2018年12月31日月曜日

映画 「きっと、うまくいく」

2009年 インド。






写真家の『ファルファーン』(R・マドハヴァン)は、インドから飛び立つ飛行機の機内にいた。


あと、もう少しで飛行機は離陸する。また、しばらくは故郷インドともお別れだ。



そんな時、いきなり携帯に電話。


大学の時の同級生で、嫌味な『チャトル』(オミ・ヴァイディア)からだ。



何事かと思い、しぶしぶ電話にでると、

「ランチョーを見つけた!すぐに大学に来い!」チャトルは、それだけ言うと電話を切った。



(ど、どうすればいい?飛行機は間もなく飛び立つ………)


慌てたファルファーンは、機内で咄嗟に倒れこみ、仮病をつかって強引に飛行機を止めた。(いいのか?)



飛行場を降り、これまた強引にタクシーを拾うと、大学時代の親友『ラージュ』(シャルマン・ジョシ)に即、電話する。



「今から迎えに行くから、表で待ってろ!ランチョーが見つかったんだ!」


ベッドで、まどろんでいたラージュも、寝間着のまま慌てて飛び起きた。


着の身着のままのラージュをタクシーで拾い、大学の屋上に向かうと、嫌味なチャトルが仁王立ちで待ち構えていた。


「10年前の約束を覚えているか?」嫌味なチャトルは、屋上の柱に書かれた文字を指さし続ける。


「俺は絶対にお前らより成功してみせる!と誓った。そして、そのとおりに成功したのだ!!ガッハハハッ!」ファルファーンもラージュもチャトルの出世話には興味なし。それよりも………


目的はランチョーの事だけなのだ!



「ランチョーはどこなんだ?!」


いらつき質問する二人に、「シムラだよ」とチャトルは、やっと答えた。



3人はチャトルの車で、すぐさま遠いシムラの町を目指して出発。



ファルファーンは車を走らせながら、10年前を思い出していた……

かけがえのない永遠の友、ランチョーに初めて出会った日の事を………。






――  10年前。

ファルファーンは、ICE(インド屈指の難関な競争率の工科大学)に、ギリギリの成績で入学してきた。


本当は写真家になりたかったファルファーンだが、エンジニアにしたい父親には、到底さからえない。




寮の同室には、彼もまた、ギリギリの成績で入学してきたラージュがいた。


寝たきりの父親と、それを世話する母親、いき後れの姉……一家の生活は困窮していて、全ての期待が、ひとり息子のラージュに、のしかかっていたのだ。


「無事に卒業して、なんとしても立派な会社に就職せねば!……」


そんなプレッシャーと闘いながら、部屋中を御守りなどで飾り立てていて、「神様、どうか、無事に卒業できますように!」と祈りに必死である。




学生の世話係で働いている、小柄な通称ミリメーターは、ファルファーンの荷物を運びながら、

「今夜は綺麗なパンツを穿いていなよ!」と助言した。


同室の二人は「???」だ。




だが、その理由はすぐ分かった。


夜になると、全員の新入生がパンツ一枚の姿にさせられ、上級生にお尻をつきだし、牛の刻印ごとく、スタンプを押されるのだ。(難関の大学にしては、そうとう変な恒例行事だ)



上級生に逆らえない新入生たちは、頭ではバカバカしい行事と思いながらも、パンツ一枚で、手を差し出し、

「王よ、どうか、お受け取りを!」と口々に言わなければならない。(繰り返すが、変態行事である (笑) )




そこへ、一人の新入生が遅れて現れた。


ランチョルダース・シャマルダース・チャンチャル、(な…長い名前)通称『ランチョー』(アーミル・カーン)だ。


周りの状況にキョトン顔のランチョーに、新しい獲物を見つけた上級生はご機嫌だ。


「さあ、お前もパンツ一枚になれ!」




だが、ランチョーは、それを無視して、素早く自室に閉じこもってしまう。


「出てこい!出てこないとお前のドアにオニュー(小便)をかけるぞ~!」上級生の男が、扉を叩きながら、はやし立てている。(どんな変態上級生? (笑) )



ランチョーは、部屋のブレーカーを落とし、配線をつなげたスプーンを棒に結び固定した。


扉の下の隙間から、そのスプーンをソーッと、差し出すランチョー。



それに上級生がオニュー(小便)をかけた時に、勢いよくブレーカーをあげた。



電流はスプーンから~小便を上へと伝わり~上級生の股間のイチモツを直撃した!!


「ギャアアアアア―ッ!」



絶叫をあげながら、悶絶して倒れ込む上級生。



その後、シレーッとして、ベッドで眠るランチョーの姿に、同室のファルファーンとラージュは、ただ呆気に取られて、あきれるばかりだったのだった………。





初めてみたインド映画。



そして、凄い面白かった!!



近年、観た映画の中でも、この映画は確実に、自分のマイ・ベストテンの上位に食い込むだろう。



泣かせて、笑わせて……自分が欲しているようなモノが、全て、ここにつまっているような、そんな奇跡のような映画である。




このタイトル「きっと、うまくいく」が、ピッタリで、近年にしては中々センスの良い邦題。(原題は「3バカ」らしいが、これじゃ、日本では受けなかっただろう)



「きっと、うまくいく!」は、主人公ランチョーの口癖なのである。




テストでも、神頼みで祈ってばかりいるラージュにも、

「胸に手を当てて、こう言うんだ。『うま~くいく、うま~くいく』」と。




産まれた時から、親にレールをひかれ、エンジニアになるべくして、大学に入ってきたファルファーンにも、写真家を目指すように、同じようにさとす。


学歴や順位優先の大学側にも、ランチョーは、独自の考えで、変革を訴え続けるのだ。




そんな異端児ランチョーを校長の『ウィルス』は、いつも目の敵にしている。


もじゃもじゃヘア(石立鉄男風)に、いつも苦虫を潰したような顔をしているウィルス校長。



ウィルスは絶対的権力で、ランチョーたちを、色々な手をつかっては追い詰めるが、ランチョーは、そのハードルを軽々クリアしていくところに、この映画の爽快感がある。





だが、青春には、馬鹿な事をしたり、くだらないイタズラも、時には充分ありだ。




ウィルス校長の長女の結婚式に、招待もされていないのに、只飯にありつく為に、変装して浸入したり……。


ウィルスの次女『ピア』は、そんな馬鹿な事を繰り返すランチョーを、最初は嫌っていた。



だが、ランチョーの、友達思いな気持ちや、自分への優しい気づかいに触れるうちに、徐々に好意を持ちはじめていく。


「あたし、この人好きかも……」って思ってしまったピアの妄想は、みるみる膨れ上がり、いきなり歌って踊ってのミュージカルに発展するのはご愛敬。(これぞ!まさしくインド映画って感じだけどね)





それにしても、このランチョーは普段は何事にも動じないのだが、友達の為なら、よく泣いている。



こんなに泣く主人公も珍しい。



そして、このランチョーが涙すれば、同級生のファルファーンもラージュも、そしてピアも、ランチョー(アーミル・カーン)を好きにならずにいられない。



もちろん映画を観ている我々もだ。


青春は、「涙」と「少しばかりのイタズラ」……。

星☆☆☆☆☆です。

2018年12月26日水曜日

映画 「青い珊瑚礁」

1980年  アメリカ。








20世紀初頭、『アーサー・レストレンジ』(ウイリアム・ダニエルズ)は、8歳の息子『リチャード』と、従妹の7歳『エメライン』を連れて、イギリスの帆船でサンフランシスコに向けて長い航海をしていた。



だが、船内で突然火災が起きてしまう。


幼い二人は、船内で料理人をしている荒くれだが人のいい『パディ』(レオ・マッカーン)と、なんとか小舟に乗りこみ脱出した。


アーサーも小舟に乗って他の乗組員たちと脱出するが、やがて離ればなれになってしまう。



3人を乗せた小舟は、あてどもなく大海原を漂い続けた。




そうして、しばらく経った後、やっと目の前に島が見えてきた!



無事に上陸するとハシャギまわる子供たち。

それを静止ながらも辺りを見渡すパディの目は決して警戒心を解かない。




やがて島を探検すると飲み水もあり豊富な果物などもあることが分かってきた。

そして、どこから流れ着いたのか、ラム酒の樽。



だが、それとは別に不気味な《人骨》も発見したりする。

パディは子供たちを連れて、そっとソコを離れる。





エメラインが赤い実を手にして口に入れようとしていた。

「その実を食ってはいかん!」

パディが怒鳴りつける。

「いいか?その実を食べると永遠の眠りにつくんだ、絶対に食べてはならんぞ!(ホントか、どうか、いったい何の実なんだ…)、分かったか!?」



幼いリチャードとエメラインは、その忠告を、素直に聞き入れた。




(この島は無人島なのか …… ひとっ子一人、姿を見やしない ……… )

パディは二人の幼子たちを抱えながらも、この島で生き延びる為に、二人に生活の知恵や狩りの仕方などを教え込んでいった。



ある夜、二人が寝入った後、パディは島の反対側に探検に行った。

そうして、そこで原住民たちの恐ろしい儀式なるものを見て、慌てて帰ってくる。



帰ってきたパディは二人に、

「絶対に島の反対側に行くんじゃないぞ!ブギーマンに襲われるぞ!!」と釘をさした。


誰にも相談したり頼るものさえいないパディは、昨日の夜の事もあってか、ラム酒をがぶ飲みしている。


もう酔わずにはいられないのだ。(大人だって弱いし心細い時は泣きたいのだ)





そして明くる朝。

砂浜でパディは死んでいた。



リチャードとエメラインが恐る恐る近づくと、倒れているパディの口から蟹が這い出てきた。

それを見て失神するエメライン。





こうして取り残された二人。







―――  そして、数年が経ち ……

死んだパディから教えられた少ない知恵や工夫でなんとか二人は生き延びていた。


成長した二人 …




『リチャード』(クリストファー・アトキンズ)は精悍で逞しく育ち、素潜りで魚を採ったり、立派な住まいも作った。


『エメライン』(ブルック・シールズ)も、美しい美少女に成長し、そんなリチャードを助けながら共に暮らしていた。





だが、人は成長していけば、男も女も自然の摂理で、それぞれサナギが蝶に変わるように変化していくものである。


ある日、岩場にエメラインが立っている時、内腿の間を血がしたたり落ちた。


「どうしたんだ?ケガをしたのか?見せてみろ!」

リチャードが、そう言いながら近づいてくると、

「こないで!!」エメラインは叫んだ。


《初潮》が始まったのだ。


だが、無人島ではそんな知識もないし、教えてくれる人もいないエメラインは、ただ戸惑うばかり。

その日を境にエメラインはリチャードに対してよそよそしくなっていった。




それでも女性の本能が勝ってしまい、完全には無視できない。


暇さえあれば、リチャードの逞しい体つきを目で追ってしまうエメライン。




一方のリチャードも、そんなエメラインが気になりはじめ、触れようとすれば拒絶されるし悶々と過ごす日々。


次第に股間のイチモツに、知らず知らずに手がのびては、隠れて自慰をしてしまう。



そうして、それを見てしまうエメライン。


体の急速な変化に心がついていかない二人は、互いの距離を少しずつとるようになっていくのだが ………





原作は1908年に書かれた(だいぶ古い)、ヘンリー・ドヴィア・スタックブールの、『青い珊瑚礁』(原題もthe blue ragoon)

タイトルがとても良い。


「青い珊瑚礁」の《》は、舞台になる無人島を囲む海の「青さ」であり、甘酸っぱい青春の「青さ」を想像させる。

この原作は、1923年、1949年と映画になっていて、これは三度目の映画化である。





この映画は、公開されるやいなや、当時大ヒットした。



ブルック・シールズ(当時15歳)のキラキラ輝くほどの美しさと可愛らしさ。


1980年に、中学生になったばかりの自分の胸を、たちまちズッキューンと撃ち抜いた。

なんたって、ほぼ腰布1枚をまとって無人島で生活しているのだから、思春期の中学生には堪らない。





相手役のクリストファー・アトキンズ(当時18歳)は、水泳が得意という事もあってオーディションで選ばれた。

クルクル金髪の巻き毛に愛敬のある顔で、こちらもアイドル的存在になった。



この10代のふたりが、ほとんど裸身に近い格好で、性の目覚め、戸惑い、性の喜び、性の誕生までを演じるのだから、映画はヒットしたが、世間では賛否両論を当然呼んだ。


「10代の子にあそこまでさせて……」という意見が大半だったんじゃないだろうか。



だが、今と違い、まだまだ規制のユル~イ昭和の日本では民放のTV(しかもゴールデンタイム)で頻繁に放送されておりました。





本当に今じゃ考えられないくらい緩かった。



大人向けのエロティク映画では、『エマニエル夫人』や『チャタレイ夫人の恋人』など。


エロティク・コメディーや青春ものでは、『ポーキーズ』、『超能力学園Z』、『グローイング・アップシリーズ』などなど ………



こんなのをゴールデン・タイムで民放で、繰り返し放映していたのだから、当時の中学生や高校生には《大刺激》。


かくいう自分も、これが親と食事している時なんかに放送なんてされると、居心地悪い気持ちにさせられたものだった。



数十年たって観ると、なんて事はないラブシーンなんですけどね。(歳をとるとは、こういう事か… だいぶスレてしまった今の自分がいる)




今の歳の自分が観ると、当時はきわどさいばかりが取りざたされていたが、この映画の主題が真面目に《性》を取り扱っていて、むしろ性教育のお手本になるような映画にも思えてくるのだ。




だが、本国アメリカでは、この手の映画がヒットしても、量産される事に徐々に懸念の声が聞こえはじめた時期でもあった。


その最初の槍玉にあがったのが、このブルック・シールズ。



『プリティーベビー』で12歳の娼婦を演じて、次が、この『青い珊瑚礁』だったのもある。

この年に、今も続くゴールデン・ラズベリー賞(最低映画賞)が誕生し、第1回目の主演女優賞が、このブルック・シールズなのである。



それ以後は、セクシーな役柄を演じた役者たちが、軒並み、このゴールデン・ラズベリー賞の常連に名を連ねていく。(ボー・デレク、この後ストリッパーを演じたクリストファー・アトキンズも。シャロン・ストーンなどなど …… )



そして、現代では、そういう役柄を演じる役者や役自体も、ほとんど無くなってしまった。



味もそっけもない時代になったものだ。



007も現代ではベッドシーンすらない。

あればあったで、現代のアメリカでは大騒ぎされて排除されるに決まっている。


女性が胸をだせばセクハラ。、顔を黒く塗れば《ブラック・フェイス》だと騒がれる時代。


このギュウギュウに締め付けられた規制の中で、映画をつくり続ける人たちも大変である。





だが、まだ、自由の国フランスがある。



最後のエロスの砦として、自分としては期待しております。(何の砦だ(笑))


甘い青春の輝き『青い珊瑚礁』、星☆☆☆☆でございます。

2018年12月24日月曜日

映画 「ミッション:インポッシブル / フォールアウト」

2018年 アメリカ。






アクション映画に、あらすじを長々書いても野暮というもの。簡単に。


いつものように、主人公『イーサン・ハント』(トム・クルーズ)が世界の危機を救う話。(シリーズ物の説明は、どれも一緒だ)



バイク・アクションありーの、

カー・チェイスありーので、

トム・クルーズが、いつものように血眼でやっているが、最後は上手くいく事が誰でも分かっているので安心して観られる。そんな映画である。


今回は3つのプルトニウムを敵から回収するのが目的だ。(敵はいつも核爆弾で人類滅亡を狙ってる。今回で何度目だ?(笑))





なんだか、冒頭から身もふたもない書き方をしているがごめんなさい。



理由は、つい最近まで自分自身、このシリーズが《嫌い》だった為である。




ご存じ、この『ミッション:インポッシブル』は、TVシリーズ『スパイ大作戦』の映画化である。


この『スパイ大作戦』を毎週毎週、楽しみにみていた世代なのである。(もちろん、90年代の新スパイ大作戦も観てる)


だから、このシリーズが初めて映画になると聞いた時は期待もしたし、劇場へもいそいそと足を運んだ。



そして、映画一作目『ミッション:インポッシブル』……




なんじゃ、コリャー!舐めとんのかーー!💢が、正直な感想だった。




TVシリーズ『スパイ大作戦』は、それぞれの個性や特殊技能を活かして、チーム全体が団結して任務を遂行する。


そして、ソレを束ねるのが、チームの皆が尊敬してやまない、チームリーダーの『ジム・フェルプス』(ピーター・グレイヴス)である。


そんなモノが、基本あってこその『スパイ大作戦』の魅力なのだ。





それを、映画は ズタズタ にした。


主役のトム・クルーズ演じるイーサン・ハントを引き立てる為に、メンバー内では次々と裏切り行為が繰り広げられる。


ジョン・ヴォイド演じるジム・フェルプスさえも、敵に寝返ってしまう。



最後は、孤軍奮闘で戦うイーサンが、それらを見事解決する物語となっているのだ。




こんな映画を、TVシリーズを演じていた役者たちはどんな想いで観たり、思っていたのだろうか?




やはり、自分の予想どおりカンカンに怒っていた。



TVシリーズでメカ担当のバーニー役を演じたグレッグ・モリスは怒って、映画が終わる前に席を立った。


変装担当のローランを演じたマーティン・ランドーもしかり。映画に対する相当な不満をコメントしている。



そして、長年、愛着をもってジム・フェルプスを演じてきたピーター・グレイヴスも、映画でのジムの扱いを嫌って、もちろん腹をたてていた。




自分もTVシリーズの役者たちに味方するようだが、この映画が大嫌いである。



監督はブライアン・デ・パルマか ……やはり!

自分の少々苦手とする監督である。





ブライアン・デ・パルマ…ヒッチコックや他の映画から借りてきたモノを、あまりに多様しすぎて、今じゃ《芸域の狭いモノマネ監督》と烙印されている。




デ・パルマ映画も初期こそ(亜流と言われようと)面白いモノはあっても、段々と募っていく世間の不信感。(映画『アンタッチャブル』なんて、まんま『戦艦ポチョムキン』の焼き増しシーンが出てくる)


でも、この『ミッション:インポッシブル』は決定打になったかもしれない。

最近じゃ、その存在すらも聞かなくなってきた。




トム・クルーズも、この映画一本で大嫌いになってしまった。(これ以降トムの映画も観ない数年が続く)




だが、そんな事とは関係なしに、映画はヒットして、それなりの興行収入を打ち立ててしまった。


そうしてヒットすれば、必ず続編が作られるのがハリウッド商法である。




友人「今度、ミッション:インポッシブルのpartⅡが作られるって!」

私「ふ~ん、そう。」(観ない)



――数年後、

別の友人「今度、ミッション:インポッシブルのpartⅢが公開されるって!」

私「ふ~ん、そう。」(観ない)




――また数年後、

TV「今度、トム・クルーズが、ミッション:インポッシブルの新作の為に、来日しました」

私「ピッ!」(チャンネルを変える音)




―――またまた数年後、

友人「ミッション:インポッシブルのpartⅤを借りてきたよ」

私「ありがとう」(しばらく放置。でも、この頃になるとだいぶ軟化している)




そうして、「なんにも観る番組もないし、見てみるか……」で、5作目『ローグ・ネイション』を観てみると ………




まぁ、まぁ、普通に面白かった。




そうして、「おやっ?」とも思った。



いつの間にか、ちゃんとチームが出来てるじゃーございませんか。(相変わらずトム・クルーズが主人公で、一人浮いてハッチャケ過ぎてるが)



少し、さかのぼって4作目『ゴースト・プロトコル』を観てみた。

コレが充分に面白かった!

それに良作に仕上がってると思ってしまった。




なにが、そんなに良かったのか?



それは、サイモン・ペッグ演じるベンジーの存在なのだ。(これにつきる)





前にも、他の映画の事で描いたが、コメディリリーフの存在は、それだけで貴重なのだ。



彼が出てくるだけで、無機質な只のアクション映画である、この『ミッション:インポッシブル』も、だいぶ違って見えている。



『ゴースト・プロトコル』では、イーサンとベンジーが、変装してクレムリンに潜入するところなんかが特に良い。




同じような背丈の二人が並んでロシアの軍服を着て歩いている。


ベンジーは緊張の為なのかベラベラとお喋りが止まらない様子。


それを口髭をつけて変装したイーサンが、ジロリと睨んで、二人は仲良く敵のアジトへと潜入していくのだ。(そう、こんなスパイ大作戦が観たかったのだ、自分は)




ルーサー役のヴィング・レイムスも良い味をだしている。




監督はブラッド・バード(なんと実写映画は、これが初。Mr.インクレティブルなどのピクサーアニメの監督なのだ。)



今のところ、これがシリーズ中でも一番の出来じゃないかな。



そして、シリーズは、『ローグ・ネイション』、『フォールアウト』と続くのだが、監督の方は変わってしまった。(二作連続監督は、クリストファー・マッカリー




決してつまらなくはないのだが、やや凡庸な仕上がり。


この『フォールアウト』も及第点だが、特にどうってことないアクション映画になってしまっている。




それにしても、このシリーズは、いったいどこまで続いてゆくのだろう……?



『フォールアウト』で後半、偶然居合わせた元妻のジュリア(離婚してもお互いに愛し続けている。その生存だけが、今のところイーサンのアキレス腱である)が、プルトニウムの爆弾解除をするルーサーを手伝いながら、こんな風にイーサンの事を話している。


「イーサンは引退しても、世界で何かが起こった時に、きっと『あの時に、自分が居れば食い止められた』と思うはずだ」






《世界を救いたい病》も、ここまできたか ……

気楽に引退もできやしない。




このシリーズの最後は、イーサンの死で幕を閉じるしかないんじゃなかろうか。




トム・クルーズも56歳。(2018年時点)

今期の事故もあるし、次のミッションが行われるのも、早くても60間近である。




アクション映画のシリーズで単独主人公の記録は、007のロジャー・ムーアが最長7作で降板している。(もちろん、スタントを使っているが)


自身のスタントにこだわり続けるトムにしても、(次のミッションが最後になるのでは?)と思わずにはいられない。




それとも、その限界を越えていけるのか?


まぁ、ベンジー役のサイモン・ペッグが、劇中で殺されたり降板しない限りは観るつもりではいるけど。(すっかりサイモン・ペッグのフアン)



だいぶ脱線してしまいましたが、星☆☆☆とさせて頂きます。

2018年12月18日火曜日

映画 「オリエント急行殺人事件(1974)」

1974年 イギリス。






1930年 ニューヨークで、大富豪アームストロング大佐の一人娘デイジーが誘拐された。



事件は連日マスコミで報道され、センセーションをおこした。


身代金は20万ドルで夫妻は当然払うのだが、デイジーは数日後、無惨に殺されて遺体で発見される。



妊娠中の妻アームストロング夫人はショックのあまり死産し、自らも亡くなってしまった。


そうして、誘拐犯として疑われたメイドのポーレットも自殺してしまう。

悲劇の連鎖は続いて、絶望したアームストロング大佐も自ら命を絶ってしまった。



犯人は見つからず……時は過ぎた。




―――  そして、5年後の1935年、冬。


名探偵『エルキュール・ポワロ』(アルバート・フィニー)は、トルコ、イスタンブール駅にいた。


ポマードでピッタリ撫で付けた髪にボウラーハット(正装用の帽子)をかぶり、ピンと伸びた口髭、上質なコートやマフラーなどで、その身をくるんでいる。


完全防備の装いをしながらも凍てつく寒さがこたえるのか、ガタガタ震えながら駅のホームに立っていた。



事件の依頼を受けて、急遽、ロンドンに戻る為に、アジアとヨーロッパをつなぐ大陸横断列車《オリエント急行》に乗るためだった。



だが、この日は真冬の悪天候にもかかわらず、満席。



次々と乗車していく人々を尻目に、ポワロの我慢も限界まできていた。。



列車のそばでは、車掌のピエール(ジャン=ピエール・カッセル)と友人で列車会社の重役ビアンキ(マーティン・バルサム)が揉めている。


「あいにく、一等寝台車は満席でございまして……」


「ポワロさんには、最高の席じゃなきゃダメなんだ!万一の為に、予備の客室を確保してるだろう?」


「それが、予備もふさがってまして……」


(もう、いいかげんにしてくれ!!)


「ラチェットさんの秘書のマックイーンさんの寝台の2階が空いているはずだ!、そこでいい!」


ビアンキが強気で押しきると、車掌のピエールも「……分かりました」と渋々承知した。



やっと安堵してポワロが乗り込むと、列車は暗い雪景色の中を、モクモクと白い煙を吐きながら滑るように走り出したのだった。






翌朝、食堂車の席に二人の男が真向かいで座っている。


一人は深い皺が刻まれた顔に神経質でピリピリした瞳、口を開いたその声も尊大で威圧的であった。


「どうした?顔色が悪いな!」『ラチェット』(リチャード・ウィドマーク)が、問いかける。


「2階に寝ていたベルギー人のイビキがうるさくて…」答える秘書の『マックイーン』(アンソニー・パーキンス)は、どこか落ち着かない様子だ。


「それに、またこんなものが…」マックイーンが手紙のようなものを渡すと、ラチェットの顔色が突然変わった。



そんな食堂車にポワロが入ってきた。


「じゃ、今のうちに寝ておくんだな」

ラチェットは、ポワロに目を向けると、マックイーンを、邪険に追い払う仕草をした。



慌ててマックイーンは出ていった。



食堂車で近くの座席にすわったポワロに、ラチェットが話しかけた。



「あんたに仕事を依頼したい!」

高圧的な物言いに内心カチンときながらも「どういった御用件でしょうか?」と訪ねるポワロ。


「私には敵がいるのだ!調べてほしい!それに金ならいくらでも払ってやる!」


「失礼ですが敵はお一人でしょうか?」

ポワロはそう言うと続けて「お断りします」とキッパリといい放った。




ラチェットは、それでも納得する事もなく言い続けていたがポワロは頑として頭をふらない。


諦めたラチェットはポワロに苦々しい目を向けると食堂車から出ていった。




その後、ビアンキの粋な計らいで一等寝台車に空きをつくってもらったポワロは、そちらに移った。


(やっと今晩はグッスリ休める……)

安堵するポワロ。



だが、その夜が、異常な惨劇の幕開けになろうとは…………名探偵と言われるポワロさえも予見できなかったのだった。






監督はシドニー・ルメット


アガサ・クリスティーのポワロものとしては、初めて成功してヒットした映画だった。




以前にも、映画『情婦』で書いたことがあるが、長編小説を映画化する作業は、とても困難で難しいのだ。



それが探偵小説なら、まともに映像化しようとするなら、10時間をゆうに越えてしまう。


2時間に納めるようするには、要らないシーンを、削って、削っての作業の繰り返しなのだ。




登場人物さえも、削られることすらあるし、話の流れすら変わってしまうことも多々ある。(映画、「八つ墓村」などなど……)




結果、出来上がった作品は、しまいには、全然別物になってしまい、原作ファンからは、

「こんなのは、全然●●じゃない!」とブーイングの嵐を受けてお叱りをうける→そして失敗作の烙印を押されてしまうのだ。




そんなクリスティーの長編小説が原作の映画では、これ以前に作られたものでは、ことごとく失敗している。(※『情婦』は短編小説である。 何を考えているのか、マーガレット・ラザフォード扮するミス・マープルは、映画の中でツイストを踊ったりするらしい。 これをクリスティーや原作のフアンたちが、どういう思いで観たのか想像される)





探偵小説の骨格は、ほぼ決まっている。



《1》、過去に因縁がある登場人物たちが、1ヵ所に集められる。(屋敷や船、列車など様々)

《2》、殺人事件が起こる。

《3》、探偵が現れて、尋問や調査をする。

《4》、手掛かりから探偵が推理する。

《5》、登場人物たちが、皆、集められて謎解きがされる。






大体、この骨格で探偵小説は成り立っているのだが、映像化するのに難しいのが、《3》と《4》である。





《3》の、名探偵が一人一人、容疑者に尋問するくだりは、映像化すれば、観ている者には、長々と退屈な場面に映ってしまうのだ。


《4》などの、手掛かりをもとに、名探偵が推理する場面など、頭を切り開いて脳の映像を見せるわけにもいかないし(当たり前だ)映像化は、ほぼ不可能に近い。



この難点を、監督のシドニー・ルメットは、どうクリアしたか?






《3》、決して退屈にならないように「有名な俳優たちのオールスター・キャスト」にしたのだ。



それまでは、考えられなかった有名な俳優人たちの集合。

ショーン・コネリー、

ヴァネッサ・レッドグレイヴ、

ジャクリーン・ビセット、

マイケル・ヨーク、

リチャード・ウィドマーク、

アンソニー・パーキンス、

ジョン・ギールグッド、

ローレン・バコール、

イングリッド・バーグマン……などなど。


次から次への、有名なスターたちの登場は、それだけでワクワクさせてくれて飽きさせない。






《4》、手掛かりをもとに推理する。    は、《5》の謎解きをする。  と合わせて、うまく見せることに成功している。




ポワロが、集められた容疑者たち相手に、謎解きを披露する場面では、その前に行った容疑者たちの尋問のシーンを、さりげなくはさみ、矛盾や問題点をポワロに言わせて、こういう風に推理する事に至ったというように説得力を持たせているのだ。(さすが、シドニー・ルメット監督!)






そして、ポワロ役のアルバート・フィニーも頑張っている。


177cmのフィニーは、原作のポワロに少しでも近づけるように、肩入れパッドやら腹周りにも色々な詰め物をして望んでいる。


口のなかにも綿を詰め込んで、首もすくめて、ものすごい努力でポワロになりきっている。

当時の実物のフィニーを観れば、その変わりように、ビックリすると思うのだ。






映画は、これらの工夫や努力で、原作フアンや原作者のクリスティーを初めて充分に納得させて、映画フアンにも受け入れられて大ヒットしたのだ。


この映画が、この後、次々作られるクリスティー映画や推理映画のお手本になった事は言うまでもないだろう。




だが、これを越える作品が今までに現れたかは、いささか疑問なのである。
(例に挙げるなら、特にひどい2017年版か…語る価値もさえもない!)

星☆☆☆☆☆です。


2018年12月17日月曜日

映画 「何がジェーンに起こったか?」

1962年 アメリカ。





1917年、『ジェーン・ハドソン』は、わずか6歳にして、ボードヴィルの舞台に立ち歌っていた。



その姿は、『ベイビー・ジェーン』とあだ名されるほど可愛らしく大人気。

金髪の巻き毛に大きなリボン、フリルがたくさんついたドレス姿で歌う様子は、皆を魅了した。


皆がジェーンを讃えてくれて、両親もなんでも言うことを聞いてくれる。

その人気は、ジェーンと等身大のそっくりな人形まで作られるほどだった。






だが、一人、面白くない人物がいた。


年の近いジェーンの姉、『ブランチ』である。



同じ子役でも、ブルーネットの髪をもつブランチには、誰も相手にせず、両親もジェーンばかりをチヤホヤしていた。


「この悔しさ死んでも忘れないわ!」


ブランチの子供時代は、世間から冷遇されて、ジェーンへの憎しみをたぎらせて、そんな風に過ぎていった。







1935年、時は過ぎ、ジェーンとブランチは、成人をすぎると映画界へと進んだ。



だが、ここで姉妹の立場は逆転した!




今度はブランチが、映画界で押しも押されぬトップスターとなったのだ。




逆にジェーンは、パッとしない端役を演じる日々。


だが、そんな姉妹を突然、悲劇が襲う。

自動車事故でブランチが、脊椎を痛め、下半身麻痺になってしまったのだ。


映画関係者の話では、泥酔したジェーンが運転していた為に、起こった事故なのではというが、……真相は分からずじまい。






――――  そして、時はかなり過ぎて、1960年代。




二人の姉妹も老境にさしかかり、車椅子に乗った『ブランチ』(ジョーン・クロフォード)、その世話を嫌々しながら過ごす『ジェーン』(ベティ・デイヴィス)は、閑散とした一軒家に、たった2人で暮らしていたのだった。



だが、次第に、酒に溺れ、昔の栄華を忘れられないジェーンは、少しずつ狂っていく。



ブランチに対しても、どんどん異常な行動が増えていき………。




監督は巨匠ロバート・アルドリッチ


そして、大女優ベティ・デイヴィスが起死回生、大復活した伝説の傑作である。


なんせ、このベティ・デイヴィスのお姿が、もの凄い!



これが、あの『イヴの総て』のベティ・デイヴィス?!



白塗りの化粧に、

真っ黒な濃いアイラインをひいて、

オバQのような口紅。



長い金髪を縦ロールにして、リボンをしたジェーンの姿は、まるで化け物か妖怪だろう。(失礼なんだけど……でも本人もそれを狙ってやってるんだから、「これぞ役者冥利につきる」ってところだろうか)



その老醜を晒した顔は、往年のフアンたちを驚かせ、一瞬で戦慄させたという。



こんな姿の『ジェーン』(ベティ・デイヴィス)が、車椅子の『ブランチ』(ジョーン・クロフォード)を、徹底的にいたぶり続けるのだから、また、もの凄いドキツイ話である。



ブランチの飼っている小鳥を殺して夕食に出したり、鼠を出したりと、やる事なす事えげつない。(ゲェー)



ジョーン・クロフォードが、追いつめられ恐怖する様も、またそれはそれで恐ろしいお顔なんだけど。(こっちも妖怪風。負けてない)




だが、この姉妹の愛憎劇には、最後に、どんでん返しがあり、(ここでは語るまい)観る印象を、すべて変えてしまうのである。





この映画はヒットした。(何がうけるか分からないのがハリウッドの常)





ヒットして、アカデミー賞にまでノミネートされた。


そして、主演女優賞には、怪演が認められたベティ・デイヴィスがノミネートされた。




これに腹をたてたのが、相手役のジョーン・クロフォード。(あらあら、映画では気弱そうなのに。でも実際のジョーン・クロフォードの性格は、その真逆なのである)



クロフォードは、ベティに受賞させないように反対活動まではじめてしまう。



映画では、ベティに苛められる役だが、このエピソードだけでも、このジョーン・クロフォードの気位の高い性格の一端がみえてくる。




結局、受賞は逃したんだけど。(この年は『奇跡の人』のアン・バンクラフトが受賞している)



監督のロバート・アルドリッチは、次回作の『ふるえて眠れ』も同じ、ベティ・デイヴィスとジョーン・クロフォードで撮ろうと計画していた。




だが、撮影が始まっても、当のクロフォードがこない。



先の事(ベティ・デイヴィスがアカデミー賞にノミネートされた事)を彼女は根にもち続けて、ヘソを曲げていたのである。



果ては、

「ベティ・デイヴィスに嫌がらせをされ続けた!」

とか、なんとか言いだして入院。長期に撮影をすっぽかし続けたのだった。(どうも嘘くさい入院にも思える)




困ったアルドリッチは、とうとう決断する。


それは配役変更。



ジョーン・クロフォードを降ろして、あの『不意打ち』のオリヴィア・デ・ハヴィランドを起用したのだ。(映画「不意打ち」はヒットしなかったが、ここで熱演が認められたのだ、おめでとう)



クロフォードは、これに、またもや憤慨(キィーッ!)、大激怒したそうな。



「病院のラジオで交代を知った」とか「9時間も泣き続けた」とか、言ったとかどうとか……。



ベティ・デイヴィスとアルドリッチを生涯、逆恨みし続けたという。




ベティ・デイヴィスとジョーン・クロフォードの生涯にわたる因縁。


もちろん、我の強さではベティ・デイヴィスもひけをとらないが、味方をするなら、私もアルドリッチ監督と同じように、ベティ・デイヴィス寄りかな。(撮影すっぽかしは、許せませんし)


「同じ女優なら、演技で勝負しなさいよ!」

なんて言ってのけるベティ・デイヴィスの声が聴こえてきそうである。


相撲なら、土俵に上がってこないクロフォードにグダグダ言ってのける権利なんて、はじめからないのだ。(撮影すっぽかしだし)



その後、ベティ・デイヴィスは、『ナイル殺人事件』や『八月の鯨』など晩年も亡くなるまで活躍し続けたが、ジョーン・クロフォードは、たいした作品にも恵まれず、どんどん衰退していく。



ジョーン・クロフォードは4回結婚して養子を5人もうけたが、養子の一人は戻され、養子の一人には、「虐待されて育てられた」という暴露本まで出版されてしまう。



ハリウッドという特殊な世界でも、やはり最後は性格の良さが、命運を決めるのだ!という事をこのエピソードは、教えてくれる。



演じる事に真摯で懸命な、ベティ・デイヴィスやオリヴィア・デ・ハヴィランドなどは、いくつもの色褪せない傑作を残した。



ジョーン・クロフォードには、この映画だけが色褪せず残された。(他にも色々出てるし、主演女優賞までとっているのだが、あまり現代ではパッとしないし、これ以外、全然聞いたこともない作品ばかり)



なんだか、この文章を書きながら、『Wの悲劇』の三田佳子のセリフが、頭の中にポン!と浮かんできた。


「女優!女優!女優!勝つか、負けるかよ!」(笑)



収拾がつかない結びでスミマセン。


星☆☆☆☆です。(この写真だけじゃ、本当に人の中身は分からないねぇ~、くわばら、くわばら………)

2018年12月16日日曜日

映画 「不意打ち」

1964年 アメリカ。






ロサンゼルスは暑い夏の週末、住宅街の前を何台もの車が通りすぎてゆく。



『コーネリア・ヒルヤード夫人』(オリヴィア・デ・ハヴィランド)の豪邸もそこに面して建っていた。


2階建ての豪邸には、いくつもの豪華な調度品が並び、飾られている。

金や銀の食器類をみれば、生活も豊かなのだろう。(株で儲かっているらしい)



そこに30歳になろうとする息子、『マルコム』との二人暮らし。

そんな息子を、ヒルヤード夫人は溺愛していた。



数ヵ月前に腰を痛めて、2階に上がる階段のそばには、特別製の鳥籠のような、格子の柵がついたエレべーターを利用しなければならなかったが……。



マルコムは、ベット脇の机で何やら手紙を書いている。


そこには、

「ぼくは、自殺します」


の文面が、チラホラ見え隠れしていた。



自分を溺愛し過ぎる母親の愛情に耐えかねての、遺書なのである。(何も自殺しなくてもいいのに)




そんな息子の気持ちにも気づかないヒルヤード夫人は、今日出発する息子の外出を、ただの呑気な旅行だと思っていた。


玄関までくると、にこやかな笑顔で送り出したのだった………。




そうして家に戻ったヒルヤード夫人。

あの鳥籠のエレべーターに乗り込み、2階に上がる為にスイッチを押す。



上昇していくエレベーターは、電気系統の故障で、突然、ストップしてしまった。


1階と2階の間の高さで止まったエレべーターの中で、しばし呆然とする夫人。


「そうだ!非常ベルを鳴らそう」

エレべーターに備え付けられたベルを何度も押す夫人。


家の外ではベルが、けたたましい音を鳴らしているが、誰も気に止める者すらいない。


公道を何台もの車が、走り抜けるだけだ。



そして、やっと叫びだした夫人。



「助けてー!誰か助けてー!」



大広間には、夫人の声だけが無情に響く。



鳥籠のエレべーターは3メートル以上の高さで止まったままだ。



「暑い……」真夏の午後の暑さが、エレべーターに閉じ込められた夫人を容赦なくいたぶる。


エアコンも止まってしまったのだ。(地獄だ)



「お願い……誰でもいいから…助けて…」



そこへ、アル中の浮浪者『ジョージ』が、ブラリとやってきた。


「お願い、助けて!」夫人の必死の呼びかけにもジョージは、無視して、邸内を物色しはじめる。

そして、太った厚化粧の娼婦、『セード』を、伴い連れてくると、二人は、豪華な衣装や調度品を盗もうと、屋敷中を、あら捜しをはじめた。


夫人の叫びなど聞こえず、夢中になって物色する二人。



そこへ、さらに街のチンピラたち3人が乗り込んできた。(どんだけ治安の悪い場所なんだろう)


ゴロツキで暴君の『ランドール』(ジェームズ・カーン)、ランドールの子分『エシー』、ランドールの女『イレイン』(薬物中毒なのか?)だ。


ランドールは、アル中のジョージと娼婦のセードを、あっという間に殴りつけ痛めつける。


屋敷には、二人の叫び声が響きわたった。


ヒルヤード夫人は、宙に浮いたエレべーターの中で、恐怖しながら、鳴り響く破壊や暴力の声を聞くだけなのだった………







なんて壮絶な映画なのだ。




1964年の、この半世紀以上前の映画を、自分は全く知らなかった。


『裸のジャングル』もしかり、町山智浩氏の『トラウマ映画館』で紹介されていて、いつか観てみたいと思い、やっと観ることが叶ったのだが………。



観た感想は、まさに「壮絶」の一言に尽きる!と思う。


誰も、主人公のヒルヤード夫人にさえも、救いがない。(なんとか自力で命は助かるが、息子の自殺は止められなかった)


それまで、オリヴィア・デ・ハヴィランドといえば、『風と共に去りぬ』などの貞淑なメラニーなどのイメージだったのだが、映画会社ワーナーとの契約を裁判に持ち込むほどに、彼女は、ありきたりのお嬢様役に飽き飽きしていた。


やりがいのある役、ただ情熱をこめられる役、「演技がやりたい」と願う時期だった。



この映画、『不意打ち』のコーネリア・ヒルヤード夫人の役は、最初にジョーン・クロフォードにオファーされた。


ベティ・ディヴィスとの共演、姉妹の愛憎劇、1962年の『何がジェーンに起こったのか?』が評判を呼び、アカデミー賞にノミネートされるほどで、クロフォードにも注目が集まり、その流れでこの『不意打ち』にオファーが、あったのだ。


だが、クロフォードは同じような役には食指が動かずオファーを蹴ってしまう。



そこへ、オリヴィア・デ・ハヴィランドが

「待ってました!」と名乗りをあげたのだ。



彼女は魂をこめられる役を探していたのである。




実際、この映画を観ても、オリヴィアの情熱はハンパない。


すでに、アカデミー賞を2つもとっている大女優がそこまでやるのか?!なのだ。


髪を振り乱し、暑さに耐え、叫び、ジェームズ・カーンにひきずりまわされる。


高さのあるエレべーターからの脱出、床を這いつくばりながらも、なりふり構わずに、助けを求める様子は、まさに鬼気迫る演技だ。




だが、このオリヴィアの熱演をしてもこの映画は、当時、不評をかい失敗した。



監督のウォルター・グローマンは干され、映画は酷評されて封印される。



早すぎたのだ!



1960年代、ヒッチコックの『サイコ』が大ヒットし、それを追うように次々と、残酷なサスペンス映画が作られるが、ことごとく失敗している。



観客は《恐怖》は求めても、まだまだ、倫理や美徳を重んじる時代。

どぎつい殺人シーンなどには、目を背ける時代だったのだ。



ヒッチコックは、そこを理解していて、『サイコ』でも直接的な殺害シーンを見せていない。

多数のカット割りや盛り上げる音楽だけで、観客には、想像させている。




『不意打ち』は、それをそのまま、観客に見せているのだ。



アル中のジョージに、頭からスッポリ、袋を被せて殴り倒すシーン、

ゴロツキ3人組が、風呂場でエシーの頭を浴槽に押さえつけて、それをイレインやランドールが、からかうシーン、

窮鼠猫を噛むごとく、ランドールの目を突き刺すヒルヤード夫人、


最後に、ランドールが車に頭を轢かれるシーンなどなど、モノクロ映画とはいえ、どれを観ても、ショッキングである。



これを、1960年代の、当時の観客たちが、到底受け入れられなかったのは無理もない話なのだ。



同じように、『赤い靴』、『黒水仙』の有名な監督、マイケル・パウエルも、1960年に『血を吸うカメラ』なんていうドギツイ映画を撮り、酷評されて、それ以降、まったく映画を撮れなくなってしまっている。



これらの映画が、封印されて、再評価されるには、何十年もの時間が必要であり、待たなければならなかったのだ。




そして、近年、やっと我々の目にお目見えできた。


嬉しいことだし、まだまだ、こんな風に埋もれている作品が、数多くあると思うと、早く陽の目をみてほしいと思うものである。




あと、蛇足ではあるが、これがジェームズ・カーンのデビュー作なのだ。



若い!

若いし、暴漢を演じていてもチョー、ハンサムである。



西部劇の主役や、ヒッチコックのサスペンス映画の主役などに選ばれていれば、さぞや人気者になっただろうに……。


だが、彼が、世間的に名前を売るにも、まだまだ、時間がかかるのである。(1972年の『ゴッド・ファーザー』まで)



またまた、脱線しましたが、映画は星☆☆☆☆です。

それにしても、エレベーターが突然ストップすると本当に怖いねぇ~。(自身の体験あり)

2018年12月11日火曜日

映画 「料理長殿(シェフ)、ご用心」

1978年 アメリカ、イタリア、フランス、西ドイツ合作。






ロンドンのグルメ雑誌を主催し、自他共にグルメ評論家を名乗る『マックス』(ロバート・モーレイ)は、極度の肥満(おデブさん)だった。


これまで、世界中の珍味や美味しい食べ物を食べ尽くしてきたので、当たり前といや当たり前のお姿なのだが。


それでもマックスは変わらず。

料理に関して一切の妥協を許さず、一流といわれるシェフたちの料理だけを愛して、堪能する日々を送り続けていた。



だが、そのツケは、いつかまわってくるのだ ……



ある日、医者から、

「痩せなければ、これ以上、命の保障はできないよ!」

と宣告され、ダイエットするように言い渡される。(自業自得)




そんな時、ロンドンに一人の女性がやってきた。



マックスが主催する王室晩餐会が開かれ、そこで振る舞われる料理の為に、有名なデザートシェフ、『ナターシャ』(ジャクリーン・ビセット)が呼ばれたのだ。



そんなナターシャを、先回りして待ち伏せしていた者がいる。


元夫の『ロビー』(ジョージ・シーガル)。


自分が立ち上げたオムレツチェーンを、ヨーロッパ中に広げる為に勧誘しにきたのだ。(それと、あわよくば、なんとかナターシャと、よりを戻したい)



だが、ロビーは、けんもほろろ。(全然懲りずに、この後も、何度もナターシャの前に現れるが)


ナターシャは、厚かましいロビーを袖にすると、目的の場所、料理会場のバッキンガム宮殿に向かった。





バッキンガム宮殿の厨房では、晩餐会の為に集められた、さまざまな国の料理人たちで、ごった返している。


まさに、戦争。てんやわんやだ。



そんな中で、鳩料理のエキスパート、『ルイ』(ジャン=ピエール・カッセル)と『オーギュスト・グランヴィリエ』(ジャン・ロシュフォール)が、些細な事からケンカになり、料理を投げ合う場面もあったりなんかする。(どんな厨房だ!)



そんな、すったもんだがあったのだが、なんとか王室晩餐会は成功して、無事終了。



特に、ルイの鳩の包み焼きの料理と、ナターシャの作ったデザートのボンブ・グラッセ(爆弾の異名をもつアイスクリーム)は、女王陛下から、お褒めの言葉をもらい大絶賛された。





舞い上がった二人は、意気投合!


その夜は、そのままベットで、食事をしながら、そのまま《イン!》した。(あらら)




次の日の朝、ナターシャは、ベットで、昨日の余韻にひたりながら、幸せそうな笑顔で、まどろんでいる。


そこへ、ほんのりと漂う良い香り。


「ルイが、朝御飯を作っているのかしら?」


匂いに誘われて厨房に行ってみると、火のついたオーブンの中で何かが焼かれている。



「キャアアーーッ!!」


大型オーブンの中では、あのルイが焼かれて死んでいたのだった。







豪華絢爛な料理と悪趣味な殺害方法のミステリー映画。


有名シェフたちが次々と何者かに殺されていき、その殺され方が、そのシェフの得意料理を連想させるという、何だか手間のかかる殺害方法。


「犯人は誰か?」ってな感じで、ヒロイン、ナターシャ(ジャクリーン・ビセット)と元旦那のロビー(ジョージ・シーガル)が素人探偵ヨロシク事件に首を突っ込んでいく。


何だか二時間サスペンスで、よくある設定で、重くもなく、映画自体の味付けはコメディー・サスペンスってところかな?



そして、一応、その手の映画として、最後に真犯人の自白があるのだが、この映画はここで最大の(大チョンボ!)失敗をしている。




この《真犯人》が自供しても、だいぶ設定上無理があるのだ。


ゆえに、謎解きミステリー映画としては及第点をあげられない。(※多少のネタバレになるが、この犯人では体力的にも絶対に不可能とだけ言っておきます)





豪華な出演者たちだけは、よかったです。



ジャクリーン・ビセット………この方、『オリエント急行殺人事件』や『ブリット』に出てました。

どことなく由美かおるにも似てます。

キュートな美人さんで、私、この人目当てで、この映画を観賞しました。



ジョージ・シーガル………映画『ジェット・ローラー・コースター』などに出演。

面の皮が厚い、調子のよすぎる男の役が多くて、それが得意なのか、それとも地なのか………(ちと苦手なタイプかも)



ジャン=ピエール・カッセル ………『オリエント急行殺人事件』の車掌さん。

この映画では、全裸に裸エプロンで、即殺されてしまう。(なんて、あられもない姿)


あの有名なヴァンサン・カッセルは、この人の息子である。




ジャン・ロシュフォール………『タンデム』『髪結いの亭主』『タンゴ』などパトリス・ルコント作品常連。


この映画では、マックスの選ぶ《世界4大料理人》に選ばれずに始終イライラしていて不満をもて余す。




フィリップ・ノワレ………いわずとしれた名作『ニュー・シネマ・パラダイス』の映写技師役で有名。


4大料理人に選ばれて殺されてしまう。(完全にトホホ…な役である)



ジジ・ブロイエッティ………『SEX発電』なんて、とんでもないキワモノ映画に出演。(逆に観てみたい)


監督や俳優、声優もこなす多彩な方である。

映画では、事件の捜査にたずさわる飄々としたラヴェロ刑事役。




そして、音楽はヘンリー・マンシーニ。『ピンクパンサー』『ティファニーで朝食を』で有名。




監督は、テッド・コッチェフ

後年、あの『ランボー』の監督をするので、これまた有名である。



まぁ、これだけ各有名人たちが携わっているのも珍しいし、一見の価値はあるかな?


料理のきらびやかさと、美しいジャクリーン・ビセットのお姿にウットリするのもいいかも。


まぁ、ムズカシイ事考えずに、お気楽に観れる一編である。


星☆☆☆。

2018年12月10日月曜日

映画 「ホーム・アローン 1 & 2」

1990年、1992年 アメリカ。






その昔、クリスマス映画といえば『三十四丁目の奇蹟』や『素晴らしき哉、人生』などが定番だった。(それも随分古いが…)



そこに、この『ホーム・アローン』が現れた!



映画は大ヒットして、クリスマスといえば『ホーム・アローン』という風に、とって変わった。



それ以降もクリスマス映画はつくられてはいるものの、この映画を越えるものは中々出てこない気がする。




それくらい主人公役のマコーレー・カルキンが残した印象は、当時凄かったのだ。




金髪で天使のような可愛らしさに、イタズラ小僧の悪ガキさが同居しているのだから、誰もが微笑まずにはいられない。

最大最強の魔性。



無名のカルキン少年(当時10~11歳くらいか?)は、これ一作で瞬く間にスターダムに昇りつめる。




話のあらすじをここで、クドクドと書くのは野暮だろうと思うので、簡単に……




《1》は、家族と親戚たちが旅行に行くために、前日に家に集まるが、停電で目覚まし時計が止まり、慌てて出発すると、末っ子の『ケヴィン』(マコーレー・カルキン)が、一人だけ取り残されてしまう。




そして、コソ泥コンビ。


短気で金歯の小柄な中年『ハリー』(ジョー・ペシ)、

呑気なノッポの、モジャモジャ頭に髭の『マーヴ』(ダニエル・スターン)相手に、子供ながらの知恵やイタズラのアイデアで戦うというもの。




《2》では、おいてけぼりにされずに、飛行機に乗りこんだまでは良かったが、家族とは別の飛行機に間違って乗ってしまい、一人ニューヨークに来てしまう。



そこでも、やはり(なんの因果か)例のこそ泥コンビと遭遇してしまい、孤軍奮闘戦うのである。








この、こそ泥コンビが最高におかしくて笑わせてくれる。



ケヴィンの仕掛けたトラップに面白いようにひっかかって、その都度、その都度、見事なリアクションをしてくれるんだから拍手喝采だ!




そして、どんなに悲惨な目にあっても、まるで不死身の二人。



バーナーで頭を焼かれようが、階段を落とされようが、何メートルもある落とし穴に落ちようが決して骨も折らないし絶対に死なない。(ある意味、この二人の方が凄い!(笑))



流血もしないのだから、安心(安心なのか?)して観ていられるのだ。




ほんとなら、何度死んでいる事か(笑)。



それでも悪態をつきながらハリーもマーヴも、やられてもやられても、再び這い上がるのである。(何度も書くけど凄いです、この二人)



だからこそ、ケヴィンもイタズラを繰り返す事ができるのだ。





とにもかくにも、クリスマスといえば、この映画が今でも風物詩。


しばらくは、この『ホーム・アローン』が、その王座を明け渡す様子はないようである。


星☆☆☆☆☆。

2018年12月7日金曜日

映画 「銀河鉄道999 THE GALAXY EXPRESS 999」

1979年 日本アニメ。









「機械の身体になれば永遠に生きられる!」


機械の身体を求めて、遥か遠い星アンドロメダまで、銀河超特急999号に乗り込んだ少年『星野鉄郎』と、謎の美女『メーテル』の物語。



チョー有名な物語にグダグダとあらすじを書くのも野暮というものだろう。(とにかく観てない人は一度は観てほしい)




この映画は当時大ヒットした。




1979年度の邦画配収第1位に輝き、アニメ映画としては史上初の快挙である。



主題歌を歌うゴダイゴの曲は120万枚を売り上げた。(ベストテンでは、ずっと1位だった)



映画館には長蛇の列が並び(観に行きました)映画のパンフレットも山のように売れまくった。(当然買いました)




時代は、まさに松本零士ブーム一色だったのだ。




星野鉄郎には、今も現役バリバリの野沢雅子(奇跡の少年ボイス声優)


メーテルには、池田昌子(お蝶夫人、オードリー・へプバーンなどの気品ある高貴ボイス。今の声優界でこんな気高い声を出せる人がいるのかな?)




車掌さんは肝付兼太(スネ夫、など藤子不二雄作品最多声優)


そして、女王プロメシュームには、来宮良子(稀代の迫力ある悪女ボイス声優)


などなど ……と、声優陣たちも素晴らしかった。




銀河系の宇宙を走りぬけていく蒸気機関車、この絵の情景だけでも美しく強烈なインパクトを残す。



そして、各惑星の停車駅で鉄郎が体験する様々な人々との出会いや別れ。


「機械の人間になって絶対に長生きする!」という出発前の鉄郎の決意は、そんな人々に影響されて徐々に変わっていく。


「限りある命だからこそ、人の命は尊いものなのだ」


というものに ……… (どっかの少年犯罪を犯す輩たちは、全員、コレを観ればよろしい)





それを優柔不断というなかれ。


人は人との出会いで変わり、変化して成長していくのは当たり前のことなのだ。(自分もあの頃に比べてすっかり変わりました)





一緒に旅するメーテルは、そんな鉄郎の道先案内人であり、人生の先輩であり、時には優しく包みこむ母親役や恋人になるなど大きな役割を果たす。



だからこそ、メーテルは、誰もが憧れ続ける理想の女性なのだ。






だが、「こんな女性が現実に存在するのか?」と思うが、それがいるのだ!




1955年に、フランスでつくられた映画『わが青春のマリアンヌ』そこに出演する女優、マリアンヌ・ホルト





松本零士が憧れて、この方がメーテルのモデルになったのは有名な話である。(他にも女優の八千草薫なんて説もあるが)



成る程、スナップ写真を見るとメーテルの面影と、どこか重なるところがある。


憂いおびた切れ長の瞳や、スーッと伸びた鼻、シャープな輪郭などなど。



映画のタイトルだけは知っているが、この映画をいつか機会があれば観てみたいと思う。




映画は、もちろん星☆☆☆☆☆。


あ~、自分も列車に乗って銀河の果てを旅してみたいなぁ~。(もちろん、メーテルのような美女と一緒にね(笑))