①では、同じ歌手でも、『演じるように歌う人』と『自己演出しながら歌う人』の2タイプがいる事や、それぞれの違いを書いてみた。
私が、たまにこのblogでも取り上げる山口百恵。
その後に出てきて、同じような雰囲気を醸し出す中森明菜。
『山口百恵』と『中森明菜』……
似ているように見えても、この二人はまるで違う。
ここでは、①で書いた事を引き合いにして、両者の違いを明確に書いておこうと思う。(オッ、なんか真面目だぞ)
山口百恵は、歌の世界に登場してくる女性に自身を投影させて、《演じながら歌う人》の側である。
これは私が勝手に思ってるんじゃなくて、本人がそう書いてるし、言ってもいることだ。
自著『蒼い時 …』の中の1文で、『愛の嵐』って曲を与えられて、いざ、歌う事になった時、その曲の中の女性に対して、あれやこれや、自分なりに考察しているというくだりがある。
歌詞は、
付き合っている彼氏に、(今は幸せでも、この先、もしかしたら ……)と、いずれ現れるかもしれない《女性》の姿に、今からヤキモキして勝手に嫉妬しているという、なんとも心配性な女性の歌である。
最後には「心の貧しい女だわ、あ〜私 ……」と自嘲して終わる。
これに、「分からなくもないな ……」と、歌詞の中の女性に同調する百恵ちゃん。
そこから、自分の中に取り込み、一旦咀嚼(そしゃく)して、「どう演じようか?」と思案したり、葛藤する様が、まざまざと書かれている。(この本、そんな曲に対する考え方が分かったりして、中々面白いよ)
引退コンサートでは、ハッキリと本人の口から名言している。
「今まで、色々なタイプの女性を歌ってきました(演じてきました)」と。
もう、決定的!
彼女は、「《歌う》事は、お芝居を《演じる》事と同じ」だと、完全に捉えていたのだ。
これは美空ひばりと同じ考え方。
山口百恵は、美空ひばりの系譜を引き継ぐ者なのである。
だからこそ、彼女は歌だけではなく、数々のドラマや映画でも成果を残せたのだ。
かの有名な、石井ふく子プロデューサーまで唸らせて、オファーまでされて。
「彼女には、ちゃんとした演技力がある(石井ふく子)」は、最大級の褒め言葉じゃないだろうか。
一方、中森明菜は《自己演出しながら歌う人》である。
これも本人が、ちゃんとテレビで語っていた。
NHKの『songs』で、ステージ衣装を探すために、外国の店を一軒一軒ハシゴする明菜。
帽子にしても、靴一足買うにしても、決して妥協して気軽に選ばない。
自分が納得するモノに出会えるまでは、どこまでも探してまわるのだ。
ステージ上で
「自分をどんな風に表現したいか?」明菜の頭を駆け巡るのは、その一点だけ。
そんな明菜にリポーターは、
「まるでプロデューサー的な考え方ですね」と言うと、
「そうですね、私、《プロデューサー》ですね」と、笑いながら答えるのだ。
《自己プロデュース》…… これも、ある種《自己演出》の考え方である。
でも、どうしてこうなっていったのか。
80年代に入ると、歌手たちが歌う歌詞も様変わりしてくる。
とにかく《インパクト重視》。
印象的な背景描写、印象的な小物、印象的なフレーズ、それらを寄せ集めた、やや散文的な歌詞ばかりが求められるようになってくるのだ。
阿木燿子が、山口百恵に提供してきた歌詞《女性の複雑な内面》みたいなモノは、全く皆無になってくる。
そうなると《歌の世界の女性像》を演じるのは困難になってくるのだ。
そんな中で、次々と世に出てくるアイドルや歌手たち。
競争相手がひしめいている芸能界で生き残るには、なんとかしなければならない。
明菜が声を挙げる!
「この衣装はイヤ」だと。
(この曲の振り付けも自分で考えよう!それに、この曲に合うのはきっとこんな衣装だ!こんな髪形だ!)
実行しはじめる《自己演出》。
(他の歌手たちに勝つためには、自分で声をあげて、自分で工夫していくしかない!)
本能的な危機感が、ますます《自己演出力》を高めていく。
しまいには会議にまで出席するようになる。
そうして、会議でも全面的に明菜の意見が通るようになってくる。
大の大人たちは何も言えずじまいだ。(だって彼女の意見やセンスが、その成果を充分出しているのだから、もはや逆らえる者などいないのだ)
こうして、自身の《自己演出力》で成功をおさめてきた中森明菜。
だが、こんな明菜がとうとうドラマに出る日がやってくるのだ。
例のトラブルで古巣の研音から出て、歌う事がままならなかった時期、彼女にドラマのオファーが舞い込んでくる。
それが安田成美とのW主演『素顔のままで』。
「あの『中森明菜』が連続ドラマで初主演?!」
話題性は抜群で、誰もが期待していた。
かくいう自分も第1回目の放送は、テレビの前で鎮座して待ち構えていた。
でも、なんだか、このドラマは少し様子がおかしいぞ ………
明菜はセリフをキチンと覚えて、ドラマの中で笑って、怒って、泣いて …… 色々な表情を見せようとしているのだが ……
なぜだか、一人だけ浮いているように見えるのだ!
(何なんだろう?この違和感は …… )
ドラマを最後まで観ていても、結局、訳のわからない《違和感》は拭えなかったし、その理由も当時は分からなかったが、今なら分かる。
彼女は、得意の《自己演出》だけでドラマを乗り切ろうとしていたのだ!
分かりやすく書くなら、安田成美や他の共演者たちが、等身大で役を演じても、常に《平熱》をキープしているとする。
明菜だけが、過剰な《自己演出》で表現しようとすれば、ずっと《高熱》のままなのだ。
そこには、他の共演者たちとの微妙な《温度差》が生まれてしまう。
この《温度差》こそが、当時感じていた《違和感》の正体なのである。
でも、人間は千差万別。
色々な種類の人間がいて、それぞれ性格も違えば生きてきた環境も違う。
話し方のスピードや声の大きさ、会話のキャッチボールも違っているのは当たり前のこと。
それでも、いざお芝居ともなると、そのままではダメなのだ。
ドラマでも映画でも、皆が同じ《枠内》に収まらないといけないのだから。
こんなのを本業の俳優さんや女優さんたちは、どうしてるかというと ……
ドラマの空き時間や休憩中にお喋りをしたり、友達になったりして、お互いに素を見せ合いながら、手探りで、その相手との《温度差》を縮めようと努力するのだ。
一見、たいした事のないように思えるが、コレが一番大事な事で、本番でも相手との《距離感》、《空気感》を計る手がかりになる。
まさに、お芝居は《皆んなで創り上げていくモノ》とは、よく言ったものである。
こんなのを明菜が知っていただろうか。
多分、休憩時間も台本片手に一人で、
「次のシーンは、どう表現しようか?」
《自己演出プラン》ばかりを模索していたのかも。
とにかく、このドラマは、当時の月9としては、まぁまぁの視聴率を稼ぎ出したものの、私は少々不安になった。
(ちょっと、ドラマの方は無理なんじゃないか?止めておいた方がいいんじゃないの …… )と。
そんな自分の不安をよそに、それ以後もドラマに出演し続けるのだが、その予感が的中するように、彼女の主演ドラマはドンドンと失速していく ……(あ〜、やっぱりね)
因果なものである。
歌の世界で高めた《自己演出力》が、お芝居では仇(あだ)となるのだから。
つくづく不器用な人なのかも、中森明菜って人は。(松田聖子もこれに分類される。お芝居は下手クソでダメだ)
①でも書いたことが、ここでも活きてくる。
『自己演出力を極めた者は、お芝居には向かない』
今後、中森明菜や松田聖子がドラマや映画に出る事は、まず無いだろう。
『自己演出力』が主流になった現代、他のアーティストと呼ばれている人たちも、またしかりだ。
似ているようでも非なる者、『山口百恵』と『中森明菜』の違い、どうだっただろうか?
異論もあるだろうが、案外、自分の考察、的を得てるんじゃないのかな?
※尚、これには少なからず例外もいる。
歌は『自己演出』、お芝居は『演じる』事だと、完全に割り切って考えてるような、小器用な者たちも存在するのだ。
そんなのが薬師丸ひろ子だったり、斉藤由貴だったりする。
二人ともポワワ〜ン🏵️とした空気感を漂わせていても、中身はどうして ……
《小器用さ》と《したたかさ》を充分に持っていて、芸能界を渡り歩く術に長けてらっしゃるのだ。
人は見た目じゃわからない。
怖いね~女性は(笑)
《おしまい》