1918年〜1996年(没)
今さらながら、ジャッキー・チェンの『スネーキーモンキー 蛇拳』や『ドランクモンキー 酔拳』に、ドハマりしている私は、それらについて、ちょっとだけ調べたくなってしまった。
そうしたら、この人の名前にぶち当たってしまう。
ロー・ウェイ監督 ……
知ってる人は知っている、中国や香港では有名なお方。
自分で立ち上げたプロダクションを持っていて、あの、ブルース・リーの『ドラゴン危機一発』や『ドラゴン怒りの鉄拳』を監督して、大ヒットさせた人である。
このロー・ウェイ監督の事が、どこを探して見ても 悪評だらけ なのだ。
とにかく、あちこちでクソミソ言われている。(笑)
『ドラゴン危機一発』と『ドラゴン怒りの鉄拳』は、なるほど …… 世界的に大ヒットした。
だが、ブルース・リーは最後まで、このロー・ウェイ監督とは険悪ムードだったらしい。(ブルース・リーの方が一方的に嫌っていたそうな)
その後、残念にも、若くして亡くなってしまったブルース・リー。
それでも、このロー・ウェイ監督、ひるむ事なく、こんな風に豪語しております。
「ブルース・リーは、ワシが育てて《スター》にしてやったんだ! こうなったら《第ニのブルース・リー》を見つけて、また大スターにしてやる!!」と …… (どっからそんな自信が …… )
そんなこんなで、遠いオーストラリアから連れて来られた若いジャッキー・チェン。
「コイツを《第ニのブルース・リー》にするんだ!」
ロー・ウェイのプロダクションで、ロー・ウェイによって作られた映画は、まんま、ブルース・リー映画の続編となるような感じの『レッド・ドラゴン 新・怒りの鉄拳』なのでした。(イヤ〜な予感 … )
………… ハイ!案の定、コケてしまいました。(笑)
その後も、ロー・ウェイ監督によって作られたジャッキー映画は、いくつもいくつも、コケて、コケて、コケまくり。
しまいには、赤字続きで、プロダクションは経営状態も相当苦しくなってくる。(あらら)
こんなロー・ウェイ監督、反省するどころか、
「アイツは、全く使いものにならないダメな奴だ!」
と、まるで映画がヒットしないのは、ジャッキーのせいかのように、言いまくっていたそうな。(なんかブルース・リーが毛嫌いするのも段々と分かってきた(笑))
そんなロー・ウェイ監督の下で我慢してきたジャッキーに、ある日、救いの手が差し伸べられる。
「おたくの《ジャッキー・チェン》という俳優を貸してもらえないだろうか? 是非ともジャッキー主演で撮りたい映画があるんだ!」
ジャッキーにこんな誘いが、別のプロダクションから舞い込んできたのだ。
つまり、俳優を別のプロダクションに《貸し出す》→《レンタルする》のである。
条件としては、《映画を年内(1978年)に二本撮らせてくれないか?》と《貸し出し料は六万ドルで》だったが、ロー・ウェイ監督としては(ラッキー!)ってなもんで、渡りに舟。
もうこの頃には、すっかりジャッキーへの期待も、興味も薄れてきていた時だったのだ。
(あんな奴を使っても、ろくな映画にならないだろうさ …… むしろ、こっちは厄介払いも出来るし、金まで入ってくるんだから一挙両得じゃないか …… これで清々する!)てな感じで即、OK!
こうして(ダチョウ倶楽部のギャグじゃないけど「どうぞ!、どうぞ!」てな具合で)、若きユエン・ウーピン監督の元に預けられたジャッキー・チェン。
ユエン・ウーピン監督は、武術の達人ユエン・シャオティエンが父親なので、もちろん、自身も幼い頃から武術の心得があった人。
「こうした方がいい!」なんてやり方を、決してゴリ押しばかりにならず、ジャッキーと上手く話し合いながら、現場の撮影を進めていく。
こうして撮影された『スネーキーモンキー 蛇拳』は、ジャッキーの魅力を存分に引き出して、瞬く間に 大ヒットした!
あ、そうそう …… 一方で、 ロー・ウェイが、ゴリ押しで監督した『拳精』と『龍拳』は興行的にも大惨敗している。(ダメだ、コイツ(笑))