2019年11月30日土曜日

映画 「消えた拳銃」

1967年 アメリカ。






デヴィッド・ジャンセンが主演をしている映画。



もはやデヴィッド・ジャンセンを現代では覚えている者も少ないか、……1963年にアメリカ本国で始まったテレビシリーズ『逃亡者』で、その名を知らしめたお人である。



有名な外科医『リチャード・キンブル』(デヴィッド・ジャンセン)が見に覚えのない妻殺しの汚名をかけられ、逃亡の旅を続けながら、現場から立ち去った片腕の男を追う物語。


執拗なジェラード警部の追跡を逃れながら、毎回、すんでのところで逃亡に成功する。



このテレビシリーズは、もちろんタイムリーで見ていないが、自分は深夜の再放送でチョクチョク見ていた。(だって1968年生まれですもん)


本国アメリカでは放送当時、一大センセーションを巻き起こし、4シーズンで120話。

最終回の視聴率は、何と!当時、最高の50%を叩き出したそうな。(ざっとアメリカ人全体の二人に一人は見ていた勘定)


日本でも翌年の1964年に始まると大ヒット!



放送が始まる時間帯は、町中から人の姿が消えていたらしい。


この伝説を、既に聞いていて知っていた自分は、(この皆を虜にする異常な熱狂は何なんだろう……)と、再放送当時、興味深く見ていた。



そして、その理由は、やはり、『デヴィッド・ジャンセンの魅力』、これに尽きるのだ。


この人の、善人そうなんだけど、どこか、もの悲しそうな影のある雰囲気はどこからくるのだろう。


それも、ただ暗いだけじゃない、この影のある雰囲気には、観ている人誰もが、「大丈夫か?」、「頑張って!」、「負けないで!」と同情したり応援せずにはいられない。


泣き顔を、何とかこらえながらも、ようやく画面にたっているって感じである。


こんなのをブラウン菅で毎週見せられた日には、そりゃ、当時の女性たちはフラフラ~と一瞬でよろめいて、母性本能をくすぐりまくりだろう。


男の自分でも、ひたすら同情し、ハラハラし、いつしかデヴィッド・ジャンセン演じるリチャード・キンブルの気持ちに同化しながら観ていたものである。



前回《主人公の条件》なるものを、生意気に語っていたが、デヴィッド・ジャンセンは、まさに、主人公の資質を備えているし、そこにだけ別のライトというか、焦点が当たっている感じだ。



そんな『逃亡者』が終わって、間を開けずに公開されたのが、この映画『消えた拳銃』である。




この『消えた拳銃』でも『逃亡者』の雰囲気を漂わせながら、彼は周囲からは孤立無援。


ひたすら孤軍奮闘するのだ。




夜間、ある張り込み中に怪しげな男を見かけた刑事『トム・ヴァレンス』(デヴィッド・ジャンセン)。


追いつめた相手は懐から銃を、突然抜いた。

それより先にトムの銃が早く火を噴く。



胸を押さえた相手は、そばのプールに、バシャッン!と落ちた。(絶命)


相棒が、かけつけて「いったい何があったんだ?」と聞くと、トムは、もちろん「こいつがいきなり発砲しようとしたんで先に撃った」と答えた。


「で、その銃はどこにあるんだ?どこにもないぞ!」

「きっとプールの底にでも落ちたんだろうさ」



だが、その銃がどこからも見つからない。しかも殺された相手は高名なラストン医師。


メディアは警察の失態と騒ぎ立て、とうとう裁判まで。


ラストン医師の評判は上々で、次々とかばいだてをする証言が並ぶ。


「先生は本当にお優しい医者でした」アリスという老婦人も証言台に進んでたった。(あら、誰かと思ったら『狩人の夜』のリリアン・ギッシュ様じゃないか)


だんだん、トムの立場は悪くなる一方。


「お前、本当に拳銃を見たのか?見間違いじゃなかったのか?」


警察の関係者や同僚たちも、トムに不信感を現しはじめた。

「俺は本当に見たんだ!」


トムの必死な訴えも、周囲は疑いはじめてかき消されていく。


トムの孤独な捜査がはじまる………。






この映画、まるで『逃亡者』そのままをなぞったような孤立無援、孤軍奮闘のデヴィッド・ジャンセンである。


警察仲間には誰一人信用されず、元妻にも疑われて、集団の若者たちに取り囲まれて、しまいにはボッコボコに殴られ放題の始末。(ちょっとやりすぎなんじゃないか?と思うくらいに悲壮感タップリ)



いくら、デヴィッド・ジャンセンに孤独な影が似合うといっても、テレビのブラウン菅と映画で観に行くスクリーンとは、だいぶ違ったはずだ。


大画面で観る、この映画の暗さや悲壮感は、あまりにも大きすぎて、観客は少々ゲンナリしたんじゃないだろうか。(それくらい最後までデヴィッド・ジャンセン演じるトムには救いがない)



映画は、まぁまぁ、の出来で決して悪くはないのだが、ちょっと爽快感というか、カタルシスに欠ける感じ。


デヴィッド・ジャンセンも、それを肌で感じたのか、それ以後、またテレビの世界へと戻っていく。



そして、1980年に48歳で死去。(心臓発作でした)


とすると、この映画の時は、1931年生まれだから、まだ35、6歳?!(ふ、老けてる)



もともと、心臓が悪い人だったんだろうか、それゆえの、あの独特な暗い孤独そうな影だったのか……。



何にせよ、何十年も過ぎた今では、それを知る術もないが……。


映画は星☆☆☆かな。

往年のフアンで、カラーのデヴィッド・ジャンセンを観たい方たちには、オススメかもしれない。

2019年11月27日水曜日

映画 「トイ・ソルジャー」

1991年 アメリカ。





『トイ・ソルジャー』を観たのだけれど……。



テロリストに占拠された全寮制の男子高校で繰り広げられる青春アクション映画。



その中に主要な悪タレ生徒5人組がいて、知恵と勇気で、テロリスト相手に闘うのだが………如何せん、生徒の区別がつきにくくて、誰が誰やら最後までさっぱり。



取りあえずは、主人公の『ビリー』(ショーン・アスティン)と黒人の少年だけは、区別がついて分かるのだが、後は誰だっけ?ってな感じで、1回観ただけじゃ分からない。



もう少し、一人一人に性格描写があれば、この映画は傑作になったであろうに……惜しい。



『スタンド・バイ・ミー』のウィル・ウィートンも出ていたらしいが、見終わって調べてみたら、「あぁ、この子がウィル・ウィートンだったのか……」と分かったくらいで、これまた印象薄い。



後の二人の少年なんて、どっちがどっちだっけ?ってな感じで何度観てもこんがらがるくらいである。



とにかく、この主人公のビリーを演じているショーン・アスティン自体も、印象が弱すぎる。



もともと、押せ押せの性格でもなく、姿形も、何だか大人しい印象のショーン・アスティンは、あまり主人公の柄ではないのだ。(決して悪い俳優さんではないのですよ。『ロード・オブ・ザ・リング』ではイライジャー・ウッド助ける従者サムを演じているのだから)



お母さんは、あの『奇跡の人』でヘレン役を演じ、最年少の16歳で、アカデミー賞助演女優賞を授賞した『パティー・デューク』。


お母さんの、あの強い個性に比べたら、ショーンはいつもどこか遠慮がちな、でも人柄だけは良さそうな感じである。



このビリー役も、悪ガキのリーダーなのだが、全然悪ガキそうには見えないし、何だか精一杯無理している感じ。



教頭先生役のルイス・ゴセット・jr.にも、完全に迫力負けしている。


二人が並んだ時には、どうしてもルイス・ゴセット・jr.の方に目がいってしまうし、



テロリスト役の『アンドリュー・ディヴォフ』と並んだ時も、やはりディヴォフの方を先に見てしまう。



やはり、主人公になるには、皆を最後まで引っ張るような牽引力や、何か特別な個性が必要なのだ。



これを、当時のスター、『リバー・フェニックス』あたりが演じていたなら、この映画は後世にも語り継がれる傑作になっただろうに。(たとえ脇役の印象が薄くても)



お話は面白いのに、キャスト選びで損している。


それに、何だか《主人公になるための条件》みたいなものを、つくづく考えさせられた、そんな映画でした。

星☆☆。

2019年11月25日月曜日

映画 「チャーリーズ・エンジェル 《2019年》」

2019年 アメリカ。



日本での公開は、来年の2020年だが、この『チャーリーズ・エンジェル 《2019年》』が、大爆死しているらしい、とネット上で挙がりはじめてきた。



前作から、15年以上経って、キャストや監督を全て変えての新作。



このblogでも以前に、テレビ『チャーリーズ・エンジェル』、映画『チャーリーズ・エンジェル』を紹介していて、この2019年版にも、少しだけ触れていたが、よもや、自分の予想どおりになろうとは……。



女優のエリザベス・バンクスが監督して、ボスレーを『女性』に変えて、自ら演じているが、失敗するんじゃないか、と思っていたら、アララ、案の定である。



本人曰く、「この『チャーリーズ・エンジェル』が成功しなければ、男性は女性が活躍するアクション映画を観に行かないというステレオタイプを、ハリウッド業界に強めてしまう」と言っているらしい。



まるで、この映画の失敗は、男性が観に行かないせいだ!と言うような言い方である。



これにはネット民たちも、大炎上。


「何でもかんでも男のせいにするな!」

「面白ければ観に行くんだ!」

「男だけじゃなく、誰も観に行かないからコケたんでしょう!」


こんな感じで大荒れ。


日本で公開する前に、これじゃあ、皆が観る気を削がれてしまう。




それにしても、なぜにボスレーを女性に変えてしまったのか?



この話を聞いたとき、

「この映画は100%失敗する!」と思っていた。


仲の良い3人の、それぞれ個性の違うエンジェルと、冴えないが愛嬌のある中年男ボスレーの図式あってこその『チャーリーズ・エンジェル』なのだから。



今更ながら、テレビシリーズで、『デヴィッド・ドイル』が演じた『ボスレー』の偉大さを再確認する結果となってしまった。


テレビシリーズでも、エンジェルたちの交代はあっても『ボスレー』は変わらなかった。(後、『ケリー・ギャレット』役のジャクリーン・スミスもだが)


この男が、ちょっぴりドジで、愛嬌があって、場を和ませて、3人のエンジェル達を笑わせていたからこそ、番組は最後まで、いい雰囲気が流れていたのだ。




そこのところを、この《2019年版》は、おざなりにしすぎているし、軽んじすぎている。


映画『チャーリーズ・エンジェル《2000年版》』では、『ビル・マーレイ』が、ちゃんと『デヴィッド・ドイル』のお鉢を次いで、面白おかしく演じてくれたので、テレビシリーズのフアンも安心して、ス~ッと違和感なく映画に入っていけたのだ。


仲良しの3人のエンジェルたちと中年男。


この図式は『チャーリーズ・エンジェル』においては不変的なのである。





何でもかんでも、リブートやリメイクをしても、決して変えてはいけないものもあるのだ。



そんな変革を、はなから観客たちは望んでいない。



『007』を黒人や女性が演じてもいいじゃないか!だって?


この頃、チラホラ、囁かれる変なハリウッドの改革話。


そんなものを観客たちは、全く望んでいない。(絶対にコケるに決まっている)



女性差別や人種差別を盾にして、揺さぶり、根本の図式さえも変えるやり方には、断固反対。



そんなものに振り回される限り、当分、ハリウッド映画は、観客が求めるものとの『ズレ』で、苦い失敗を味わい続けるに違いない。

2019年11月20日水曜日

映画 「キャット・バルー」

1965年 アメリカ。






リー・マーヴィンが、この作品で、アカデミー賞主演男優賞を受賞しているのは知っていたし、主演がピーター・フォンダの姉、ジェーン・フォンダなのも知っていた。



DVDのパッケージは、馬に乗ったリー・マーヴィンが壁にもたれかかっている物憂げな写真が使われている。


どんなに重々しい西部劇なんだろうと、勝手に決めつけて思っていたのだが………。





観てみると、まるで中身は大違い。




パッケージとのギャップに驚かされる。



なんなんじゃ、こりゃ〜???






オープニングには、皆様、ご存じのコロンビア映画の『コロンビア・レディ』(白い布をまとって、頭上にトーチを掲げている。自由の女神のようなコロンビア映画の象徴)が登場するのだが、それが突然アニメーションになると、白い布を脱ぎ捨てて、女ガンマンに早変わり。


バキューン!バキューン!とピストルを撃つ。(何これ?)


そんなのに度肝を抜かれていると、西部の街並みに変わり、バンジョーを弾きながら、二人の男が画面に現れて、突然歌い出す。



「キャット・バルー ~♪、キャット・バルー ~♪」



歌うのは、コメディアンの『スタッビー・ケイ』と当時、有名な黒人歌手、ジャズ・ピアニストの『ナット・キング・コール』。



「キャット・バルーは、縛り首になるぅ~♪それは彼女が人を殺したからぁ~♪」(なんちゅ~歌詞じゃ(笑))



この二人が、場面場面に出てきては、ストーリー・テラーのように、状況説明を軽やかに歌いあげながら、去っていくのだ。



そんな『キャット・バルー』(ジェーン・フォンダ)こと、キャサリン・バルーは、牢獄の鉄格子の中で、縛り首の時間を待っていた。




彼女がこうなったわけは原因がある。



あれは数ヶ月前 …………



教師になるために、都会で勉強して、無事に卒業したキャサリンは、故郷に戻るために列車に乗っていた。


そこで保安官に連行中の男『クレイ・ブーン』とその伯父『ジェド』と知り合う。





何の因果か、人の良いキャサリンは、クレイの逃亡を手助けしてしまう。(この伯父と甥、この後も出てくるのだが、この映画に必要か?というくらい、まるで役立たず。)




そんなこんながあって、何とか故郷についたキャサリン。

父親とユダヤ人の牧童が出迎えて、実家に馬車で戻ってくると……。



家が荒れ果てている。


父親は、この土地の水利権のため、「土地を手放せ!」と町の権力者、『パーシヴァル』に脅されていた。





こんな顔の殺し屋まで、差し向けて脅してくる。



そんな不安な様子のキャサリンに、再び出会ったクレイは助言をする。



「君も殺し屋を雇えばいいさ!」と。(「あなたが助けてよ!」というキャサリンに、へっぴり腰のクレイは、「俺に人殺しはムリ」と言うだけ。本当に頼りにならない男である。)




仕方なくキャサリンは、伝説のガンマン、『シェリーン』(リー・マーヴィン)を破格の50ドルで雇うも………また、またこの男も ………


常に酒がないと生きていけない、もはやアル中で、手が震えてピストルの弾は的にすら当たらない。(ダメだ、こりゃ)




そんなキャサリン、とうとう父親を殺されて、自ら復讐の為にのりだすのだが ……





父親の為の復讐劇なのに、何だか、とんでもなくお気楽〜な西部劇である。





ジェーン・フォンダが美人だけど、どこか、トボケていて愛嬌のある『キャット・バルー』を演じている。



ちょうど、この頃は、あのブリジッド・バルドーをスターにした『ロジェ・ヴァディム』と付き合い、「《セクシー道とは何ぞやを、徹底的に叩き込まれていた時期。(この後には、ロジェ・ヴァダムとのお色気SF映画の傑作『バーバレラ』が待機する)



表情や色気もムンムン全開で、バルドーのようにも見えてくる。(これが後に演技に開眼して、アカデミー賞主演女優賞をとるとは、この時点では、とても思えない)






リー・マーヴィンは、鉄の鼻を持つ殺し屋と、ヘベレケのアル中、シェリーン役の2役を演じていて、見事、アカデミー賞主演男優賞に輝いた。


このシェリーン役の情けなさを見ると、後年の渋みのある役柄なんてのも、こちらも、全く想像もできないが……。




映画の最後、馬に振り落とされそうになりながら、ヘベレケで、なんとかしがみついているマーヴィン。(これは演技なのか?それとも素なのか?実際のリー・マーヴィンも、当時、アル中寸前だったようだ)




何にせよ、この映画がターニング・ポイントになったのだけは確かである。




「キャット・バルー ~♪」と歌う二人組の歌も、映画を観た後、しばらくは耳に残るほど。




ん〜、不思議な西部劇だ。

星☆☆☆☆。

2019年11月18日月曜日

映画 「デモリッションマン」

1993年 アメリカ。






1996年、 凶悪犯『フェニックス』(ウェイズリー・スタイプス)は大勢の人質をとり、ビルに立て籠った。


そこへ現れた『デモリッションマン(壊し屋)』の異名を持つ『ジョン・スパルタン刑事』(シルベスター・スタローン)。



からくも、フェニックスを逮捕できたものの、人質はフェニックスの仕掛けた爆弾でビルごと爆破され、哀れ、全員死亡。


責任をとらされたスパルタンは、フェニックスと共に、70年の冷凍刑を命じられるのだった。(こんな刑罰があるなんて、昔も今も聞いた事もございませんが)




そして、長い時は過ぎて………




世の中は、2032年。

もはや、全てがコンピューターに管理された社会では、犯罪件数は、『0(ゼロ)』の時代。


一人一人には、居場所が分かるように、手の甲にチップが埋め込まれている。

汚ない言葉を呟いただけでも、それを感知する機械が、周り中に張り巡らされていて、即、違反キップをきられるほどである。



そんな世界にも、とりあえずは警察もあるにはあるのだが……。




皆が平和ボケ。(なんせ、事件がないもので)




あぁ~、刺激が欲しいぃ!


警部補『レニーナ・ハックスリー』(サンドラ・ブロック)は嘆かずにはいられない。(この頃のサンドラ・ブロックが超可愛い)



20世紀オタクの彼女は、もはや遺物ともいうべき、過去の西部劇や刑事ドラマに興奮するという、この世界では変わり種だ。


警察署の自分のデスクの壁にも、『リーサル・ウェポン』のポスターを貼っているくらいである。




ゆえに、そんなレニーナにとって、変化のない毎日は味気のないもの。


常に「刺激がほしい!」と刺激に飢えているのである。




そんなレニーナの心の声が聞こえたのか、違う場所では、今、まさに、あの凶悪犯『フェニックス』の仮釈放審問が行われていた。


拘束椅子の機械に座らされたまま、刑務所長の前に連れて来られると、それは直立の形に変型した。(さすが未来のテクノロジー)


フェニックスは、それでも鼻歌を歌いながら♪、ふてぶてしい態度。


「なんだね?その態度は?!何か申し開きをする気はないのかね?」

そんなフェニックスに、段々イライラしはじめた所長。



「あるぜ!『テディ・ベア』!!」

フェニックスが、その言葉を呟くと、手足にしていた拘束は、途端に解除された。



「なぜだ? なぜ、その解除コードを知っている?!」

所長が叫ぶが、フェニックスは笑いながら、その問いには答えず、警備員や所長をなぶり殺しにした。



そして脱走。

町中に出ては、好き勝手に暴れはじめたのである。




これに焦ったのは、2032年のノンキな警察たち。


「どうすればいいんだ?」

「どうしよう?」(平和ボケした連中には、もはやお手上げ状態)



その時、レニーナが、「あるわ!ひとつだけ方法が!」と叫んだ。



伝説の刑事、『ジョン・スパルタン』を甦らせる事だ。


かくして、ジョンは冷凍刑から、29年ぶりに解凍されたのだった。



打倒フェニックスの為に……。





シルベスター・スタローンが、『クリフハンガー』の大ヒットに酔いしれる暇も与えず、間髪入れずに、同年に公開された『デモリッションマン』である。




この映画もヒットした。



スタローンにも、やっと追い風が吹いてきたのだ。



そして、ただのアクション映画と思いきや、この映画は所々で笑わせてくれる。(『刑事ジョー ママにお手上げ』のコメディーは、あんなに叩かれたスタローンだったのにね)




アナログ人間スパルタンは、29年後の世界では、あまりの変わりように戸惑うばかり。


29年後の世界では、あの『アーノルド・シュワルツェネッガー』が大統領になっているではないか!


「凄い人気で、俳優だったけど彼が大統領になる為に法律が改正されたのよ」なんて言うレニーナに、

「オイオイ、勘弁してくれよ」と嘆く『スパルタン』(スタローン)が可笑しい(笑)。




トイレット・ペーパーさえなくなり、トイレには謎の貝殻が置いてあるだけで、

「これをどうやって使うんだ?、」とキョトン顔。(本当にどうするんだろ?映画では最後まで、その解答は得られなかったが、マトモに使えば、血だらけになるんじゃないのか?)



こんな未来世界とのギャップで、唖然としたり、ビックリしたりするスタローンに、ところどころ笑わされる。





それに、この映画、何気に背景の建物や車などが、未来のそれらしく、スタイリッシュでおしゃれ。

スタローンやサンドラ・ブロックたちが着ている警察の制服も、センスが良くて感心した。





ウェイズリー・スナイプスの髪形だけが、「ちょっとダサいなぁ~」、と思っていたら、案の定、本人も相当嫌だったらしい。(映画が終わったら即、剃り落としたそうな)



こんなアクションもふんだんにあって、少しだけ肩の力の抜けたスタローンの『デモリッションマン』、私は大好きである。


星☆☆☆☆☆。

2019年11月16日土曜日

映画 「クリフハンガー」

1993年 アメリカ、フランス、日本合作。






元々は、冬の寒い時期に公開されるべき映画だった『クリフハンガー』である。



だが、日本での扱いは酷くて、公開は真夏の8月。



映画ポスターさえも、スタローンの顔写真は雪山の下に小さいサイズで写っているだけだった。(これには本人も当時ショックだったようだ)




70年代にデビューしたシルベスター・スタローン



生まれつきの障害がありながらも、それを克服し(産科医の失敗で顎、舌、唇を傷つけられて言語障害が残るという酷い障害。酷いヤブ医者である)、下積みと苦労を重ねながら、自ら脚本を書いて主演した『ロッキー』で、見事アメリカン・ドリームを我々に体感させてくれた。



『ロッキー』はシリーズ化され、もうひとつの代表作『ランボー』もヒットする。



そんな時に、突然、あの男が現れる。


アーノルド・シュワルツェネッガー……



同じように、筋骨隆々の肉体を武器にして『コマンドー』やら『ターミネーター』などで次々とヒット作を打ち出してくる。



同じ時期に、同じように肉体を売りにする俳優…… 二人は当然、世間に比べられた。


「どっちが好きか?」とか、「どっちの作品が良かったか?」なんてのを、メディアは連日比べて騒ぎ、一般人たちも、そんな会話で始終、盛り上がっていた。(かくいう自分もそうでした)



だが、やがて、その対決はシュワルツェネッガーの方へと風向きが変わってくる。



全くハズレがないのだ。



出る作品、出る作品、ことごとく大ヒットする。(※その主な理由は『トータル・リコール』に少し書いているのでご参照下さい)





一方、スタローンは立て続けに興行的にも失敗続き。




『ロッキー4』、『ランボー3』は興行的にも失敗し、酷評される。




ならばと、アーノルド・シュワルツェネッガーの『ツインズ』のようにコメディーに活路を見いだそう!としたスタローン。



『刑事ジョー ママにお手上げ(1992)』、これがとどめの大惨敗だった。(やっちまったなぁ~)




世間の風当たりも、しだいに強くなり、

「もはや、ダメなんじゃないか?スタローンも……」なんて声があちこちから囁かれはじめた。




そんな翌年に公開されたのが、この『クリフハンガー』。



日本も合作として参加しているが、ポスターの扱いを見ても、(どうせ…ダメだろうさ……)なんて声が、ありありと聴こえてくるようである。



だが、そんな声を裏目に映画は大ヒットした!



不屈の男シルベスター・スタローンは、どんな時でも「あきらめない!」のだ。




雪山の山岳救助隊に成りきるために、ロッククライミングが出来るよう、徹底的に肉体改造を行った。


映画は、ロッキー山脈に不時着した強盗団と、そこで山岳救助隊として働く『ゲイブ』(シルベスター・スタローン)との命がけの死闘である。(体力勝負だけでなく、この雪原の寒さ …… もう凍傷になりそうである)



たまたま映画館で鑑賞したこの映画だったが、当時は大興奮したものだ。



「やったー!スタローン復活!」


この映画がシルベスター・スタローンを見事、再起させたのだった。



興行的にも大成功をおさめ、皆が手のひらを返したように誉め称えた。(もちろん酷い扱いをした日本の興業会社も)




アーノルド・シュワルツェネッガーが、自分の資質だけで突き進む人なら、シルベスター・スタローンは『努力の人』。



自分で脚本を書き、主演し、常に模索しながらも前向き。決して向上心を失わない。



ダメダメな自分は見習いたいものである。



もちろん、ワタクシめは、どちらかというとシルベスター・スタローン派。




もちろん、映画は星☆☆☆☆である。



男なら、スタローンの映画を1度は観るべき。

オススメしときますね。


映画 「メン・イン・ブラック:インターナショナル」

2019年 アメリカ。






子供の頃、『モリー』(テッサ・トンプソン)は自宅に紛れ込んできた『タランシアン』(手のひらサイズのエイリアン)をそっと逃がした。


両親の記憶は、ニューラ・ライズ(消去)された。

黒いサングラスと黒いスーツを着込んだM:I:B(メン・イン:ブラック)に。



「あぁ、私もあの人たちみたいに黒いスーツを着て、宇宙人たちと遭遇したい!宇宙の真実が知りたい!」

衛生をハッキングしながら、あらゆる方法でM:I:Bを探す日々。



そして、20年かけてやっと見つけた。


目の前でエイリアン捕獲をしたM:I:Bたちは、車に乗って去っていく。

「あの車を追って!」タクシーに乗り込み、後をつけるモリー。


しばらくして、車はある建物の前で停まった。


黒いスーツの男たちも、その中に消えていく。


(ここが、本拠地?!……)


すでに、黒いスーツを着こんでいたモリーは、自分もM:I:Bに成り済ましながら、澄まし顔で(フフ~ン♪)エレベーターに乗り込んだ。


「侵入者です!侵入者です!」(ヤバっ!)

モリーは簡単に捕まった。




「お願い!私を雇って!20年かけてやっと、あなたたちを探しだしたのよ!」

捕らえられて、記憶を消去をしようとする組織にモリーは、精一杯、懇願した。


そこへ、奥から一人の女性、エージェント『O(オー)』(エマ・トンプソン)の姿が。


「あなたを雇って、私たちに何のメリットがあるの?私たちはリクルートするの」

「私は頭がいい!是非、リクルートして!」(自分で言うかね)


Oは、このモリーに何らかの資質を感じたようだ。

そして、しばらく考えると採用する事にした。(まぁ、名前が同じ『トンプソン』なんだしね。良しとしましょう!)



訓練期間が終わったモリーは、エージェント『M』の称号を得た。


「ロンドン支部に向かってちょうだい!エージェント『M』!」


特殊な変型する列車に乗り込むと、高速でひとっ飛び!


あっという間にロンドン支部。


キョロキョロ、まるでオノボリさんのようにしている『M』に、

「ようこそ、ロンドン支部へ」

迎え入れたのは、上司でベテランの『ハイT』(リーアム・ニーソン)である。



先輩でチャラい男『H』(クリス・ヘムズワース)もいる。


早速、『H』に自分を売り込んで、コンビを組んだ『M』だったが……。




『メン・イン・ブラック』シリーズのスピンオフである。


あまり評判はよくなかったようだが、私は、まぁ、まぁ、楽しめました。


実は白状すると、この『メン・イン・ブラック』のシリーズを、今まで観ていないせいもあるからかも。


当時も、大々的にヒットしていたが、個人的にウィル・スミスが苦手で、なぜか今日まで観ずじまい。

だから、前シリーズと比較して、「前と比べて『あ~だ!』、『こ~だ!』」言うこともなかったです。



クリス・ヘムズワースは、チャラいイケメンだし、テッサ・トンプソンも可愛げがあるし、中々良いコンビ感をだしていたんじゃないかな?


変型するバイクや、車、特殊な武器たちも楽しい。


リーアム・ニーソンの扱いだけが、やや雑すぎて不満が残るが……。(リーアム・ニーソンの横顔が、歳をとるたびに、どんどん、イースター島のモアイ像に見えてくるのは自分だけだろうか(笑))


星☆☆☆である。

※後、このエイリアン、『ポーニィ』が可愛い!


モリーを『クイーン』と慕い、肩にちょこんと乗る姿や動きは、風の谷のナウシカのテトのよう。


この映画を、途中でやめないで観終わる事ができたのも、おしゃまな『ポーニィ』のお蔭である。

このキャラクターに救われてる部分が、随分大きいかもしれない。

2019年11月12日火曜日

映画 「奇跡の人」

1962年 アメリカ。






ご存知、3重苦(目がみえない、耳が聞こえない、しゃべれない)のヘレン・ケラーの自伝的映画である。


もう、観る前から、内容は知っていたのだが、たまたま何かの機会で観だしたら、一気に引き込まれてしまった。


『サリバン先生』(アン・バンクラフト)と『ヘレン・ケラー』(パティ・デューク)の台本があるのか無いのか分からない、壮絶な死闘の物語。




ケラー夫妻は、重度の障害を持つヘレンの為に家庭教師を頼んだ。


やってきたのは、若い情熱いっぱいの『サリバン先生』(アン・バンクラフト)。



父親はサリバンの態度が気に入らなくて、即刻、帰そうとするのだが、母親がそれを引きとめた。


と、いうのもサリバンは、今までやってきた教師とは違う《何か》を持っていると直感したからである。



そうして、サリバンに訊ねてみる。


「こんなヘレンに何を教えようとなさるんですか?」


「《言葉》を教えます! 後にも先にも、私が教えるのは《言葉》です!、そして、それぞれの《言葉》には、ちゃんとした意味があることを教えるのです!」


サリバンの言葉に、ケラー夫人は圧倒されるが、(いくらなんでも、それは無理な話 …… )と、思わずにはいられない。



でも、サリバンは負けないし、絶対に諦めないのだ!



朝食時間、食卓についている皆の皿から、勝手に好き放題に、食べ物を貪り頬張るヘレン。



それに皆が慣れているのか、誰ひとりとして文句を言わない。


サリバンの皿からもヘレンが食べ物を手づかみで捕ろうとしたが、それをサリバンは押し退けた。


「おい!誰かサリバン先生に別の皿を!」と父親のケラー氏が言うのだが、サリバンは、

「どうぞ、お構い無く!私のお皿は、ここにありますから!」と、にべもない。


そして、「皆、ここから出ていってちょうだい!私とヘレンの二人だけにして!!」と叫んだのだ。



父親はカンカンに怒り、母親はオロオロ。

兄や召し使いたちは、やれやれ顔で出ていく。



「ヘレン、モノには名前があるのよ!!」

「自分の椅子に座って、テーブルで食事をするのよ!!」



リビングのドアには鍵をかけて二人きり。


いざ、サリバンとヘレンの壮絶な闘いが始まる!!



もう、こっからは怒濤の展開、ルール無用の二人だけの真剣勝負になってくる。




サリバンの必死の訴えもとどかず、野獣のように振る舞うヘレン。


そんなものには負けてたまるかのサリバンは、テーブルから離れたヘレンを、また連れ戻して座らせる。


また離れたら、座らせる ……


テーブルの上の食器や食べ物を投げつけるヘレン。


床に落ちた食べ物を、また皿に乗せて、テーブルに持ってくるサリバン。


何とか力ずくで座らせて押さえつけながら、スプーンに乗せた食べ物を、一口、ヘレンの口の中へ持っていった。


(ホッ!)

それも束の間、「ブブーッ!!」とサリバンの顔めがけて、口に入れた食べ物を吐き散らすヘレン。


これには、さすがのサリバンも頭にきた!



水差しの花瓶の水をヘレンの顔めがけて、勢いよく振りかける!!


「アプッー、アッ!アッ!」

鼻にも、口にも水が入り、むせこむヘレン。



こんな二人の闘いが延々と繰り返されてゆく。




監督のアーサー・ペンは、カメラを止めない。


ヘレンが暴れ、サリバンが押さえつけ、叩いたり、叩き返したり……



この壮絶な闘いをワンカットで延々みせるのだから、観てるこちらは微動だにできず、目を反らしたり、物思いにふけったりする暇すらも与えないのだ。



もう、とにかく、もの凄い迫力である。


髪を振り乱し、躾(パワー)で押さえつける『サリバン』(アン・バンクラフト)は、なにか別の人格に乗っとられたような悪鬼のような怖さだ。



それと、「本当に障害者で教育を受けていないのか?」と思わせる『ヘレン』(パティー・デューク)の暴れっぷりと憎たらしさは、演技をとおりこして、本当の障害者にみえてくる。(「いいかげん落ち着けよ!」と鎮静剤を与えたいくらい)



こんな努力が実ってか……

最後は、ヘレンがモノには、すべて名前がある事を理解して映画は、終わるのだが……



映画の感動よりも、ま~二人共、熱演ごくろうさまでしたと言いたくなってしまった。(観ているこっちもドッと疲れた~(ホッ!))



二人は、その年のアカデミー賞の主演女優賞、助演女優賞をとっております。


充分見ごたえあり。


二人の名女優の力演をご覧あれ。

星☆☆☆☆☆。

映画 「天使にラブソングを」

1992年 アメリカ。







ネバダ州リノにある、ナイトクラブ『ムーンライト・ラウンジ』。


今日もステージに立ち、歌う『デロリス』(ウーピー・ゴールドバーグ)だが、客の受けはさっぱりだ。(もう少し美人ならねぇ~(笑))



ガックリして控え室にもどると、愛人で、マフィアのボス、『ヴィンス』(ハーヴェイ・カイテル)からプレゼントのコートが届いていた。


「やったー!見て!見て!紫のコートよ!」


喜ぶデロリスだが、途端にブスッとした表情。


ヴィンスの奥さんの名前が刺繍されているのを見つけたのだった。(ガーン!)




「あいつ、奥さんのお古を私に持ってきたんだ!どういうつもりなの?!」


いくら2号さんだって、デロリスにもプライドがある。


完全にぶちギレた。


(こんな物、つっかえしてやる!)

頭にきたデロリスは、ヴィンスのもとに向かった。


「ちょっと!あんた!どういうつもり ……… 」

そこで、デロリスが目にしたのは、…… ヴィンスの部下が、裏切り者を射殺する場面だったのだ。


しばし唖然のデロリスは、アワワ状態。


「何だ?どうしたんだ?デロリス」

床下に転がった死体にも平然とした様子のヴィンス。


それを目にしてパニックになりながらも、デロリスは取り繕って、やっとのおもいで笑顔をつくった。


「な、何でもないのよ。ただ … このコートのお礼が言いたくてね」

「何だ、そんな事か」

「えぇ、ありがとう」

デロリスは静かにドアを閉めた。



そして、一目散にひたすら走り出した。


(早く逃げなきゃ!ヒィーッ!!殺されるぅーー!!)



そんなデロリスの様子にヴィンスもすぐに部下を向かわせる。

「見られたからにはしょうがない。さっさと殺せ!」と。


逃げろや、逃げろ。


追われながらも、逃げ足だけは超一流のデロリアンズ。

命からがら逃げおおせた彼女は、やっとこさ警察に保護された。




それでも裁判の日まで重要参考人として、身を隠すことになったデロリス。


絶対に見つからない場所はないか ?…… 


警察も必死に考えてくれてる。


そうだ!修道院があるじゃーないか!!(まぁ、修道院まではギャングどもも追いかけてはくるまい)




「こんな格好嫌よぉー!、まるでペンギンじゃないの!」

こうして修道服に身を包むことになったデロリス。



それをジロリと見ながら、修道院長(マギー・スミス)が一喝する。


「ここで暮らす限りは、ここの規律に従ってもらいます。いいですね?」


これまで規則なんのとは無縁で、さんざん自由きままに生きてきたデロリス。


はてさて、修道院の厳しい暮らしに耐えられるのだろうか ………






ウーピー・ゴールドバーグの大ヒット作。



あの、ウーピーに修道服を着せて(これだけでも異質だ)そうして歌わせるのだから、当時はすごいインパクトだった。


デロリスのキャラクターも超ユニーク。(ほぼ、ウーピーの地でやってる?んじゃないかとの噂もあったが)


殺人の目撃者なんだけど全然怯えていないし、身を隠した修道院でも、規律なんてなんのその。


いつもはみ出すくらいの個性がウズウズして、もう我慢できない。



そうして、ついつい、本来のお世話ずきが、高じて《修道院》を大改革してしまう。


閉塞な讃美歌をアレンジして、抑揚をつけさせたり、手拍子させたり。

果ては、周りのシスターたちに歌って踊らせたりと。


「歌うことは、自分たちが楽しむことなんだよ!」

と映画でデロリスは、声で、身振りで、全身で我々に語ってくれている。



太っちょで陽気なシスターのパトリックや、

気の弱いシスター見習いメアリー・ロバート、

それに年長シスターラザラスも、デロリスに影響されて、歌を楽しみながら、日々の修道院の生活すらも変わっていくのだ。





そんな周囲の変貌に修道院長はイライラしっぱなし。


でも、最後には、一番堅物で厳格だった修道院長の心さえも氷解させてしまうのである。(もちろん、同時にギャング一味の事件も無事解決する)



たまに思い出して観ると

「あ~、面白かった!」と、鬱がふっとぶような晴れやかな気分になる。


何度観ても、皆が元気を貰える奇跡のような映画じゃないだろうか。


星☆☆☆☆。


※でも、ひとつだけ疑問が。


なぜ??ウーピーは 眉毛 を描かないんでしょうかねぇ~?(笑)


2019年11月10日日曜日

映画 「太陽に向って走れ」

1956年 アメリカ。






遥々、ニューヨークからメキシコまで、チャーター機でやってきた『ケイティ・コナーズ』(ジェーン・グリア)。



降り立った町は、アカプルコの漁村の近くだった。


(こんなところに……あの『マイク・ラティマー』がいるのかしら……?)


ニューヨークの『サイト誌』で女性記者をしているケイティは、上司の命令で、有名な冒険小説家ラティマーを探しにやってきたのだ。


それに、ケイティ自身がラティマーの小説の愛読者だったのも、それを後押しした。



寂れたホテルにチェックインすると、ケイティは、ホテルマンに聞いた。

「ここにラティマーさんはいらっしゃるかしら?」

「ええ、住んでますよ。この時間なら釣りに行ってるはずです。」



波止場に行くと、大きなカジキマグロを釣り上げて、作家とは思えないほど日焼けして、薄汚れた格好の『ラティマー』(リチャード・ウィドマーク)が、ご機嫌で帰ってきた。


それをケイティは、そっと写真におさめた。(盗撮だ)


道すがら、すれ違うケイティの姿を見たラティマーは、およそ場違いなケイティに驚いた様子だったが、そのままホテルへと帰っていった。




そして、ホテルでの夕食時間。


異国のスペイン語に四苦八苦して、料理の注文しているケイティに、ラティマーが、向こうから近づいてきて流暢なスペイン語で助け船をだしてきた。


「やぁ、あなたのような方が、どうしてこんな所へ?」


テーブルに、ラティマーの著書を置いているのを見つけると、

「この本は最悪だ」と自身の本を酷評した。


「そうかしら?素晴らしいわ。あたくしは好きです」


ラティマーの経歴や小説を本人を前にして絶賛するケイティ。


そこへ、「ラティマーさん、伝言です。明日の朝も釣りに行きますか?」


「あなたがラティマーさん?」空々しく驚くふりをするケイティ。


「あたくしをからかって、さぞ楽しかったでしょうね?」


「何を言ってるんだ、俺の事を最初から知っていたくせに」(ケイティの芝居もバレバレ。)




明日も釣りに行くために船を出す事を、ホテルマンに言うラティマー。

「あなたも、明日、俺と釣りに行くんだ!」

「あたくしが?!」



強引なラティマーは、ケイティを海に引っ張っていった。


何もかも、ラティマーのペースに振り回されるケイティ。


だが、そんな子供のようにはしゃぐラティマーに、いつしかケイティは惹かれていく……。



ラティマーは、前妻が親友と不倫して裏切られたショックを、ずっと引きずっていたのだ。

筆を進ませようにも、全く小説を完成することができない。



そんな苦悩するラティマーの様子を見て、ケイティは、ここを離れる決心をする。


(あたしには出来ない……上司の命令とはいえ、これ以上、マイクに小説を書かせるよう無理強いする事は……)




そして、旅立ちの時。



「どうしても行くのか?なぜなんだ?!」

ラティマーもケイティを気に入りはじめ、離れがたい気持ちなのか……



「俺がメキシコ・シティまで送っていく」と自ら名乗り出てくれた。



チャーター機に乗り込む二人。



二人の飛行機は、上空に浮かびあがり、燦々と降り注ぐ太陽をうけて、順調に進んでいた。



真下には鬱蒼した密林のジャングルが見えて、それは、どこまでも続いている。




その時!突然、操縦席の計器が狂いはじめた。(原因はケイティの手帳の磁石である)






「マイク、あそこ!!」ケイティが指差す場所は、ちょうど密林が途切れていて、何とかチャーター機が不時着出来そうだ。


「つかまってろ!」


飛行機は何とか着地し、スリップしながらも雑木林に突っ込んで、そして止まった。




気を失っていたのか……

しばらくしてケイティは目が覚めた。隣では頭をぶつけたマイクが、まだ失神している。



(ここはどこなの………?、でも何とか助かったのね………)


安堵するケイティ。


だが、ここからがマイクとケイティ、二人の地獄のはじまりだった……。






『六番目の男』に続くリチャード・ウィドマークの映画である。



この1956年には、『六番目の男』、『太陽に向かって走れ』、『襲われた幌馬車』と3本立て続けに主演しているリチャード・ウィドマーク。


その2本目を今回、偶然観る事が叶った。


これはハラハラ、ドキドキの逃亡ミステリーとしては、隠れた名作であり、大傑作である。






二人が降り立った密林には、ナチの残党が、こっそり隠れ住んでいたのだ。


口封じで殺されそうになっちゃう二人は、すんでのところで脱出。


密林の広大なジャングルの中を逃げ回りながら、右往左往するのである。


果たして二人は無事に脱出して、生還できるのか?………





とにかくリチャード・ウィドマークが超カッコイイねぇ~!



何なんだろう……この当時のリチャード・ウィドマークの野生的で精悍な様子は。


男から見ても魅力的だし、それが映画を観る人の気持ちを、グイグイ引っ張っていく。




今回の相手役ジェーン・グリアさんも、美しいことよ!



この時代の女優さんの《気品さ》は、別格。


現代で、このほどの《気品さ》や《気高さ》を身につけている女優さんを、最近は全く目にしなくなった。


このジャングルの撮影は、肉体的にも精神的にも相当大変だったみたいで(高熱にみまわれたり)、この映画以降は完全に休業状態に入ってしまったらしいが。(そりゃ、そうだろうな……水浸しや泥まみれ、埃まみれで、並の女優なら、とっとと逃げ出すよ。こんな上品な女優さんがよく立派に務めあげたよ。)



それでも、その苦労のかいがあって、スタジオじゃない、実際の樹海のような密林でのロケは、も~、迫力満点である。




この映画は偶然、ネットでお見かけして観る事が叶ったのだが、出来れば画像の良い、DVDかBlu-rayでじっくり観てみたいものだ。(メーカー様お願いします)



星☆☆☆☆☆である。


埋もれた傑作は、まだまだ、あるのであ~る。



※後日、なんと!DVD化されました。

クリアーな画面は超嬉しい!

ありがとうございま~す!