2026年2月7日土曜日

ライブ 「工藤静香の《静香のコンサート’89 秋スペシャル》」

 1989年11月5日。





工藤静香』という歌手を、昔、ちょっとだけ好きな時期があった。曲も好んで聴いていた。


だが、近年のビジュアルを見てしまうとその変わりように愕然(がくぜん)としてしまう。


色々なカラーリングのしすぎで長く伸ばした髪は、もはやバッサバサで艶もない感じ。


目は《斜視》がだいぶ進行しているのか、正直どこを見ているのか分からない。(テリー伊藤みたいに治療すればいいのに)


まぁ、これ以上は言うまい。世間もその変化に気がついているはずだから。


ただ、擁護(ようご)するなら、《歌の上手さ》だけは変わらないかも。

若い時のような激しい踊りを辞めてからは特にそう思う。


それでも代表曲、『MUGO・ん … 色っぽい』やら『嵐の素顔』くらいは、昔のように、ちゃんとした振り付けで観たいものだ。(ダラケた踊りほどみっともないものはないのだから)


この《静香のコンサート’89 秋スペシャル》は、まだ私が好意的に観て、応援していた頃のライブである。



セットリストはこんな感じ。


1∶哀しみのエトランゼ

2∶禁断のテレパシー

3∶嵐の夜のセレナーデ

4∶恋一夜


〜 メドレー 〜

Honey、パッセージ、夏がくれたミラクル、永遠の防波堤、メビウスの恋人、立つ鳥跡を濁さず、嵐の素顔


5∶丘の上の小さな太陽

6∶美粧の森

7∶カレリア

8∶Again

9∶抱いてくれたらいいのに

10∶黄砂に吹かれて

11∶天使みたいに踊らせて

12∶秋子

13∶FU-JI-TSU



初期のアルバム曲や《うしろ髪ひかれ隊》時代の曲を取り込んでいる特殊なライブである。


これらの曲の中では『哀しみのエトランゼ』、『嵐の夜のセレナーデ』、『秋子』などが好き。


うしろ髪ひかれ隊の曲も好きなのだが、このメドレー・コーナーだけは毎回全て口パクである。


まぁ、こんだけ激しく踊っているんだからしょうがないんだけど。(工藤静香のライブの場合、数年間は恒例として《口パク・ダンスメドレー・コーナー》が続けられていく)




それでも、この頃までの工藤静香は(多少ケバくても)まだ好意的に観ていた時期だったかもしれない。


この後、この人の本質が徐々に明らかになっていくと、私のように離れていくフアンなどもいたりして、世間の評価は真っ二つに分かれていく。


80年代アイドルたちも90年代が近づくと、自ら作詞を次々とやりはじめた。ご多分に漏れ、工藤静香だって作詞をはじめる。


でも、ペンネーム『愛絵理(あえり)』って何?(静香が産まれた時、親が候補として考えていた、もう一つの名前なんだとか。本当かねぇ~ …… )


歌に携わる者として、ここまでなら分かるが工藤静香の暴走はここで終わらない。


《独学》で油絵を始めると毎年毎年、二科展に応募して連続入選。


《↑毎回、絵のモチーフになるのは自分自身?(どんだけ自分大好きなのか …… )しかも、いつも幻想化したような、それでいて奥行きの無い平面な絵面である》


誰か本職の先生に師事して油絵の基本から習おうとかいう気はサラサラないらしいし、風景画みたいなモノも描く気もない様子である。(こんなわけの分からない絵を高額で買って、家のどこに飾りたいと思うのか?)



オマケに、

「家庭の事だって一生懸命やってます!」的なアピールで、たまに自分で作った創作料理をネットに挙げていたりもする。(心無いネット民からは盛り付けが汚く見えて《汚料理》なんて呼ばれてもいた)


そして、そんな料理を二人の娘たちが大絶賛する!

「マミー(静香)の作る料理はとっても美味しいんだから!!」(いい歳をした娘らが、自分の両親を《マミー》とか《トト》って …… )


ごく最近の出来事では、なにかの番組で工藤静香が英語を流暢にペラペラと話していた。他の出演者たちもビックリしている。

謙遜するかと思いきや、そこは天下の静香様。


「だって家で英語が喋れないの私だけだったんですよ〜、悔しいじゃないですか?一生懸命勉強しましたよぉ~!」


こんなのを熱烈なフアンから見れば「流石!なんでもできる静香様!木村ファミリーの方々様!」と思うんだろうか ……

私なんかは、もうお腹いっぱい。胸焼けがしそうである。


だが、とうの昔に私は気づいていた。


芸能人だからしょうがないのかもしれないけど、この人の場合、「私って、こんな事もできるし、あんな事もできますよ!」っていうアピール、つまり他の人と比較しても承認欲求の度合いが特に強すぎるのだ。


でも、どうしてこうなってしまったのか …… と考える時、この人のソロデビューまでの経緯を振り返れば、その理由も納得するかも。



最初にデビューした3人組グループ『セブンティーン・クラブ』は、まるでさっぱり売れなかった。

オマケにセンターでもなかった工藤静香は2曲出した時点でグループを脱退する。(グループは消滅する)



そうして、『おニャン子クラブ』のオーディションに、また一から参加。

見事合格するも、その他大勢のド素人と一緒にバックコーラスからスタート。(デビューした事があるんだから、これは相当屈辱的だったはず)


しばらくすると、ようやっとチャンスが回ってきて、おニャン子クラブから3人組グループを選出した『うしろ髪ひかれ隊』として再デビュー。



だが、ここでも工藤静香は最初、 センターではなかったのだ。(事務所が一番に推していたのは生稲晃子(いくいな あきこ)である)


ただ、センターに選ばれたのにも関わらず 生稲晃子は、恐ろしく《 歌 》がヘタクソだった!(笑)


もう一人の斉藤満喜子の方は、まぁまぁの歌唱力だったが、ビジュアルが ……(いくら太眉が流行っていた時代とはいえ、毛虫眉毛じゃ …… 無理でしょ(笑))


『うしろ髪ひかれ隊』は、2曲目から大胆に方向転換され、生稲晃子のソロパートはほぼ無くなり、センターには工藤静香が大抜擢される。


そうして、長年の念願だったソロデビュー作『禁断のテレパシー』につながるのである。



こうして今更、振り返ってみると、けっこう苦労人の工藤静香。

だからこそ、「一度つかんだチャンスは絶対に離さない!」の決意で、あの頃、猛烈に踊っていたのかしらん?(ここから現在までに続く、死に物狂いの自己アピールは、とうに始まっていたのかもしれない)


このデビュー曲『禁断のテレパシー』が1987年8月発売なのに対して、このライブは1989年。


たった2年の間で、このケバい変わり様よ。


それにしても、あの頃を思い出してみると、街の繁華街に繰り出せば、キャバ嬢でもホステスでも(ニューハーフでも)皆んなが皆んな、工藤静香の髪形やファッションを真似していたっけ。


南野陽子中山美穂になれなくても、目指すのが工藤静香なら簡単になりやすかったのかもね。


あ、そうそう、KABA.ちゃんが、何度も整形手術を繰り返して、最近、工藤静香に寄せてきたみたい。


やっぱ、そっち方面の方々には、工藤静香って今でも憧れるカリスマ的存在なんでしょうねぇ~。

《おしまい》