2020年11月23日月曜日

映画 「恐怖の岬」

1962年 アメリカ。




弁護士『サム・ボーデン』(グレゴリー・ペック)は、美人で気立てのいい妻ペギーと、一人娘ナンシーに囲まれて、幸せな暮らしを満喫していた。


だが、ある日、サムが裁判所から出て帰宅しようと車に乗り込み、キーを回そうとすると、誰かの手が横からスーッと伸びてきて、素早くキーを奪った。


「先生、お久しぶり!」


その声の先には、助手席の窓から、ニヤついた顔を出している一人の男。


パナマ帽をかぶり、ニヤニヤ笑いながら葉巻をくわえた、その男をサムは(誰だ?)と思ったが、それも一瞬。


その男が喋りだした途端、サムの記憶はすぐに蘇ってきた。


(マックス・ケイディ………)


8年前、女性に暴行し、サムの証言で刑務所送りにしたのが、今、目の前にいる『マックス・ケイディ』(ロバート・ミッチャム)なのだ。


「やっと出所したんだ。出所したら一番にあんたに会いたくてな」


白々しく語るマックス……今さら俺に何の用だ?


俺への逆恨みをはらしに来たのか?……だったら、こんな奴など相手にできるか!



サムはマックスからキーを取り返すと、エンジンをかけて車を発進させた。


後方からは、まだマックスの叫ぶ声が聞こえる。


「美人のカミサンと娘がいるんだってな!また近いうちに会おうぜー!!」


そんな事まで調べあげているのか?!

妻と娘に何をするつもりなんだ!!


サムは恐怖し、自宅に帰ると、すぐさま親友で警察署長の『ダットン』(マーティン・バルサム)に電話した。


「助けてくれ、署長!」と。


ダットンは署長の権限で、マックスを引っ張ってくると、「前科のある犯罪者は、町にとどまるには警察に報告する義務がある」と言い、マックスの持ち物検査をしたり、部下の警察官たちに、「マックスの監視をして、何かあればすぐに捕まえてこい!」と言い含めた。


だが、ダットン署長の権限もそこまで。


マックスは、さらに上をいき、自ら弁護士を雇ったのだ。


マックスの雇われ弁護士グラトンは、「警察から違法な圧力をかけられている!」と、逆に署長とサムに詰め寄ってきたのである。


「こうなりゃ、わしにはどうしようも出来ないよ、サム」


グラトンが警察から引き揚げると、もはやお手上げとばかりにダットン署長はため息をつく。


だが、飼い犬は毒殺されて(マックスが殺したに決まってる!でも証拠がない)、妻と娘は、身近でマックスの姿が見えれば、それだけで怯える日々。


とうとう、サムは私立探偵『チャーリー・シーバース』(テリー・サバラス)を個人で雇い、マックスの動向を見張らせるのだが………





やっと観た『恐怖の岬』である。


リメイク版『ケープ・フィアー』を、昔観ていたので、あらすじは知っていたし、(今さら…)感もあって、今日までズルズル観ずにいたのだ。


なんせ、このblogにも再三書いているが、真面目一辺倒なグレゴリー・ペックが、少々苦手な為である。


やっぱり、この映画でもお堅い、真面目な弁護士役のグレゴリー・ペック。(『パラダイン夫人の恋』でも弁護士役だったし、「またか……」って感じなのだ)


妻のペギーとキスしたり、抱き合ったりしても色気を全く感じさせないグレゴリー・ペック 。(生来の真面目さも、ここまでくると、段々貴重な気がしてくる (笑) )


父性愛は一応あるようで、娘のナンシーの為なら俄然張り切るのだが…。



でも、観ていくと分かってくるのだが、


「この映画のグレゴリー・ペックは何だか、いつもとひと味違うぞ!」と思わせるのだ。




それもこれも、《ロバート・ミッチャム》が出演しているからこそ。




グレゴリー・ペックも、普段の映画とは随分、勝手が違う雰囲気を感じたはずなのだ。


そのくらい、ミッチャムがはたす役割は、この映画では、とても大きいのである。



なんせ、冒頭の出だしから、ミッチャムが、画面に現れただけで、怖い雰囲気がムンムン漂う。


裁判所に現れた『マックス』(ロバート・ミッチャム)は、階段ですれ違った何冊もの本を抱えた女性にぶち当たって、本を落としてしまっても知らんぷりで通りすぎる。(監督 J・リー・トンプソンの演出なんだろうけど、ミッチャムが演じると怖さと冷酷さが、これだけで感じられる)


『サム』(グレゴリー・ペック)が妻と娘を連れて、ボーリングをして楽しんでいる時も、「ヌ~ッ!」と顔を出すだけで、恐ろしい『マックス』(ロバート・ミッチャム)の顔。( (゚ロ゚)ヒイィィーィ! )


サムも、思わず投げた玉はガーターをたたきだしちゃう。(でしょうね)




特別過剰な演技をしているわけでもないのに、この怖さは何なんだろう?



《スリーピング・アイ》(眠たそうな瞳)とアダ名されたミッチャムの目だけではないような気がする。


観ている自分には、ミッチャムの背中から羽のように、うっすら伸びる、闇のようなオーラを感じてしまうのである。



こんな雰囲気を漂わせるミッチャムに、グレゴリー・ペックも次第に影響されてくるのか、自覚してなくても芝居が変わっていくのだ。


『マックス』(ロバート・ミッチャム)に恐怖し、憎む表情は、もはや、いつもの優等生グレゴリー・ペックの表情じゃない。


「どんな手段を使っても負けてたまるか!」なのである。


チンピラに金まで払ってマックスを襲わせるサムに、話の筋書きとはいえ、意外な一面を見て、「オオッ!」と声を上げてしまった。(卑怯なグレゴリー・ペックも珍しい)


映画のラスト、ケープ・フィアー川での一対一の対決。



川につかりながら、後ろからグレゴリー・ペックの首を締め上げて殺そうとしてるロバート・ミッチャムに手加減はない。


(何がスターだ!殺してやる!殺してやるー!)と、どす黒い本気の殺意さえ感じてしまう。


もう、グレゴリー・ペックも(このままじゃ本当に殺されてしまうかも…)と本気でジタバタしてるように見える。(そのくらい真に迫っている)



何にせよ、グレゴリー・ペックの出演する映画で、初めて良いと思ったくらい、この映画は良かった。


そして、それを牽引し、自分の世界にグイグイ引き込んでいくロバート・ミッチャムは、まさに演技派。


稀な怪優と呼べるんじゃないだろうか。


星☆☆☆☆☆。



※これを観た後では、途端にリメイク版が、もの足りなく思えてしまった。

体中に刺青アートをしたデ・ニーロの怖さなんか比較にならない。

ロバート・ミッチャムの勝ちである。(『狩人の夜』も怖いぞ~!ご覧あれ)



後、まだスキンヘッドじゃないテリー・サバラスなんてのも珍しいかも。(か、か、髪の毛があるぅ~)

これまた、一見の価値ありである。

2020年11月10日火曜日

映画 「サファリ殺人事件」

1989年 アメリカ。





原題名は、《Ten Little Indians》。


そのまま訳すと、《10人の小さなインディアン》、日本では《そして誰もいなくなった》のタイトルの方が有名か……。


そう、ここまで書けば、ご存じのように、アガサ・クリスティーの名作の映画化である。


この《そして誰もいなくなった》は何度も映画化されていて、これは確か4度目の映画化だったはずだ。(最初の映画化は1945年版。これが、なかでも一番出来がいいらしいが未見)



当時、《アガサ・クリスティー生誕100年》の記念に作られた映画だったのだけど………それにしても、この邦題なんとかならなかったのかねぇ~。(センスの欠片もないし、超ダサい!)




この時期になると、クリスティーの数多い単行本は、ほぼ読破していたので、この《そして誰もいなくなった》も、当然読んでいたし、大胆なトリックと、クリスティーの読ませる筆力で、「まぁ、良くできてる」と感心はしていた。


でも、クリスティーの数多い作品の中でも、「名作!名作!」と持ち上げられていて、自分としてはあんまり好きじゃないんだよなぁ~、これ。




見知らぬ大富豪オーエンから招待状がきて、絶海の孤島に集められた、それぞれ縁もゆかりもない8人の男女。


でも、島には雇われたばかりの召し使いの夫婦がいるだけで、オーエンの姿はなく……。


ホールには、インディアンの人形が10体並べられている。


やがて一人、また一人と、何者かに殺されていき……。


殺されていく度に、いつの間にか減っていくインディアン人形。


逃げ場のない孤島、集められた10人しかいない島。犯人はこの中にいる……?!



要約すれば、こんなお話である。



最初に、この本を読んだ時は素直に感動したけど、この話、ともすればラストの大どんでん返しまで持ちこたえられるか、どうか、本当に微妙な匙加減で、ギリギリ成り立っているような話である。


この『一人、また一人殺されていく……』くだりが、段々、予定調和に思えてきて、退屈になってくるおそれがあるのだ。


そこを飽きさせないように、本では、クリスティーの筆力が勝っていて、ラストまでグイグイ引き込み、なんとか読ませる事が出来るんだけど……。


(でも、これ、映像向きか?……)



とりあえず、3度目の映画化作品が、当時レンタルビデオに置いてあって、なんの気なしに手に取っては観たのだけど………まぁ、これが、おっそろしく、ツマラナイ!(駄作である)


やはり、自分が危惧したように、この《一人、また一人殺されて……》のパターンが、延々繰り返される度に、つまらなく思い始め、どんどん飽きてくるのだ。


そして、名探偵もいず、ヒロイン、ヒーローとして主人公を描く事ができない、この原作は、

「登場人物10人を、公平に均等に描かなければならない」という制約の為に、映像にすると、どこか宙ぶらりん。


集団劇でも、(核・中心)になる人物が居ないので、観客は誰に感情移入しようにも出来ないし、皆が皆、横並びの登場人物たちばかりになってしまうのだ。



だから、この4度目の映画化『サファリ殺人事件』も観る前から、(失敗する)と思っていたら、やっぱり案の定でした (笑) 。



映画の舞台を、無人の砂漠(3度目)にしたり、アフリカの奥地(4度目)にしたりしても、それぐらいじゃ補えないくらい、この『そして誰もいなくなった』は映像には不向きな原作なのだと思う。


じゃ、「なんで失敗と分かっている、この映画を観たんだ?」と思うだろうが、それは、ただ、ただ、《ランク・スタローン》のお顔を1度見てみたかったから。

本当に、それだけ。



フランク・スタローンは、知っている人は知っている、シルベスター・スタローンの弟で、たま~に映画の端役もするが、本業は歌手である。


この映画では、たまたま2番手くらいにクレジットされていて、珍しい扱い。


演技の方は、どうしてもトホホ… (笑) の出来なのだが、このフランク、兄のシルベスター・スタローンによく似ているのだ。



兄弟なんだから、当たり前っちゃ、当たり前なんだけど、この『サファリ殺人事件』の当時は、あまりのソックリさにビックリしたものだ。(ただ映画は、とんでもなく駄作でしたけど、まぁ、良いのだ。最初から前述に書いたように、まるで期待してなかったし)



兄弟仲も良いみたいで、最近ならシルベスター・スタローンが映画『クリード』でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされて、結局、受賞は叶わなかった時、この弟フランク、カンカンになって代わりに激昂したらしい。


「なんでスライ(シルベスター)が受賞できないんだ!?代わりに受賞した奴、誰だ?そんなの知らんわ!!」


どこまでも兄想いの弟に、ちょっと胸アツになるエピソードである。(ジ~ン)



あ、映画の評価は、言わずともお分かりだと思うので、今回はパス。

VHS時代に観た、これが、今後DVDやBlu-rayになる事は、まず、ないと思うので。


どんな名作でも、映画にするには向き不向きがあるという、一例でございました。

2020年11月9日月曜日

映画 「コブラ」

1986年 アメリカ。





マリオン・コブレッティー》……通称、コブラ


ロス市警ではゾンビ班なる部署に配属されている。(なんちゅー、ネーミングセンスの班なんじゃ!)

手に負えないような、凶悪な異常者を相手にするのが、このゾンビ班である。


レイバンのサングラスをかけて、口には爪楊枝?マッチ?何か知らんが、をたくわえている。(お前は木枯らし紋次郎か? (笑) )


愛車は、1950年型のマーキュリー・クーペ。



今日も、「スーパーマーケットで異常者が銃を乱射している!」なんて事件の通報が入ると、コブラは早速、愛車のクーペで駆けつけた。


騒然とした現場では、警察がスーパーを取り囲んでいる。


「状況は?」とコブラが訊くと、一足先に来ていた相棒の『ゴンザレス警部補』(レニ・サントーニ)が飄々(ひょうひょう)として近づき、「やばい」とだけ呟いた。



それだけ聞けば充分とばかり、コブラはスーパーの中へ堂々と、単身入っていく。



既に殺されている買い物客たちの死体をよけながら、奥へと進んでいくと、あきらかに異常そうな男が、若い女を人質にして騒いでいた。



「何だ?!テメェは!!それ以上近づくんじゃねぇー!このスーパーがどうなってもいいのか?!」

「別に……俺はここで買い物しない」


コブラは袖口に隠したナイフを手に、ストン!と落とすと、それを掴み、犯人めがけて投げた。


「ギャアァー!!」ナイフは犯人の懐に見事に刺さる。


そして、間髪入れずにコブラの愛銃《コルト・ゴールドカップ・ナショナルマッチ》(名前の長~い銃)からは、連続して3発の弾丸が発射された。



犯人絶命、これにて事件は解決!


外に出て、騒ぐマスコミたちの群をぬけると、苦虫を噛み潰したような《モンテ警部補》(アンドリュー・ロビンソン)の憎々しい顔。


「こんな、お前のやり方を、俺は絶対に認めないぞ!」(多分、コブラが大嫌いなんだろう)


こんなモンテ警部補の言葉にも、シレ~として、「知ったことか!」のコブラ。


異常者たちが出れば、必ず俺の出番がくるのだ。


頼りになる男、悪を許さない非情な男……それが《コブラ》なのである。



そして、ロスの街では、またもや別の、無差別殺人が横行していたのだった。


コブラの出番である!




久しぶりに観た『コブラ』、やっぱり面白かった。


話がサクサク進んで、中だるみもなく、次から次へと怒濤のアクションの連続に興奮しっぱなし。


それもそのはず、何と!この『コブラ』、上映時間が90分もないのだ。(およそ88分)


この時間で、これだけ濃縮されたアクションを楽しめるんだから、ちょっとした暇な時間には、もってこいである。



このコブラには、一応、原作らしきモノがある。



女流ミステリー作家、ポーラ・ゴズリングが書いた『逃げるアヒル』が原作なのだが、ほぼ原作無視。(いいのかなぁ~?)


《殺人犯を偶然、目撃してしまった女性が、命を狙われながら、ボディーガードの刑事と逃避行しながら闘う》


ただ、この一点だけを借りてきて、登場人物の名前も、背景もすべて変えられているので、完全に別物になっております。(※いくら、当時新進の女流作家でも、このあまりの改変には腹がたったのかなぁ~? この後、同じ原作で、ウイリアム・ボールドウィンを主演にして『フェア・ゲーム』というタイトルで映画になっている。)



で、殺人集団《ナイト・スラッシャー》の顔を目撃してしまったのが、たまたま車で帰宅途中だった、運の悪い女性『イングリット・ヌードセン』(ブリジット・ニールセン)。


それから、いく先々で殺人集団に命を狙われるイングリットは、「キャアァー!!キャアァー!!」と泣き叫ぶが……ごめんなさい。全然、か弱そうに見えない(笑)。


なんせ、演じているのが、身長が185cmもある大柄なブリジット・ニールセンですもん。(警護するスタローンは身長178cm)


この『コブラ』、面白いんだけど、ただ1つの失敗は、この《ブリジット・ニールセンの起用だった》と、あらためて思ってしまった。



でも、しょうがないっていえば、しょうがないんだけど……。



なんせ、スタローンとブリジットは当時、ラブラブ夫婦。


映画『ロッキー4』で知り合い、結婚して、そのままの流れで、この『コブラ』に出演してるのだから。(でも、翌年の1987年には離婚している二人。スタローンも、やっと正気を取り戻したようだ (笑) )


つくづく、ヒロインが、「このブリジット・ニールセンじゃなかったらねぇ~ ……」なんて思わずにはいられない。




スタローンが、この映画で目指したのは、クリント・イーストウッドの『ダーティ・ハリー』のような孤高の刑事が活躍するアクションである。


80年代になっても、まだまだ刑事といえば、『ダーティ・ハリー』と言われるほど、そのインパクトは、かなり強烈だったようで、あらゆる後続の刑事モノ映画は、ダーティ・ハリーをお手本に、インスパイアされて作られていたようだった。



ロッキー、ランボーと、ヒット・シリーズを打ち立てたスタローンも、


「俺も、今度は、《ダーティ・ハリー》のような刑事モノので、ひと山、当てたる!!」の思惑があったと思う。



相棒役に、『ダーティ・ハリー』の相棒チコ役だった、レニ・サントーニが起用されていたり、

嫌味な刑事役に、同じように、『ダーティ・ハリー』の凶悪犯だったスコルピオ役のアンドリュー・ロビンソンが、いたりと、素人でも分かりやすいくらい、この映画『コブラ』には、『ダーティ・ハリー』の影が、アチコチに見え隠れする。



ただ、この起用、アンドリュー・ロビンソンにとっては、嬉しい救済になったようである。



『ダーティ・ハリー』の極悪なスコルピオを演じてから、そのインパクトゆえ、来る役、来る役が同じような犯罪者役ばかりで、嫌気がさした彼はとうとう、芝居から距離をとって、5年間、故郷に引っ込んで田舎暮らしをしていたのだ。


その間は、大工仕事をしたり、演劇を教えたり……完全に映画から離れていたアンドリュー・ロビンソン。



この『コブラ』は、そんな彼が、再び、再起するきっかけを与えてくれた映画なのである。

映画のラスト、殺人集団ナイト・スラッシャーたちを絶滅させ、イングリットを救いだしたコブラ(スタローン)は、嫌味なモンテ警部補(アンドリュー・ロビンソン)に、一発パンチをおみまいする。


今にして思えば、このラスト、「よく、映画界に戻ってきてくれた…」なんていう、ある意味、スタローンなりの激励のパンチだったのかもしれない。


そんな気がしてならないのだが……(考えすぎか?)



カーアクション、手榴弾の爆破、バイクが、そこらじゅうにぶっ飛び、火炎をあげる!




これもスタローンの佳作として、星☆☆☆☆であ~る。(面白いよ)


2020年11月5日木曜日

映画 「ボーン・イエスタディ (1950)」

1950年 アメリカ。





第23回アカデミー賞(1950年度の作品が対象)は、沸きに沸いた。


以前、ここにも書いたが、この年は今、現在でも名作として語り継がれている、この2作品が誕生したからだ。


舞台女優たちの裏側を描いた、ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督の『イヴの総て』。

《『イヴの総て』…左からアン・バクスター、売れる前の端役マリリン・モンロー、ベティ・デイヴィス》




老いた映画女優の狂気を描いた、ビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』。

《『サンセット大通り』…中央、グロリア・スワンソン》



この2作品は、70年経った今でも、ビデオからDVD、Blu-rayと、時代に合わせてメディアを変えながらも、観た人々の心をとらえ魅了し、新たなフアンを獲得している。


かくいう自分も、もちろん、この映画が公開された時代には、まだこの世にいるはずもなく………ず~と後になって、たまたま拝見してフアンになった内の一人でございます。(※それぞれ両作品、このblogに既に書いておりますのでお暇な方はど~ぞ)



アカデミー賞作品賞と監督賞には、『イヴの総て』、ジョセフ・L・マンキーウィッツが受賞した。(『サンセット大通り』には残念だが、まぁ納得かも)



さぁ、そして主演女優賞の発表である!



主演女優賞にノミネートされてるのは、いずれも強豪ぞろい。


『イヴの総て』からは、小憎らしいイヴを演じたアン・バクスター。


大女優でありながら新人イヴに翻弄されるマーゴを演じたベティ・デイヴィス。


『サンセット大通り』からは、かつてサイレント映画のスターだったが、次第に狂っていくノーマを演じたグロリア・スワンソン。


『女囚の掟』からはエリノア・パーカー。(『サウンド・オブ・ミュージック』に出ていた綺麗な女優さん。ここでは女囚役の為に、当時では衝撃的な丸坊主姿になっているという。これもヤサグレ女囚モノの元祖的な映画で、いずれは観たい映画である。)



「さぁ、今年度のアカデミー主演女優賞は………」


   さぁ、誰がとるか、誰がとるか………


「ボーン・イエスタデイのュディ・ホリデイさんです!!」



………………………………… 誰?それ?



全く知らない映画と女優、知らぬが恥だと思い、今回初めて、この映画を観てみる。(多少の情報も頭に入れて)



クズ鉄業で成功した『ハリー・ブロック』(ブロデリック・クロフォード)は、元女優で愛人の『ビリー』(ジュディ・ホリデイ)をともなってワシントンにやって来た。


ワシントンでも最高級のホテルに滞在しながら、事業を拡大する為、議員をまるめこみ、(違法でもしったことか!!)のハリーは、部下を顎でこき使い、必要な書類には頭の弱いビリーを騙して強引にサインをさせる。


「ねぇ、これ何の書類?……」なんてビリーが聞くものなら、


「うるさい!だまってサインすればいいんだ!!」の一点張り。


ビリーの馬鹿さを利用して、それまでは上手くいっていたハリー。



だが、議員と会談した時、あまりのビリーの教養のなさに今度は逆に呆れる始末。



(なんとかせねば……)


そこで多少の教養を、と取材に来た『ポール・ラベル』(ウイリアム・ホールデン)に彼女の教育を依頼するのだが……それは思わぬ副産物をよんでしまう。


ビリーは教養を身に付けていくにしたがって自我に目覚めはじめ、ハリーの不正に気づきはじめるのだ。


そして、ポールはポールで、そんな変わっていくビリーにどんどん惹かれていき……。





こんな感じの『ボーン・イエスタディ』なんだけど……ごめんなさい、ハッキリ言ってあんまり面白くなかった。



元々は舞台でヒットしたコメディーらしいのだが、どこで笑えばいいのやら、クスリとも笑えなかった。


とにかく、一番の原因が、この映画のハリー役のブロデリック・クロフォードで、イヤな野郎すぎて、終始ムカついてしまった。


この人、フェリーニの『崖』でも詐欺師の悪役だが、この映画ではそれを越えるぐらい虫酸が走る役。

とにかく最初から最後まで、誰彼に、わめき散らして、怒鳴りっぱなし。(ゆえに出番があれば、あるほど、どんどん嫌いになっていく)


「自分が正しい!」を叫びながら、ワンワン吠えて、誰彼に高圧的に噛みついて、まるで、どっかの大統領みたい。(あ~、うるさい!)


で、これに笑えるか?

全然笑えないし、私は好きじゃない。




かたや、主演女優賞を受賞したジュディ・ホリデイの演技。



耳をつんざくようなキンキン声で、英語なのに、まぁ耳障りなこと。


馬鹿丸だしの教養のないビリーを演じる為に、わざとそんな風に喋ってるんだろうと思い、(次第に教養が身につけば、この喋り方も変わるんだろう……)と我慢していたが、全くそんな事にならなかった。(最後までキンキン声)



怒鳴り声とキンキン声の応酬に、ウイリアム・ホールデンや他の出演者たちは、普通の演技をしながらも、「シラ~」としているように見えてしまった。



日本では、この映画、結局公開されなかったらしいが、何となく納得!


これを「面白い!」と思える感性は、我々日本人にはないと思うからだ。(公開してもヒットしただろうか?)



それにしても、これが、ベティ・デイヴィスやグロリア・スワンソンを抑えてのアカデミー主演女優賞ねぇ~


ん~同意できない。(オマケにゴールデングローブ賞の主演女優賞もとっている。ゲゲッ!( ゚ロ゚)!!)


でも、アメリカでは、この映画が評価が高くて、アメリカ喜劇映画ベスト100の24位で上位につけている。



本当にアメリカ人、これを観て大笑いするの? 拍手喝采なの?

わけわからん。


ウイリアム・ホールデンの珍しい眼鏡姿は似合っていたが、相手役がこれじゃ、ちと可哀想に思えてしまった。(ジュディ・ホリデイも黙っていれば美人なのに、喋りだせば林家パー子 )



今回は星での評価は保留。


海の向こう……これが越えられない感性の違いなら、久々にそれを見たような気がした映画でありました。

2020年11月1日日曜日

映画 「アンナ (1951)」

1951年 イタリア、フランス合作。




『シスター・アンナ』(シルヴァーナ・マンガーノ)は、大病院で患者たちの為に看護師として懸命に働いていた。(※イタリアでは、修道院でお祈りを捧げるだけじゃなく、実際にこんな病院で、プロの看護師なみの役割を果たすシスターたちがいる事に、まず驚く(*゚Д゚*))


子供から年寄りまで、笑顔で接するアンナに、ドクターや他の看護師たちの信頼も厚い。



一刻も早く、本物のシスターになれるように、本部への修道誓願を希望するアンナ。(なんだ、まだシスター見習いか)


だが、修道院長からは厳しい言葉が、チクリとアンナの心を突き刺す。


「あなたの行動は、まだ、どこか世俗的すぎる。人間愛が、あまりにも強すぎるのよ。試練だと思って、当分はこの病院で患者の為に尽くしなさい!」


「分かりました…」

ガックリ気味のアンナである。



そんなアンナが病室を巡回していると、けたたましい救急車のサイレンの音が……。


(こんな夜半に急患……?)


血だらけで担架で運ばれてきたのは、車を猛スピードでとばしてきて、相手にぶつかって大怪我という、とんでもない(マヌケ)男。


(どれ、どんな様子か……)とアンナが顔を覗いてみると……


「アンドレア!!」


そう、昔、アンナが愛していた『アンドレア』(ラフ・ヴァローネ)なのだった。(なんか、この場面で竹内まりやの曲が、自然に頭に流れてしまう私 (笑) )



アンドレアの緊急手術が始まると、アンナは手術室の側で祈った。


「神様、アンドレアをお救いください!……」と。


そして、祈りながらも、アンナの意識は、数ヵ月前の苦い過去を回想していくのであった……(ポワ、ポワ、ポワァ~ン?ってな感じ)




以前、ここで挙げた『にがい米』で、すっかりシルヴァーナ・マンガーノ様の虜になってしまった私。


シルヴァーナ様の出演した映画を探してみると、日本で観れるような映画が、あまりDVD化されてないのだ。(頼みますよ、メーカー様!)


比較的、『にがい米』に近い年代の、この『アンナ』を観る事が、やっと出来た次第である。


で、観ていると、シルヴァーナ様はいきなりシスター姿。


充分、美しい尼僧姿のシルヴァーナ様なんだけど……地味過ぎて、ちとガックリ。


と、思っていたら、アンナの過去の回想シーンに場面が切り替わると、(デター!!)狂ったように歌い踊るシルヴァーナ様の姿が!!



腰を自在にひねり、華麗なステップをふみながら、歌い踊る『アンナ』(シルヴァーナ・マンガーノ)は、ナイトクラブの歌手兼ダンサー。


観客たちは見惚れていて、拍手喝采だ。(だろうな~)



そんなアンナに、これまたベタ惚れの、田舎に広大な住宅を構える金持ち紳士『アンドレア』(ラフ・ヴァローネ)は、「結婚しよう!結婚しよう!」と毎夜アンナを口説いていた。


「無理よ…」


アンナのツレない言葉にもアンドレアの気持ちは変わらず。


ナイトクラブからアンナの家までの送迎を、ひたすら続けるアンドレアなのである。(なんて健気な)




だが、アンドレアに送ってもらってアパートのベッドに入ると、アンナの何かが疼きはじめる。


フラフラ~と夜のアパートを抜け出すと、どこかに向かい出すアンナ。


合鍵で、ある部屋のドアを開けると、そこにはシャワーを浴びている一人の男の姿が。


そう、それは同じナイトクラブで働くウェイターの『ヴィットリオ』(ヴィットリオ・ガスマン)。




アンナはアンドレアに口説かれながらも、ヴィットリオとも関係を続けていたのだ!



気持ちはアンドレアに傾いても、身体はヴィットリオに溺れているアンナなのである。(なんかレディース・コミックの世界、そのまんま (笑) )



こんな事が、毎夜毎夜、繰り返されて、さすがに自分自身に嫌気がさしてくるアンナ。


そして、とうとう決心する。


「アンドレアと結婚して、田舎に行くんだ!そして真人間になろう!」


ヴィットリオのアパートの合鍵を道路の排水溝に捨てると、アンナはアンドレアの故郷に向かった。



そして、明日は結婚式という時、窓から外を見ると、あのヴィットリオがやってきたのだ!(ゲゲッ!)


「なんでやって来たのよ?!」


「田舎で結婚だって?お前は俺が忘れられないはずだ!!思い出させてやる!!」


「やめてー!!」

近くの暗い石堂?で、アンナを押し倒すヴィットリオは、まるで獣。(「イヤよ!イヤよ!も好きのうちさ!」を地でいくようなヴィットリオさん)



そこへ通りかかったのは、あのアンドレア。



アンドレアとヴィットリオは激しい殴り合いになる。


「やめてー!!やめてー!!」(ここでも、なぜか?竹内まりやの曲が頭に浮かんでくる私。♪けんかをやめて~二人をとめて~♪)



ヴィットリオが取り出した銃の弾がアンナの肩をかすめる。



それを取り上げようとするアンドレアは揉み合いになるうちに、ついに……バキューン!!



銃口がヴィットリオの腹を向いた瞬間、それが発射されてしまったのだ。



腹から血を流して絶命するヴィットリオ。(アラアラ…)



呆然自失になっているアンドレアをおいて、アンナはフラフラと外に出て歩きだした。



(何もかも自分が蒔いたタネ……すべて私が悪いんだ………)



あてどもなく、さ迷い歩くアンナは、いつの間にか行き倒れて、親切な人に介抱されて、今いる病院に連れてこられたのだった。



そうして、傷が治ると、シスターへの道へ。

今に至るアンナなのである。



だが、運命は皮肉にも、またもやアンナをアンドレアと引き合わせた。


手術がすみ、傷が癒えてくるとアンドレアは再度求婚してくる。


「もう一度やり直したい!アンナ、結婚してくれ!!」


はてさて、アンナは尼僧の立場でどうするのか………




ここまで長々と書いたのは、ちゃんと理由がある。



この映画『アンナ』と『にがい米』を両方観た自分。


監督は違えど、どちらも、出演者はシルヴァーナ・マンガーノ、ラフ・ヴァローネ、ヴィットリオ・ガスマンが揃っている。(『にがい米』のドリス・ダウンリングがいないだけだ)


そして、『にがい米』、『アンナ』で演じている、それぞれの役の性格が、とても似かよっている事に、自分同様、両方を観ている人は、とっくに気づいたはずである。



シルヴァーナは踊りが好きで、後先をまるで考えていない、ただ欲望の為に突き進んでしまうような性格。


ラフ・ヴァローネは誠実で無骨な男。


ヴィットリオ・ガスマンは、女を虜にはしても、根っからのゲスなクズ男。(銃で死んでしまうのも、まるで一緒だ)



もう、役の名前と、話が違うだけで、同じ役者が同じキャラクターで、それぞれに存在しているのである。



なんだか不思議な感じ……


ジョジョのように、まるで世界が一巡して、同じ人間が、同じように再び出会ってしまったような……そんな錯覚さえ覚えてしまう。



あるいは、『にがい米』と、この『アンナ』は、同じような時間で、ソックリな人間たちが、決して交わる事のない、並行しているような世界を一緒に進んでいるのか?……そんな、まるでSFモドキの発想にまで、とんでしまうのだ。


もちろん、『にがい米』と『アンナ』では結末は違う。


『にがい米』では、ヴィットリオ・ガスマンに、たぶらかされて、騙されて、ガスマンを撃ち殺してしまい、自らも自害してしまうシルヴァーナ。


『アンナ』のシルヴァーナは生き残る。



それにしても……



分かれ道が二通りあるなら、右に進んで、死んでしまったのが『にがい米』のシルヴァーナ。


左に進んで、生き残ったのが、この『アンナ』のシルヴァーナ?(どっちでも死んでしまうヴィットリオ・ガスマンは憐れだが (笑) )



この、まるで《双子》のような対比の2本の映画、自分のように両方を観る事を、是非オススメしたいと思うのである。


とりあえず、『アンナ』、星☆☆☆☆。



それと、シルヴァーナ様の適職は、尼僧よりも、やっぱりダンサーだと思いますよ♪