1948年 アメリカ。
アルフレッド・ヒッチコックの初めてのカラー映画であり………失敗作。
ごめんなさい、ハッキリ言っておくけど、この映画は失敗作だ。
ヒッチコックが好きな人も、何とか、この映画を、少しでもフォローしたりしている批評を、時々みかける事があるが、あんまり慰めにもなっていない気がする。
映画のカット割りを止めて、今まで誰もやった事のない、「完全にワン・カットで映画を撮ってみよう!」と、実験したかっただけ。
それに固執したばかりに、この映画は失敗したのだった。(アラアラ、やっちまったなぁ~ヒッチコックも)
映画の神様も、時に迷走してしまう。
映画の長さは、正味80分くらいなのだし、それくらい我慢すれば、観れない事もないのだけど………それでも観続けるには、相当疲れるし、忍耐が必要だ。
カット割りが全く無くて、ワン・カットの長まわしの映画が、こんなに辛いとは……何でだろ?
若い時に、さっぱり、分からなかった理由が、最近になって徐々に分かってきたので、自分なりの、その《理由》を書いてみようと思う。
カット割りがない映画を、小説や文章に置き換えてみればいい。
カット割りがない映画は、文章を改行もしないで、余白もなく、延々、箇条書きにしているようなものだ。
小説でも、ブログでも、隅から隅まで、ビッシリと、埋め尽くされいるのを見れば、誰だって、一目でパス。
「ゲゲッ!」なんて、思いがするはずである。
「ゲゲッ!」なんて、思いがするはずである。
これは人の《 脳 》に関係しているんじゃないのか?
文章でも、映像でも、それを見ようとする時、私たちの《 脳 》は、無意識に、それを記憶しながら、整理しようとする。
《 脳 》の中にある、いくつもの《 箱 》である。
映画を観る時、1回のカット割りで切られた場面を、ひとつの脳の《 箱 》につめると、また別の《 箱 》に、記憶としてつめていく。
二時間の映画を観終われば、脳の中には、キチンと、いくつもの記憶の《 箱 》が積み重ねられて、均等に整理されているのだ。
そうして、時間が経つと、その《 箱 》は、空気が抜けたように圧縮されて、《 思い出 》へと変わっていくのである。(そうしないと、脳みそはパンパンに膨れ上がり、破裂してしまう)
これは、小説を読む時でも同じである。
改行や、次に読み進む間の余白は、目で、それを追いながらも、それを利用しては、脳の中でキチンと整理されているのだ。
今さらながら、人間の《 脳 》は、良く出来てると、ほとほと感心してしまう。
で、ここまで読んでくだされば、後は、お察しがつくと思う。
カット割りがない、ワン・カットの、この『ロープ』が、何でこんなに観るのに疲れるのか。
カット割りが無いと、目から入ってくる情報を、上手く《線引き》する事が難しいのだ。
そうして、それを処理し、記憶の《 箱 》に整理する事が、より難しくなってくる。
そうなると、脳の中の、ひとつの《 箱 》に、詰め込むかぎり詰め込むしかない。
80分間、全神経を画面に集中させて。
80分間、全神経を画面に集中させて。
もう、観終わるとグッタリ。
場面を追い続ける目も、瞬きを許さないので、脳と一緒で、もう、クタクタ。
ゆえに、「疲れる~」のである。
映画は、理由なき殺人を犯した『ブランドン』(ジョン・ドール)と『フィリップ』(ファーリー・グレンジャー)が、遺体をしまいこんだ箱に、テーブル・クロスを敷いて、グラスを並べて、大胆にも、客人たちを招いて、盛大にパーティーをするという、とんでもない内容。
「自分たちは優れた人間で、単に劣った人間を始末しただけ。完全犯罪も優れた人間なら簡単にできる!それを証明する為に、ただ殺してみただけ」という、これまた、とんでもない殺人理由である。(これ、驚くなかれ!実話ですって)
それを暴くのが、この奇妙なパーティーに招かれた大学教授の『ルパート』(ジェームズ・スチュワート)。
名探偵のごとく、二人の完全犯罪を暴いていくのである。
内容的には、充分面白いんだけどねぇ~ ……………。(でも、この『ワン・カット』手法がねぇ~、つくづく残念)
この映画、オススメした方がいいのかな?
私が、ここにツラツラ書いてみた事が、観た人には、必ず分かってもらえると思う。(既に観ている人は同意してくれるんじゃないかな?)
やっぱり、観てない人は観た方がいいかも。
何事も経験という事で。
何かの話の種にもなるしね。