2020年1月15日水曜日

映画 「ランボー」

1982年 アメリカ。






この『ランボー』を、意味もなく大暴れするシリーズだと思いこんでる方も多いはず。(かくいう自分もそうでした)


でも、この第1作目を観ると、そんな印象は180度変わってしまうのです。





『ジョン・ランボー』(シルベスター・スタローン)は、ベトナム戦争の帰還兵。

ベトナムの戦友仲間を訊ねて、真冬の田舎町にやって来たランボー。



だが、………

「あの子は死んだよ、ベトナム土産の枯葉剤の影響で癌になってね……」親友の母親はランボーにそう告げた。


トボトボ意気消沈して、町に向かって歩きだしたランボー。


それをパトカーで通りかかった保安官『ティーズル』(ブライアン・デネヒー)が見つける。



(この風貌……なんか怪しい奴……)


髭ボーボーに、長い髪。

薄汚れた身なりのランボーは見るからに不審者。



強引にパトカーに乗せると、ティーズルは町外れまでランボーを連れていき、そして降ろした。

「町の静けさを守るのが俺の務めだ!お前みたいな怪しい奴は、さっさと、この町から出ていってくれ!」


ティーズルは、そう言い捨てて町に引き返そうとするも、サイドミラーを見れば、またもや町に戻ってこようとするランボーの姿が……。


(あいつ………)


パトカーを戻したティーズルは、ランボーが持っていたサバイバル・ナイフを見つけると、「お前を逮捕する!」と署に強制連行していった。



「俺は何もしていないじゃないか?!放せ!!」


ランボーの必死の訴えを無視して、連れて来られた警察署は、またしても半端ゴロツキのような警官たちばかりの吹き溜まり。



「へへ、コイツ臭いな。たっぷり洗ってやろうぜ!」


警官たちは留置所でランボーを丸裸にすると、冷たい放水を浴びせはじめた。(こんな警察が町の治安を守っているのもどうよ?)


放水が終わると、警察たちはランボーをいたぶり始め、そして、押さえ付けると、

「今度はお前の髭を剃ってやるよ。」とキラリと光る剃刀を持って近づいてきた。(あれま!こんな所に『CSI:マイアミ』のデヴィッド・カルーソが!)



だが、その瞬間、ランボーの脳裏にベトナム時代の拷問のトラウマがフラッシュ・バックされる。



ウォオォォォォーーーーッ!!


ランボーは叫ぶと警察たちを簡単に、蹴ちらかして、署内で暴れはじめた。


警察たちは、あまりのランボーの変貌ぶりにビックリして、防御すらとれず、なすがまま。


まるで、寝ていた虎を起こしたようなものだ。


さんざ暴れまわったランボーは、署を脱出すると、通りに走っていたバイクを奪って逃走した。


「待てー!待ちやがれー!」

ティーズルは、すぐさまパトカーで追いかける。



「チキショー!なめやがって……俺が絶対に捕まえてやる!」


パトカーを走らせながらティーズル保安官は、呟くのだが………だが、事は簡単に運ばないのだ。



なぜなら、ランボーは闘いのプロ中のプロ。


ティーズル他、警察たちは、この後、ランボーの恐ろしさを身をもって知る事になってゆく………。




この第1作目『ランボー』をちゃんと観たのは初めてかも。



と、いうのも私、1作目、2作目をとばして、当時いきなり3作目『ランボー3 / 怒りのアフガン』を劇場で観てしまったせいもある。


何の予備知識もないまま、それを観てしまい、あまりの銃の乱射や爆破に胸焼けというか、へき易してしまい、「もう、『ランボー』はいいや……」と思ってしまった記憶があってそれっきり………。



テレビで放送されようが、4作目が作られようが、何だか知らぬ顔をきめこんで、見て見ぬふりをしておりました。(スタローンは好きなんだけどね)



近年になって、この1作目『ランボー』を作った監督が、テッド・コッチェフ(『料理長殿、ご用心』など)だと知ると、また考えも変わってくる。



観てみようかなぁ~………。



で、観た感想、なかなか良く出来てるじゃありませんか。





山に潜り込んだランボーは、廃屋を見つけると、そこにあった廃材やガラクタを利用して、様々な武器を作り出す。(勉強になるなぁ~)




そうして、山の中に仕掛けられたハニー・トラップ。



追いかけて来たドジな警察たちは、それに面白いように引っ掛かるのが、愉快痛快である。



この山の中では、俺が法律だ!!


(か、カッコいい!………こりゃ、大ヒットするはずだわ)



そんな具合に、簡単に軽くあしらわれているのに、馬鹿なティーズル保安官たちは、

「200人の警察官たちを集めて、一斉に山狩りをするんだ!奴はひとりだ!」と、全く懲りない様子。



そこへ、ランボーのかつての上司『トラウトマン大佐』(リチャード・クレンナ)が現れる。



「無駄な事は、お止めなさい。君ら警察に勝ち目はない。」


「何を言ってるんだ!?こっちが大勢でかかれば、奴はもう終わりだ!」


「ならば、200人の死体袋を用意することですな」と淡々と話すトラウトマン大佐。



ランボーが、《 いかに優れた破壊工作のプロ中のプロなのか 》を、トラウトマン大佐は警察たち相手に、コンコンと説いてゆく。



恐るべしやランボー。(このあたり、ランボーの強さをトラウトマン大佐に語らせるあたり、コッチェフ監督の演出が冴え渡る。上手いなぁ~)



こんな、向かうところ敵なしのランボーなのだが、最後の最後で、またまた驚愕した。



映画のラスト、説得するために訪れたトラウトマン大佐を目にすると、途端に目の前で《 大泣き 》しはじめたのだ!!


「ベトナムから帰ってきてからも俺らは除け者扱い!仕事といえば駐車場係くらいしかない!それに毎夜、ベトナムで死んだ仲間の姿が忘れられないんだ~!」



もう言ってる事が支離滅裂。


堰(せき)を切ったように、次々流れ出す言葉の放流。

トラウトマン大佐の胸を借りて、突然、オイオイ泣き叫ぶランボーにビックリ。




いくら強くても、心は傷ついた魂を抱えているランボー。


トラウトマン大佐は、「よし、よし……」とばかりに、まるで子供をあやすようにして慰める。



そして逮捕され連行されていくランボーの姿で映画は、幕となる。




この1作目を観ているのと、観ていないのとでは、まるで大違いだ。


自分の中で、ガラリと印象が変わってしまったランボー。



この1作目は、超オススメである。

星☆☆☆☆☆。


※尚、この『ランボー』には別エンディングが存在する。


トラウトマン大佐の説得に対して、「この苦しみから逃れる為に俺を殺してくれ!」と頼みこむランボー。


銃を持たせても、ためらうトラウトマン大佐に、ランボーは、自ら引き金をひいて自殺するのである。



これが採用されていれば、その後に続く『2』も『3』なかったのだ。


80年代まで、ヨーロッパ映画の風潮で、アメリカ映画にも《悲劇万歳!》とばかりに、主人公までも無惨に死ぬ映画が、いくつも作られた。



ランボーは生き残り、これ以降、映画はヒーローの活躍を楽しむエンターテイメントの時代へと流れていくのである。

2020年1月14日火曜日

映画 「リトル・ランボーズ」

2007年 イギリス、フランス合作。






時は1982年。


『ウィル・プラウドウッド』(ビル・ミルナー)はイギリスに住む11歳の少年。


父は、ウィルがまだ幼い頃に、庭の芝刈り中に動脈瘤破裂で亡くなり、それからは母親と年老いた祖母、それに幼い妹の四人暮らしだ。


母親は、父親の突然の死が相当ショックだったのか………救いの手を《 神 》に求めた。

家族が揃って入信した《 プリマス同胞教会 》は、戒律の厳しさで有名である。


テレビもダメなら音楽もダメ。

学校が休みの日には、家族揃って教会に出かければならない。



そんな戒律の厳しい生活で暮らしていると、学校でも、だんだん浮いた存在になってくるウィル。


友達も出来ずに、ひとりでノートに落書きをしては、空想の世界に浸るのが日課だ。


学校でも、ビデオ視聴の授業があると、

「あぁ、ウィル、君は宗教でテレビを観てはダメだったな? しばらく廊下に出ていなさい。」

と、先生にまで言われる始末。(ここまで厳しい宗教もどうなんだろう)



でも、そんな扱いにも、とうに慣れてしまっているのか……ウィルは、おとなしく廊下に出ていった。


廊下で座りながら、落書きしたノートをボンヤリ眺めていると、隣の教室からひとりの少年が廊下に出されてきた。

「リー・カーター、何て子なんだ!君は!廊下に立ってなさい!!」


『リー』(ウィル・ポールター)と呼ばれた少年は、いかにも悪ガキ風で、全然反省した様子もない。


ふくれっ面をしてみせると、同じように廊下にいるウィルに気がついたようだ。


リーはウィルに近づいて来ると、ボールを投げつけて、その隙にウィルのノートを、おもむろに取り上げた。


「何だ?これ?」

「返してよ!」


リーは、ノートに書かれたウィルの空想の落書きを見ると、しだいに感心してきて、「これお前が描いたのか?」と聞いてきた。


性格も境遇も全く違う二人。


これがウィルとリー、二人の少年の友情の始まりだった………。


前回、書いていたように、映画『抵抗』熱を冷ます(忘れる)ように、何気に選んだ、この映画だったのだけど、これも、またもや《 大当り 》だったかも。


面白いし、感心したし、感動した!


特に、このウィルとリーの子役たちが素晴らしくて、最後まで釘つけ。



やはり、イギリスやフランスなどの映画になると、この手の映画は、格別に群を抜いている感じがする。(アメリカ映画には申し訳ないけど(笑))



たま~に、押しつけがましい、「全世界が泣いた!感動した!」なんてうたっている映画を見かけると、天の邪鬼な自分は即、敬遠してしまう。(そんなのに限って全く期待ハズレだからだ)



ウィルを気に入ったリー少年は、強引にウィルを自宅に連れてくると、映画『ランボー』のビデオをセットして見せた。


テレビ画面には、あの、シルベスター・スタローンがランボーに扮して孤高に闘う勇姿が映し出される。


「何だ?!これは?!スゲー!格好いい!!『ランボー』最高!!」


まさにカルチャーショック。


それまで、全くテレビも映画も観た事のないウィル少年なのだから、全身に稲妻がはしったような衝撃なのだ。


卵から、突然、雛がかえったような感じ。


その瞬間から、頭の中は『ランボー!』、『ランボー!』で一杯で、

「僕は『ランボー』の息子だぁー!」と叫ぶ始末。


それを聞いたリー少年も「いいな、それ」って感じでノリノリ。


ちょうどリーは、自主製作で、映画を撮ろうと思っていたので、二人は《 ランボーの息子 》ってタイトルで映画を撮る事になるのだった。


ランボーの格好を真似て、走り回り、オモチャの銃を振り回しては、それを撮影する日々。(まぁ、ゴッコ遊びみたいなモノである)


時には、木からロープを垂らして、それに掴まり、ターザンの如く「ヤァー!」ってな感じで勇ましくも、湖にドボン!


病院に入院しているジイ様にランボーの扮装をさせては、「助けにきたぞ!ランボー!」なんて事も。(扮装させられているジイ様も分かってるのか、分かってないのか(笑))


なんか、こういうゴッコ遊びに夢中になっている二人を見ると、自分もタイム・スリップして、

「あぁ、こういう遊びやったなぁ~……」とか「あぁ、分かるなぁ~……」と、いちいち郷愁にひたってしまう。



こんなに二人が仲良くなったのも、理由があって、このリー少年の境遇も、また複雑なのだ。


父親もいなくて、母親は出ていって、暴君な兄貴に気を使いながら(11歳なのに、せっせと兄貴の世話や家事全般)の二人暮らし。


外では悪ぶっていても、埋められない寂しさを抱えているのだ。



こんなに仲良く自主製作の映画を撮りながら、遊んでいる二人に、やがて学校にやってきた交換留学生や、その取りまきたちが現れて、「俺らも映画に参加させろ!」と強引にやってくると、二人の間にも亀裂が……。



さぁ、どうなるのか?


笑わせて、最後にはホロリとさせて………。


これも、このまま埋もれさせてはいけないくらいの傑作である。

オススメ!

星☆☆☆☆☆。

※それにしても、シルベスター・スタローンは、こんな映画があるって事を知ってるのかなぁ~(笑)

2020年1月11日土曜日

映画 「抵抗」(2度目のレビュー)

1956年 フランス。








抵抗』2度目のレビュー …………

自分としては異例中の異例だが、もう1度ここに書き記しておきたい。


というのも、普通の脱獄映画だと思って、先日、この映画『抵抗』を観て、サラサラとココに取り上げて書いてみた自分なのだけど ………

なぜか?この映画に限っては、今までの映画とは、少しばかり様子が違うような気がしてきたからなのだ。



日が経てば、また、すぐに観たくなってしまうのである。



気がつけば、すっかり『抵抗』にハマっていて暇さえあれば、繰り返し、繰り返しDVDを観ている日々。



これはいったいどうしたものなのか?



何でこの作品に限ってこんなに強く惹かれるんだろう ……



1度観ても、また、すぐに観たくなるような、そんな中毒性のあるような作品。

そんな作品に、この歳で出会って、これまた夢中になるというのも珍しいこと。



監督のロベール・ブレッソンの世界は、他の映画と、どう違うのか?




そんな考えを巡らせながら、繰り返し観ているうちに、ある事に気がついた。




『抵抗』の主人公『フォンティーヌ』は、ほぼ口を開かないのだ!




そのかわり、《 心の声 》(フォンティーヌの、その時々の心情・ナレーション)が、画面に被さりながら話は進められていく。


こんな手法を、この映画は存分に好んで取り入れているのだ。




これは、まるで日本なら《少女漫画》などが昔から好んで使う手法である。



ふきだし(セリフ)以外のところで、主人公たちが、自分たちの心情を吐露する場面を色々な少女漫画で見かけた人たちもいると思う。




こんなのは少年漫画には、あまり使われない表現方法。


この独自の手法を発展させることによって、少女漫画は、少年漫画や青年漫画とは違って、より深く精神世界へと踏み込んでいったのだ。




この方法は、否が応でも観ている人たちを、主人公に感情移入させて引き込んでいく。



なぜなら、他に現れる登場人物たちが、決して知ることのない主人公の心の声を、観ている我々(自分)だけが知る事になるからなのである。




それを、こんな大昔から既に完成させていた監督のロベール・ブレッソンは、この分野の元祖、パイオニアといってもいいくらいだ。




脱獄の機会を伺いながら、フォンティーヌの無表情の顔を映しては、


(手間取った …… 看守の見廻りの音を怖れたからだった ……… )


なんていうような心のナレーションが、いちいち被さって入るものだから、観ている我々もフォンティーヌと一緒に、ピン!と張りつめた緊張感を味わいながら、脱獄に挑戦しているような気分になってくる。



いつしか、このスリリングな体験を主人公を通して自分もしているような錯覚さえおこしてしまうほどだ。



こんな手法は、いやはや、なんとも ……

盛り上がらないはずがない。




俄然、こうなると『ロベール・ブレッソン』に関して調べたくなるのが自分の性分。




やはり、他の映画監督たちとは、だいぶ変わった趣向や考えの方の持ち主だったようである。


  《↑ロベール・ブレッソン監督》



ロベール・ブレッソンは、既存の玄人俳優たちを嫌がったようだ。


変わりに使われるのは、演技経験なんて全くした事のない素人たち。(まぁ、その素人たちもブレッソン映画出演以降、映画界にとどまった者が何人かいたらしいが)



そんな素人たちにさえ、「無理に演技しないでくれ!ただ、そうやって、そこに存在してくれればいい!」だったらしい。



《 俳優が演技しない? 》とは何なのか?



この『抵抗』でもフランソワ・ルテリエは、うつむき加減で左右に目線を走らせるだけ。



映画は、その場面場面を切り取って我々に見せている。


ブレッソンが目指したものは、過剰な演出を徹底的に省いた《 リアリズム 》。


ごく普通の人間が、普通でない状況に置かれた時に、「どう考えて、どう行動するのか?そして、どんな反応をするのか?」………映画はその場面を単純に繋ぎ合わせたモノだと考えたのだ。


ブレッソンは素人の俳優たちを『モデル』と呼び、自らの映画作品たちを『シネマトグラフ』と呼んだ。


極限まで要らないモノを徹底的に削ぎおとして、俳優たちにも内面を演じさせず、ただ、その様式だけを我々に見せる。

それは時として、観ている者たちに強い印象を残し、無限な想像をさせるのである。




今、自分の手元にはブレッソンの別の映画『スリ』があって、それを観てから、すぐにblogに挙げてもいいのだが簡単には進められそうもない。


しばらくは、この『抵抗』の印象が強くて、他の映画に寄り道したりして、この『抵抗』の印象が薄くなるのを待たなければ、どうにもいかない次第である。



こんな経験も、また嬉しく、珍しいものなのである。







2020年1月9日木曜日

ドラマ 「奥様は、取り扱い注意」

2017年 10月~12月。






もう、ほとんど、テレビやれ、ドラマやれ観なくなった自分だけれど、この人が出ていると、ついつい観てしまう。


綾瀬はるか』様。


もっか私が、唯一、大好きな女優さんである。




バラエティーでは、ノホホ~ン、ホワワ~ンとした雰囲気をかもし出す彼女だけど、役者スイッチが、ひとたび入れば、全然違う魅力を放つ。


『世界の中心で、愛をさけぶ』では、丸坊主さえもいとわず、

『義母と娘のブルース』では、腹踊りさえいとわない。


他の女優さんが尻込みしてしまうような役でも、彼女はイヤな顔ひとつせずやってのける。



その女優としての覚悟が、その他の大勢の女優たちと比べると、断トツに抜きん出ているのだ。


そして、それは何を演じてもキラキラと輝いているように見えてしまう。



「綺麗にみられたい!」とか「美しくみられたい!」などと思いながら、口先だけのセリフをボソボソ喋っている大勢の女優たちとは、彼女だけが別次元にいるように思えてならない。




もう、本当に大好きである❤❤❤。





そして、もうひとつ、彼女の武器は、おそろしいほど発達した《 身体能力 》。



『精霊の守り人』のバルサ役で見せた、あのアクション!

「なんちゅー、動きじゃ!スゲー!」と、ただ、ただ感心。

あの長くて重い槍を自在に扱い、振るうバルサ役。



普通の女優なら、「こんなの出来な~い」なんて甘え声で、のたまうか、泣き出すものを、彼女は一切妥協せず、ストイックにやり遂げた。


元々、学生時代に陸上をやっていた彼女の身体能力は高いが、それにしても………こんなのは驚異的である。





そして、この『奥さまは、取り扱い注意』もアクションもの。

毎週欠かさず観ておりました。





女スパイとして活躍していた彼女が、普通の生活に憧れて、自らの偽装の死を演出して、別の戸籍を手に入れる。


そして、偶然出会った理想の男性『伊佐山勇輝』(西島秀俊)と結婚。


自分の過去を隠して、『伊佐山菜美』(綾瀬はるか)となった彼女。



二人は日本に帰ってきて、住宅街に一軒家を構えて、普通の生活を送り始めた。


御近所の主婦たちとの交流にも、せっせと乗り出す菜美。


次第に、近所の大原夫婦(広末涼子と、イヤなネチネチした旦那、石黒賢)、佐藤夫婦(オドオドした本田翼と、ヘラヘラした浮気性の中尾明慶)と仲良くなる。(コイツら、どーでもいいような、ショーもない夫婦たち)




でも……何だか満たされない毎日。



そんな普通の暮らしでも、近所の家では、それぞれ複雑なトラブルを抱えていて……。

人一倍、正義感の菜美はそれを黙って見過ごせない。



やがて、

「私が助けてあげる!」と、ムクムク!と闘いの本能が目覚めてくるのであった………。





て、いうのが、『奥さまは、取り扱い注意』の基本設定。


このドラマもただ、ただ、綾瀬はるか嬢を見たいが為に観ていました。



彼女の、肩、肘、手首、腰、均整のとれた脚、それに足首まで、と、あらゆる体中の部位という部位が自在に回り、動く。


ナイフやこん棒を持った暴漢や悪役たちを、バッサバッサと倒していく。


寝たままの状態で、腹筋のバネだけを利用して、ヒョイと起き上がるなんて芸当ができる女優が、どれだけ存在するだろうか?



唯一無二の女優。



そんな『奥さまは、取り扱い注意』だったけど、最終回で尻切れトンボ。


西島秀俊が綾瀬はるかに銃口を定めて、銃声の響く音でEND。



「何?この終わり方は?あんまりじゃーないかぁー!」とイライラ、プンプン!💢


消化不良のまま終わってしまった。




そして、そのドラマの続きとなる劇場版が公開されるという。(この続きは映画で、って商法もあざとくて嫌な感じだなぁ~)



ま、とにかく映画は皆が納得するような、綺麗な着地のTHE・ENDを期待したいと思う。



あぁ、そうそうドラマは結末の不出来さを引いて、星☆☆☆である。


この稀有な女優を、日本の宝として、これからも大事にして頂きたい。