1988年 アメリカ。
第1作、第2作と、順序だてて観てきた『ランボー』。
そして、3作目が、とうとう、この『ランボー 怒りのアフガン』である。
20数年ぶりの視聴。
果たして、今の自分の目で観ると、評価は変わるのだろうか?
あのベトナムでの救出作戦から数年後……『ジョン・ランボー』(シルベスター・スタローン)はタイにいた。
タイの寺院作りを手伝いながら、たまに、ちょこっと小遣い稼ぎのファイト・バトル。
そんなランボーに、はるばる『トラウトマン大佐』(リチャード・クレンナ)とアメリカ国防省の『グリッグス』(カートウッド・スミス)が訪ねてやってきた。
「力を貸してくれ!ランボー!」(それみたことか!困った時のランボー頼みよ)
だが、ランボーの返事は、キッパリ!
「お断りします」。(当たり前だ。前回は恩赦の為だったが、今更、戦う必要もないランボーなのだから。)
「どうしてもダメなのか?ランボー!」(愛しいトラウトマン大佐の願いに、キッパリ返事をしたものの、少し揺れ動くランボーの心)
ランボーの返事に二人は、黙って引き揚げていった。
トラウトマン大佐は、アフガニスタンへ向けて、極秘任務の為に自ら出発していく。
だが、数日後、またもやグリッグスが一人、ランボーの前に現れた。
「トラウトマン大佐が、ソ連軍に捕まってしまった!」
拉致されたトラウトマン大佐に、もはや動揺を隠せないランボー。
だが、すぐに、
「やりますよ!当然、助け出す!」(大切なトラウトマン大佐ですもんね)
アメリカ軍は、この救出作戦を表だって支援できない、と言うグリッグスに、
「毎度の事です。慣れてますから……」と、素っ気ないランボー。
まずはパキスタンの北部の村に向かったランボーは、道案内役の村人を訪ねるのだが…………。
数年ぶりに観た、『ランボー 怒りのアフガン』。
残念ながら、前2作とは格段におちる出来栄えでした。(やはり昔、自分が感じたものは間違っていなかった)
これしかランボーを観ていなければ、ここで挫折するのも、仕方のない事だと、今更ながら、自分で納得してしまった次第である。
第1作目では、テッド・コッチェフ監督が、ベトナム戦争が終わっても、決して癒す事のできない、ランボーの深い悲しみや心の傷跡を、見事に描いてみせた。
第2作目では、そのランボーが、自身のトラウマともいうべきものを乗り越えて、ベトナムでの心残りや、『リベンジ』を果す為のものだった。
アクションを交えながらも、さすが!脚本にジェームズ・キャメロンが参加しているだけあって見事な出来栄え。(この2作は共に傑作である)
で、再び、3作目を作ろうとした時、シルベスター・スタローンもスタッフたちも、ずいぶん頭を悩ませたと思うのである。
ランボーの闘いは、この前2作で、きちんと完結しているのだ。
そのランボーを、もう一度、闘いの戦場に引っ張っていくには、それ相応の『理由』がなければならないからだ。(いくらランボーでも好きこのんで、いそいそと戦場に出向くものですか)
それには、素人でも、誰もが考え付く、安易な方法があるにはあるのだが、この方法は、まさに禁じ手。
手っ取り早いといえば手っ取り早い。
でも、スタローンもスタッフたちも、この方法に、安易に飛び付いた。
《トラウトマン大佐を利用する》事である。
トラウトマン大佐を利用すれば、ランボーを、もう一度、戦場に引っ張っていける!
ランボーが、慕い、尊敬し、父親のように思っている唯一無二の存在がトラウトマン大佐。
この流れならば、自然にランボーが戦場に、再び赴くのも可能なのだが………それは百歩譲って良しとしても、如何せん、この映画は脚本がダメダメである。
この映画の冒頭、タイにランボーを、同行させようと、誘いにくるトラウトマン大佐に一気に冷めてしまったのだ。
いくらランボーが有能でも、すでに引退した身。
それを自ら担ぎ出さそうとして、いそいそと出掛けて来るなんて、ランボーが尊敬するトラウトマン大佐の所業とは、とてもいえない違和感である。
軍人としての誇りやプライドは何処へ?トラウトマン大佐?
むしろ、グリッグスがランボーに依頼しようとしても、逆に反対する立場なら、どれだけトラウトマン大佐の株も上がっただろう、と思うのだ。
そして、ランボーには一言も言わずに前線に赴いていき、捕虜として捕まった後で、グリッグスからランボーに「トラウトマン大佐がソ連軍に拉致されている」と知らされる方が、はるかに効果的ではなかっただろうか?
そんな部下想いのトラウトマン大佐であれば、観ている人たちは、納得してランボーのあらたな決意にも共感するはずなのだ。
こんな不満はまだまだ続く。
パキスタンからアフガニスタンに赴いたランボーは、すぐにはトラウトマン大佐を探そうとはせずに、現地の村人たちと、何を考えているのやら?、呑気に構えて、たわむれ始めるのだ。
村人たちと馬にまたがって、村のスポーツを楽しむランボー。(あんたいったい何しにここへ来たのか分かってるの? このあたりで、どんどんイライラしてくる自分)
「こんなのよりはフット・ボールの方が好きだ」
こんな台詞を悠長に吐いているランボーには、全く以前のような緊張感や危機感は感じられない。
まるで人格そのものが、すっかり変わってしまったかのようである。
そんな村人たちと遊んでいるランボーの元へ、上空から、一斉に攻撃してくるソ連のヘリが迫ってくる。
村人たちは、その攻撃の銃弾に次々倒れ、殺されていく。
「畜生!」馬にまたがって、逃げ惑うランボー。(「あんたが呑気にノホホ~ンと構えていたからでしょうが!」と、もう観ながら突っ込まずにはいられない)
そんな間も、トラウトマン大佐は、ソ連の『ザイセン大佐』に、監禁されて、縛られて、吊るされて拷問されまくっている。(それにしても、こんな老齢のトラウトマン大佐が前線に駆り出されるなんて、………アメリカ国防省には、もっとマシな人材はいないのかねぇ~?)
もちろん、この後は、ソ連の基地に潜入して、お約束の救出劇もあるのだけど………なんだかなぁ~、足手まといの少年兵までノコノコやってきて。(コイツいらねぇ~(笑))
1回目の救出は、大暴れしただけで、見事に大失敗。(でもトラウトマン大佐は、なぜか?ソ連軍に殺されてません)
2度目はランボーが単独で潜入すると、あっさりトラウトマン大佐は救出される。(ソ連軍が徹底的に、アホなのかしらん? (笑) )
ランボーとトラウトマンの二人に振り回されっぱなし。
秘密基地も簡単に破壊されてしまって、もう散々である。
秘密基地も簡単に破壊されてしまって、もう散々である。
まるでランボーとトラウトマン大佐は、楽しく二人して、アトラクション・ゲームでもしているように見えてくる。
ド派手なアクション、銃弾の嵐などもあるにはあるのだけど……これも意味のない無駄玉を大量に撃っているような感じである。
こんな『怒りのアフガン』でも、ランボーの絶叫はやっぱり健在。
「ウォオォォォーーーーッ!!」
(この映画で、こんなに叫ぶ必要あるのかねぇ~ (笑) )
当時、この映画を映画館に観に行って「ナンだ?コリャ?」と思った感想は、やっぱり数十年経っても同じでございました。
こんな自分の感想と同じように同調する人たちがいたのかどうか、………当時の興行収入は、前作『怒りの脱出』の半分にまで落ち込んだという。
そして、「待っていました!」とばかりに、またもやラジー賞である。(こればかりは、擁護しようがないかも)
2003年にリチャード・クレンナが膵臓(すいぞう)癌で亡くなり、これが最後の出演でした。(脚本が良ければ、いい花道を飾れたのにね)
でも、これはこれでいいのかなぁ~
最後に大好きなトラウトマン大佐と一緒に闘えたのだから。
ランボーとトラウトマン大佐の珍道中映画。
大負けに負けて、星☆☆☆としときますかね。
※それにしても、この時期のスタローン、いい身体してますなぁ~(男でも惚れ惚れしますね)