1955年 フランス。
男ひとりに、妻と愛人……。
この三角関係は、古来から続いていて、男と女がいれば逃れようもない、これから先も続いていく永遠のテーマのようなものだ。
そして、この関係図で、真っ先に思い出させるのが、この『悪魔のような女』である。
名作『恐怖の報酬』のアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の、もう1つの傑作。
病弱で気弱な『クリスティーナ』(ヴェラ・クルーゾー)は夫の『ミシェル』(ポール・ムーリス)と共に、パリの郊外で寄宿制の小学校を経営していた。
大勢の生徒や教師たちがいる学校では、こんなクリスティーナに采配なんてのが務まるはずもなく………
代わって夫のポールが実権を握り、校長としてふんぞり返っている。
そんな、ミシェルに逆らう者などなく、常にやりたい放題の日々。
育ち盛りの生徒たちに出される給食なんてのは、ミシェルのドケチ根性丸出しで質素なモノばかりである。
(可哀想に……ちゃんとした食事をさせてあげたいわ)
クリスティーナが、こんな風に思い意見でも言うものなら、ミシェルの荒々しい言葉が逆に返ってくる。
「贅沢な!何でも食え!飲み込め!食べられるはずだ!!」
腐りかけた魚でも無理強いして、食べさせる始末。(ゲゲーッ!)
そんなミシェルは、妻がいながらも同じ小学校の教師『ニコル』(シモーヌ・シニョレ)を、隠しもしないで、堂々と愛人にして囲っていた。
「どうしたの?」
サングラスをかけているニコルを、たまたま見かけたクリスティーナは、ふと話しかけた。
サングラスを外すと、そこには青く殴られた痣が。
夫のミシェルにやられたのだと言う。
もはや、二人は我慢の限界。
妻と愛人の二人は、結託してミシェルの殺害を考えはじめた。
そうして計画を開始した二人。
二人は旅行に行くと言って小学校を出ると、ニコルの自宅にミシェルを電話で誘いだす事にした。
「離婚したいのよ、ミシェル!!」
電話のクリスティーナの言葉に、慌ててやってきたミシェル。
そして、ニコルの自宅に呼び込むと、二人は、言葉たくみに騙して、飲み物の中に入れた睡眠薬を、コッソリ飲ませた。
「どうやら眠ったようよ」
「今のうちよ」
女二人は、ミシェルを担ぐと、やっとこさ風呂場の浴槽に運んで沈めた。
「死ね!この!死ね!!」なんて言いながら暴れるミシェルを浴槽の水の中に押さえつける二人。(なんちゅー殺し方じゃ!)
やがて、ミシェルはおとなしくなり、完全に水の中でブクブクと沈んでいく。
「さぁ、今度はコイツを運ぶのよ!」
ニコルの怒声が、気弱で放心状態のクリスティーナを急き立てる。
その後、二人は遺体をくるんで車を走らせると、何と、自分たちの小学校の使っていないプールに、ドボン!と放り投げたのだ。(まぁ、難儀な事を!でも雑な遺体の後始末)
でも、次の日から、学校に戻ってきたニコルとクリスティーナは、旦那を沈めたプールが気になってしょうがない。
プールの水は、底さえも覗けないくらい淀んでいて汚れている。
水面には、落ち葉や枯れ木が、ユラユラと動いているだけ。
それを、暇さえあれば、校舎の窓から、ずっと見ているクリスティーナ。
(あの水底にミシェルがいる……冷たい水の奥深くに………私たちを恨んでいるかしら?………本当にこれでよかったのかしら?)
時に罪悪感で押し潰されそうになるクリスティーナ。
そんなクリスティーナをニコルは叱咤する。
「しっかりするのよ!何も証拠はないんだから!!」
だが、そんなクリスティーナの前に、死んだはずの夫、ミシェルの痕跡のようなモノが次々と現れ出した。
「あの窓ガラスに校長先生がいたよ!」
ある日、生徒のひとりがミシェルを見かけたという。
(ウソ?!ミシェルは……彼は死んだはずよ!……)
怯えだすクリスティーナ。
(夫は確かに死んでいるはずだ!)
(プールの底に遺体はあるのだから……それとも蘇生して再び生き返っているの?)
グルグルと考えをめぐらせ始めるクリスティーナの周りでは、さらに奇怪な現象があらわれだすのだった………。
グルグルと考えをめぐらせ始めるクリスティーナの周りでは、さらに奇怪な現象があらわれだすのだった………。
この後は、「これでもか!、これでもか!」っていうほど、ホラー映画のような展開がどんどん続いていって、すっかり憔悴していくクリスティーナ。
そうして、最後の最後に、大どんでん返しが待ち構えている。
映画公開時には、「決して結末を教えないでください」なんて、うたい文句まであったくらいで、初めて観た人は、それなりにビックリする事だろう。
自分も、この映画を初めて観た時は、感心した。(かの有名なヒッチコックは素直に大感動したらしいが)
「ホォー」なんて言葉も出たくらいだ。
でも、……
映画を観ながらも、頭の隅にず~っと違和感のように思う事が、チラホラあったのも事実で……。
それは、
『妻と愛人が結託なんてするのかねぇ~』という、ごくごく自然な違和感だ。
どんなに酷い事をしている夫でも、妻が最初に憎むべき対象になるのは《 不倫相手の女性 》。
不倫相手の女性も、また逆で、憎むのは《 妻 》なのである。
《女の敵は女》とはよく言ったものである。
そんな、妻と愛人が結託してまで殺人をするのかねぇ~?
こんな風に考えると、気弱なクリスティーナが、夫にも、ニコルの提案にも逆らえないのは百歩譲って理解できても、一番理解できないのは《愛人ニコルの行動》である。
ニコルなんて、校長のミシェルが嫌なら、さっさと学校を去ればいいだけの話。
無理に殺す必要なんかないのだ。
ましてや、妻と共謀して殺人に加担する必要もない。
愛人のニコルには、そこまでするようなメリットは、全くもって何もないのだ。
でも、クリスティーナに協力するという事は……… 《何か裏があるんじゃないのか?》
普通なら誰でも、こんな風に推理するはずである。
と、ここまで書くと、勘の良い人なら結末を話さなくても、おのずと、このカラクリがどういうものなのか、想像がつくだろうと思うのだが……どうだろう?
そして、『悪魔のような女』が誰の事を指すのか、お分かりになるはずである。
ただ、この映画では、観るべきところは、そんな《どんでん返し》だけじゃない気がする。
それが、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の優れた演出方法。
プールの水や、浴槽に張る水なんかには、「ヌメェ~」、「ドヨ~ン」とした感じが、妙に伝わってきて、この人の映画ならではの怖さを感じてしまうのだ。(リメイクには全然、こんな怖さを感じなかった)
やっぱり、そういう見せ方ひとつでも、他の監督たちとは、まるで違うと思っている。
どんな汎用な話でも、名監督の手にかかれば、傑作になり得るんじゃないのか?
そんな風に思わせてしまう『悪魔のような女』の一編なのでございました。
星☆☆☆☆。