と言われるような難病、《 骨肉腫 だったのである。


母親・由紀は大ショック!(((;ꏿ_ꏿ;)))(愕然!)


「あの …… 娘は治るんでしょうか?!だって、あの子まだ中学生で …… 脚を切断するなんて …… そんな、とても残酷なこと …… 」


主治医も、なんとか脚の温存を試みようと、頭を悩ませて、「《人工骨》を埋め込む手術をやってみましょう!」と提案する。


(これで、なんとか良くなってくれれば …… )


そんな藁にもすがる思いの由紀の願いも届かず …… 手術の結果はあまり芳しくなかった。


このままでは、命の危険さえ伴わないのだ。



医者は苦渋の決断で、今度は《右脚の切断手術》を提案した。



こんな提案に、若いみずきが簡単に納得するわけもなく ……


「イヤよ!イヤ!脚を切るなんて絶対にイヤー!脚を切るくらいなら、このまま死んだ方がマシよ!」と、ただ泣きじゃくる日々。


そんな娘の不幸に、オロオロして苦しみ、一緒に涙を流す『由紀』(小林千登勢)。(本当に壮絶なドラマである)


だが、時間はあまり残されていない。

このままでは命の危険さえあるのだ。


周囲の説得や、涙ながらに懇願する由紀に、娘のみずきも、とうとう折れて手術は開始された。




そうして、麻酔から覚醒めたみずきは、ベットに横たわりながら、目線の遠い先にある、無くなった《右脚》の方を見て愕然とする。


(もう、何もかも終わり …… これなら死んだ方がマシだった)と ……。


心は失った右脚と一緒に、どこか遠くへいってしまったようだった。




そして夜間、手術が終わったみずきに、母親の由紀が付き添っていると、突然、みずきが苦しみだした。


「痛い!右脚が痛い!!」叫び続けるみずき。


「痛い!」って …… もう切断して無いはずの右脚なのに、コレはどういう事なのか?!



オロオロした由紀は、早速主治医に訊ねると、

「おそらく、《 幻肢痛(げんしつう) 》でしょう」と、今まで聞いたこともない答えがかえってきた。


「《幻肢痛》…… なんですか?それ?!」

「右脚が無くなっても、頭の中では、まだ右脚があるような感覚が、まだ残っているのです。《幻》の右脚の痛みと言っていいでしょうか …… 」

「そんな …… 」


再び、病室に戻ると、額には汗をかきながら苦しみ続ける娘の寝顔。


そんな娘みずきを涙ながらに見つめながら、母親・由紀は一晩中、無いはずの右脚をさすり続けてやるのであった ………




もう、涙!涙!涙 !(╥﹏╥) !(ウルウル)


こうして書きながら思い出しても、涙なくしては観られないようなドラマである。




もちろん、この後、みずきは周囲の人々の励ましや助けをかりて立ち直り、義足をつけて、障害者ランナーとして立派に歩みだすのだけど ……



このみづき役の星谷和美さんが可愛らしくて、可哀想で、夏休み中、私なんか夢中でかじりついて観ておりました。


この星谷和美さん、てっきり、この当時の自分と同じ年齢だとばかり思っていたのだが、なんとこの時は、もう19歳になっていたという。(19歳で15歳の中学生役がまわってくるとは。でも違和感なく観てたけど)


それにしても、CGすら無い当時、片脚を切断した役を演じる為に、終始右脚を後ろに折り曲げて縛りながらの長期撮影は、相当大変だったろう。


他の演者たち、高部知子さんや、若林志穂さん、それに星谷和美さんにしても、若手でも、このドラマに限っては、充分な演技力と気迫がなければ成し遂げられないほどの難役。


演技派たちの登竜門的なドラマだったのかもしれない。(その後、皆が引退してしまったのは残念だが)




そうそう、このドラマの主題歌を、あの荻野目ちゃんが歌っているのも見逃せない。



主題歌『心のままに 〜I’m just lady〜』は、隠れた名曲である。


♪ just lady、so lady、強く生きて

♪ 辛い思いに負けないで

♪ just lady、so lady、くじけないわ

マイ・ ハート、泣かないで〜


次作『ダンシング・ヒーロー』で大ブレイクする荻野目ちゃんの、夜明け前の曲は、しっとりと心に染み入るように、このドラマの内容とリンクして聴かせてくれる。(是非とも知らない人は聴いてほしい)



時折、この曲を聴いたりすると、あの頃の『わが子よ』のドラマに結びつけて、途端に記憶の扉が開かれてゆく。

すると、こんな風にドラマの内容を鮮明に思い出してしまう私。



曲もドラマも、良質だからこその《不思議》?なのかもしれない。

星☆☆☆☆。


※このドラマ、どっかで再放送してくれないかなぁ~(それにしても、あちこちで画像を探したけど見つからないや。覚えてる人も段々少なくなってきた?)


昭和は遠くなりにけり(笑)



2022年4月20日水曜日

映画 「ローマの休日」

 1953年  アメリカ。






あまりにも有名なオードリー・ヘプバーンの『ローマの休日』。



この映画を観たのは、あらかた、オードリーの他の映画を観てから、だいぶ経った頃だった。


なんせ、意識しなくても、あちこちで『ローマの休日』のオードリーが日常的に目に飛び込んでくる状況なのだ。



もう、観る前から、すっかり観たような気分にさせられていたのである(笑)。




それにしても、日本人の《オードリー好き》には、あらためてビックリさせられる。



1953年に本国で公開されて、翌年に日本で上映されると、日本では瞬く間に《オードリー旋風》が吹き荒れる。



男の自分でも、オードリーは「可愛いなぁ~」とは思うけど、女性の方がはるかに熱狂的!



『ローマの休日』を観た後は、世の女性たちが、一目散に美容室へと駆け込んだそうな。


「お願い!ヘプバーン・カットにしてぇー!!」


巷中(ちまたじゅう)に溢れかえるヘプバーン・カットの女性たち。(だったそうですよ、当時は)




そうして、こんな勢いは髪型だけにとどまらない。


もう、《美の基準》全てが、オードリー《一色》になってしまったのである。




眉の描き方から、アイラインのひき方まで …… メイクのお手本は、全てオードリー。


洋服の着こなし方なども、もちろんである。



鏡を見ては、「オードリーのようにシャープな顎をしていればねぇ〜 …… 」と溜め息をつき、

自分の体型をオードリーと比べては「あぁ、オードリーのようにスラーッとした体型になりたいなぁ~」と憧れる。



身長170cmで体重50キロのオードリーは、ちと痩せすぎのような気もするが、《美の基準》が《ソレ》だという風に完全にインプットされてしまった女性たちは、母親になっても変わらず。


生まれた娘も、孫も、そのまた孫の代まで、ずっと現代に至るまで、その基準は脈々と続いているのだ。





だが、こうなったのも無理はない。



60年代〜70年代の少女漫画家が描いているヒロインの顔は、誰も彼もが、オードリーの面影を残したヒロイン像を描いているし。(描いてる漫画家も《オードリー好き》なんだろう)



映画雑誌などでは、定期的にオードリーが表紙を飾り、特集ページが何度も組み込まれたりする。(しかも何十年間も)


そんなのを毎号毎号、買い求めては皆が読んでたんですもんね。(そりゃ、イメージは刷り込まれるわ)




日本に《ジェラート》のアイスクリームが売り出されれば、たちまち、この『ローマの休日』のオードリーがCMに駆り出されたりする。(ベスパのスクーターも同じ)




バブルの頃なんて、誰が考え出したのか
…… 《オードリーと行こう!イタリア・ローマのツアー》なんて企画の旅行プランもあったりしたもんだ。(オードリーは行かねぇっつーの!(笑))



そうして、またもや最近でも、明石家さんまとの合成CMが流れていたりする。




日本では、この70年間、『ローマの休日』のオードリー・ヘプバーンの姿が、途切れる事が、全く無いのだ!!



そう思うと、この、たった一本の映画がもたらした経済効果は、もはや天文学的数字。


大袈裟に言うなら、《宇宙規模》といっても良いのかもしれない。(ヒェ~!スゲ~や(*_*))





こんな『ローマの休日』を20年前くらいに、ちゃんと観てみた。


観た感想は、……… まぁ普通。(星☆☆☆)


オードリー・ヘプバーンは当然可愛いし、お話自体は楽しいんだけど、案外「普通かなぁ~」と感じてしまった。(こんな風に書くと、オードリー・フアンから、トンデモないお叱りをうけるだろうが)



これだけメディア効果や宣伝がなければ、また違った感想だったかもしれないが。(とにかく冒頭にも書いたように、既に観たような気分が災いしたとしか言いようがない)



ただ、オードリーグレゴリー・ペックが、街中を楽しくベスパで乗り回すシーンには、「オオッ!」と唸ってしまった。



ノー・ヘルメットで二人乗り!(今なら、即、御用!(違反キップ)(笑))


おおらかな良き時代に、「羨ましいなあ~」なんて、多少の憧れもあったりして ……



まぁ、日本人なら、一度は、ちゃんと観るべし …… なのかな?(オススメしとく)


2022年4月16日土曜日

映画 「ネバダ・スミス」

 1966年  アメリカ。




西部開拓時代、白人の父親とインディアンの母親の間に生まれた『マックス・サンド』(スティーブ・マックイーン)は16歳(んん?)になっていた。


ひと気の無い場所にて、読み書きも出来ず、純粋無垢に育ったマックス少年は、まるで人を疑う事すら知らない。


ある日、ならず者風の3人組が、我が家への道順を訊ねて近づいてきても、アッサリ教えてしまった。

左から、カール・マルデンマーティン・ランドーアーサー・ケネディ


だが、しばらくして自宅に帰ると、両親は無惨に殺されている。


「アイツらだ …… あの《3人組》に父さんも母さんも殺されたんだ!!」



マックスは両親の死体を家ごと焼き払うと、復讐を決意して、旅に出ることにした。


だが、マックス少年は、やはり世間知らずのボンボン。


旅の途中で出会った男たちに騙されて、少ない所持金も馬も銃も、全て盗まれてしまう。(アチャ~)


(これからどうしよう …… )と、うなだれて、広い荒野をさまようマックスは、空腹で、もうヘトヘト。


道端に銃が落ちてるのを拾うも、「なんだ、弾が入ってないや …… 」ガッカリするマックス。


そして、ヨタヨタさすらうマックスの鼻には、(クン!クン!)何やら食べ物の香りが漂ってきた。


野営をしているオッサンが道端で料理をしているのだ。



ええい、もう背に腹は代えられない!


空砲の銃を向けてマックスは、

「オイ!食べ物をよこせ!!」と強盗まがいに脅迫した …… のだが、相手は至って落ち着いた様子。


「その銃は空砲だろう」と、ひと目で相手には見抜かれてしまった。


野営をしていたオッサン、もとい『ジョナス・コード』(ブライアン・キース)は、銃商人だったのである。


その場にヘナヘナ、へたり込むマックス。


だが、ジョナスは、そんなマックスを邪険に扱うわけでもなく、親切に食べ物を差し出してくれたのだった。



こうして、ジョナスの優しさに心開いたマックスは、これまでの事情をポツリポツリと話し始める。


「お前みたいな世間知らずの小僧が …… 本当に親の仇討ちをしたいのか?!」


「ああ、オレはどんな事をしても両親の仇を取ってやる!!」


やれやれ …… 


憐れみなのか、根っからのお節介心からなのか、ジョナスは一緒に旅の野営をしながら、マックスに文字を教え始めた。


そして、銃の使い方も。(本当に親切なオッサンである)



そんなジョナスを、マックスも慕い、《師》として仰ぎはじめる。




そんな日々がしばらく続いて、とうとう別れの時。


ジョナスがマックスに最後の忠告をする。


「いいか!奴らを探そうとするなら、《酒場》か《娼館》をあたるんだ!奴らのようなクズ共は、間違っても《教会》なんかには行かない。」


「《ドブネズミ》共はどんな卑怯な手を使ってくるか分からない。その為にはお前も《ドブネズミ》になるんだ!」


こんな教えを胸に刻み込み、ジョナスと別れたマックス。


マックスの孤独な復讐の旅が、やっとはじまる ………





「全然、白人とインディアンの混血児に見えない」とか、

当時36歳のマックイーンが「16歳は、さすがに無理があるやろー!(笑)」などなど …… 


冒頭からツッコミどころ満載なのだけど、私個人としては、この『ネバダ・スミス』は、マックイーン映画でも好きな部類に入る。(コレに拒否感ある人は、やめといた方がいいかも)




スティーブ・マックイーンの《魅力》ってのを考えた時、他の人なら真っ先に何を思い浮かべるだろうか。



命知らずのカー・スタント?

派手な撃ち合い?


…… いやいや、私はそうは思わない。



この人の魅力は、まるで虚飾の無い《情けなさ》《寂しさ》《弱さ》をさらけだして、我々に見せてくれる事。



後にも先にも、この一点に尽きると思っている。



アクション・スターは数多くおれど、どこかで「俺って格好いいだろ?」ってのが見え隠れするもの。



でも、スティーブ・マックイーンに限っては、そんなモノは一切《無い》のだ。



誰もが隠しておきたいような、そんなヘタレな部分でも、まざまざと見せてくれる。(これじゃ、観客の誰もがマックイーンの《味方》になってしまうでしょうよ)



こんなのが、特に如実に出ているのが、この映画『ネバダ・スミス』なのである。




両親の仇討ちは、そう簡単には上手く行かない。


やっとこさ、一人を見つけ出して、仕留める事ができても、マックスも深手をおって大怪我をしたりして、ズタボロになる。



行く先々で困難、また困難である。(もうハラハラしどおし)




こんな危なっかしいマックスですもの。

女たちも放っておけるもんですか。(母性本能くすぐりまくり)



出会う女たちは皆、マックスを介抱してあげて、助けようとする。


そして時には、自分の命を投げ売ってでも ……





酒場のポーカー使いの男。

密林の囚人キャンプに送られた男。



一人、二人となんとか仇を討って、三人目を探そうとする時、またもや怪我をしたマックスは、ある神父に出会い、厄介になることになった。(この神父も、また良い人)



『ザッカルディ神父』(ラフ・ヴァローネ)である。(Oh!『にがい米』のヴァローネさんだ!)



血なまぐさい闘いに身を投じてきた男の、生まれて初めての教会。



そんなマックスに神父は、1冊の聖書を渡す。



ザッカルディ神父もまた、マックスと同じように悲惨な過去を持っていた為、「復讐がいかに無益なことなのか」を親身になって諭すのだが ……



それでもマックスの決意は変わらない!



だが、世話になった教会を後にしても、神父の言葉はマックスの心にとどまり続け、何度もリフレインしはじめる。




そんな中、最後の一人『トム』(カール・マルデン)にやっと辿り着くのだ。




「俺の名前は『ネバダ・スミス』だ!」

マックスが嘘の自己紹介をしても、トムは昔の事など、とうに忘れている様子である。



そんなトムの仲間になり、復讐の機会を伺い続ける『マックス=ネバダ・スミス』(マックイーン)。



マックスの最後の復讐は見事成功するのか? ………






「人生は長い旅を続けるようなもの …… 」とは誰の言ったセリフだったのか。


その中では、良い人もいれば、悪い奴に出会うことも多々ある。




スティーブ・マックイーンの生い立ちを知っている私は、この映画の筋書きと違えど、この映画『ネバダ・スミス』を観る度に、なぜか?それがマックイーン本人の生き様と妙に重なってしまうのだ。



映画は星☆☆☆☆。

マックイーンの《情けなさ》や《弱さ》を《カッコ良さ》に変換して、是非観て欲しいと思う。