2023年8月30日水曜日

よもやま話 「君は《徐福(じょふく)伝説》を知っているか?」

 


《↑鹿児島県いちき串木野市冠獄(かんむりだけ)の徐福(じょふく)像》



昔、昔のはるか昔 ……

今から、ざっと2200年前くらいの中国。


その時は《秦(しん)》と呼ばれており、最初の皇帝である《始皇帝》が統治していた。(紀元前221年頃)

《↑秦(しん)の始皇帝》


この《始皇帝》の性格は、ワンマンかつ暴君。


「欲しいモノがあれば、どんな事をしても必ず手に入れる!」

そんなスローガンを掲げて、富と権力を思うがままに手にしてきた男なのである。


有名な《万里の長城》の建設も、ちょうどこの頃だと言われている。


気の遠くなるなるような、いくつもの石を積み重ねて出来た《万里の長城》も、大勢の人々の血と涙が流されて出来たトンデモないシロモノなのだ。(断ったり、逆らったりしたら即、処刑)


そんな風にして、なんでも手に入れてきた《始皇帝》は、ある日、とうとうこんな事を言い出す。


「徐福、徐福はおらぬか?」

始皇帝に突然呼びつけられた『徐福』は、この時、《方士(ほうし)》の立場。

《方士》とは、瞑想、気功術、占いなどに長けた、不老長寿を目指している修行者の事である。


「徐福、《不老不死》の薬を探してくるのだ!」



しばし、ポカ〜ンとなってもよさそうなトンデモない要求だが、徐福は即答。

始皇帝の命令は絶対なのだ。


「分かりました、すぐに探してまいります!」と言いはなった。(まぁ、こう返事しなければ即、殺されてしまうからな)


こうして《東方の三神山》(仙人が住むという島←ホントかよ?)を目指して航海に出かけていった徐福一行だが、しばらくすると(あらら … )手ぶらで帰ってくる。


「どうにも …… 巨大クジラに航路を阻まれまして …… 」(一説には巨大鮫ってのもある)

だが、こんな返答で超ワガママな始皇帝が「あ〜、そうですか」と納得するはずがない。


「すぐに2度目の航海にでるのだ!今度はクジラにも負けないような、そうして長い航海にも堪えられるような巨大な船で!!」


2度目の航海に向けては、子供から大人まで男女 3000人 が乗り込めるほどの大船が完成する。(そんな巨大な船がこの当時の技術で作れたか、どうかは大いに疑問だが)


そうして、長い航海でも困らないように、たくさんの財宝やお金、五穀の種などが積み込まれた。

もう、これは一種の 宝船 である。


こうして意気揚々と徐福一行は旅立っていったわけだが ……… 



だが、それっきり。

2度と戻ってくる事はなかったのでした。


《↑江戸時代、浮世絵師《歌川国芳》によって描かれた徐福の船》


帰ってこなかった徐福を本国では、ずっと「詐欺師!」、「ペテン師!」呼ばわりだったらしいが、しばらくすると「もしや、徐福は《台湾》か《日本》に逃げ延びたんじゃないのか ……」なんて噂が、まことしやかに囁かれはじめる。


この時期の日本といえば、やっと《縄文時代》から《弥生時代》を迎える頃。

そんな時代の書物や文献なんてのが、あるはずがない。


だが、この噂を日本人は信じたし、中国人も「徐福は日本へたどり着いたのだ」と唱える輩も徐々に増えていったという。



【日本人が《徐福》を信じる理由〜その1】

「徐福が船に積み込んだ《五穀の種》が、弥生時代を迎えた日本の《稲作》を発展させていったのだ」と考える説。


【日本人が《徐福》を信じる理由〜その2】

《秦》の時代に使われていたお金(半銅銭)が、日本のあちこちで出土されて大量に見つかっている事。←(これは案外有力。徐福一行が日本に持ち込んだと言われているのだ)


何にせよ、江戸時代には上記のような浮世絵まで描かれているので相当な信じ込みようである。


しかも、北は青森から〜南は鹿児島まで(北海道を除く)、全国的に、あちこちの県で《徐福》の事は

「うちの場所に立ち寄った」だの、

「しばらく住んでいた」

なんて形容で伝承されているのだ。(ネットもテレビもなかった大昔に、この広域な範囲で。恐るべし《徐福》伝説である!)


もはや、日本の神社という神社には《徐福》関係の事が祀られていて、それに遅れて中国式庭園だとか《徐福》像が点在している始末。


私が住んでいる場所近く(鹿児島県いちき串木野市冠獄(かんむりだけ))にも、1992年に《冠獄園(かんがいえん)》なる中国式庭園が作られて、2000年には上記のような《徐福》像が出来あがっていた。

《↑冠獄園》



こんな徐福の事を今の今まで、ひとっつも知らなかった私。


たまたま趣味の温泉♨巡りで、《冠岳(かんむりだけ)温泉》なる場所に初めて行って、近くに「妙な場所があるなぁ~」と知って調べてみた次第である。


で、《徐福》伝説の事であるが、自分としては半信半疑。

大昔の事だし、どこまで信用してよいのやら。


なんだか日本人の特質(噂好き、真似るのが大好き、ミーハー気質)を存分に利用されている気にも思えるのだが ……



そうして、肝心の秦の始皇帝が、その後どうなったかを補足しておくと ……


待てど暮らせど帰ってこない徐福に痺れをきらした始皇帝は、残った部下たちに《不老不死》の秘薬を作らせた。


それは《辰砂(しんしゃ)》を原料とした“丹薬(たんやく)”という名の薬。


「皇帝、《不老不死》の薬が完成しました!」

「おお、そうか、そうか。待ちかねたぞ。これで俺は《不老不死》になれるのだーー!」


疑いもせず、部下に毒見もさせず、ゴクゴクと美味しそうに飲み干す始皇帝。


辰砂(しんしゃ)とは、水銀が硫黄と結びついた硫化水銀のこと


いわゆる猛毒を毎日飲んでいるとも知らずに ……


結局、不老不死どころか、たった 49歳 の若さで始皇帝は亡くなったのだった。


高圧的な暴君の最期 ……


それにしても、こんなトンデモない薬を(なぜ?)部下に《毒見》させなかったのだろうか。


(不老不死を得るのは自分だけでいい …… )


こんな考えで、己のエゴで死んだのなら、それはそれで自業自得な死に方だったのかもね。



何にせよ、全国的に散らばっている《徐福像》や《庭園》、《神社》の数々 ……


あなたも自分の住む街の《徐福伝説》を調べてみてはいかが?


《↑写真は冠岳温泉から帰宅する前に見えた満月のブルー・ムーン。格別綺麗でございました》