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2022年2月2日水曜日

よもやま話 「『演じるという事』と『自己演出』についての考察 ② 」

 



①では、同じ歌手でも、『演じるように歌う人』と『自己演出しながら歌う人』の2タイプがいる事や、それぞれの違いを書いてみた。



私が、たまにこのblogでも取り上げる山口百恵


その後に出てきて、同じような雰囲気を醸し出す中森明菜



山口百恵』と『中森明菜』……

似ているように見えても、この二人はまるで違う。


ここでは、①で書いた事を引き合いにして、両者の違いを明確に書いておこうと思う。(オッ、なんか真面目だぞ)




山口百恵は、歌の世界に登場してくる女性に自身を投影させて、《演じながら歌う人》の側である。


これは私が勝手に思ってるんじゃなくて、本人がそう書いてるし、言ってもいることだ。


自著『蒼い時 …』の中の1文で、『愛の嵐』って曲を与えられて、いざ、歌う事になった時、その曲の中の女性に対して、あれやこれや、自分なりに考察しているというくだりがある。


歌詞は、

付き合っている彼氏に、(今は幸せでも、この先、もしかしたら ……)と、いずれ現れるかもしれない《女性》の姿に、今からヤキモキして勝手に嫉妬しているという、なんとも心配性な女性の歌である。


最後には「心の貧しい女だわ、あ〜私 ……」と自嘲して終わる。



これに、「分からなくもないな ……」と、歌詞の中の女性に同調する百恵ちゃん。


そこから、自分の中に取り込み、一旦咀嚼(そしゃく)して、「どう演じようか?」と思案したり、葛藤する様が、まざまざと書かれている。(この本、そんな曲に対する考え方が分かったりして、中々面白いよ)



引退コンサートでは、ハッキリと本人の口から名言している。


「今まで、色々なタイプの女性を歌ってきました(演じてきました)」と。


もう、決定的!


彼女は、「《歌う》事は、お芝居を《演じる》事と同じ」だと、完全に捉えていたのだ。


これは美空ひばりと同じ考え方。

山口百恵は、美空ひばりの系譜を引き継ぐ者なのである。


だからこそ、彼女は歌だけではなく、数々のドラマや映画でも成果を残せたのだ。


かの有名な、石井ふく子プロデューサーまで唸らせて、オファーまでされて。


「彼女には、ちゃんとした演技力がある(石井ふく子)」は、最大級の褒め言葉じゃないだろうか。




一方、中森明菜は《自己演出しながら歌う人》である。



これも本人が、ちゃんとテレビで語っていた。


NHKの『songs』で、ステージ衣装を探すために、外国の店を一軒一軒ハシゴする明菜。


帽子にしても、靴一足買うにしても、決して妥協して気軽に選ばない。

自分が納得するモノに出会えるまでは、どこまでも探してまわるのだ。


ステージ上で

「自分をどんな風に表現したいか?」明菜の頭を駆け巡るのは、その一点だけ。


そんな明菜にリポーターは、

「まるでプロデューサー的な考え方ですね」と言うと、

「そうですね、私、《プロデューサー》ですね」と、笑いながら答えるのだ。


《自己プロデュース》…… これも、ある種《自己演出》の考え方である。



でも、どうしてこうなっていったのか。



80年代に入ると、歌手たちが歌う歌詞も様変わりしてくる。


とにかく《インパクト重視》。


印象的な背景描写、印象的な小物、印象的なフレーズ、それらを寄せ集めた、やや散文的な歌詞ばかりが求められるようになってくるのだ。


阿木燿子が、山口百恵に提供してきた歌詞《女性の複雑な内面》みたいなモノは、全く皆無になってくる。


そうなると《歌の世界の女性像》を演じるのは困難になってくるのだ。



そんな中で、次々と世に出てくるアイドルや歌手たち。


競争相手がひしめいている芸能界で生き残るには、なんとかしなければならない。


明菜が声を挙げる!

「この衣装はイヤ」だと。

(この曲の振り付けも自分で考えよう!それに、この曲に合うのはきっとこんな衣装だ!こんな髪形だ!)


実行しはじめる《自己演出》。


(他の歌手たちに勝つためには、自分で声をあげて、自分で工夫していくしかない!)


本能的な危機感が、ますます《自己演出力》を高めていく。


しまいには会議にまで出席するようになる。


そうして、会議でも全面的に明菜の意見が通るようになってくる。


大の大人たちは何も言えずじまいだ。(だって彼女の意見やセンスが、その成果を充分出しているのだから、もはや逆らえる者などいないのだ)



こうして、自身の《自己演出力》で成功をおさめてきた中森明菜



だが、こんな明菜がとうとうドラマに出る日がやってくるのだ。


例のトラブルで古巣の研音から出て、歌う事がままならなかった時期、彼女にドラマのオファーが舞い込んでくる。


それが安田成美とのW主演『素顔のままで』。




「あの『中森明菜』が連続ドラマで初主演?!」


話題性は抜群で、誰もが期待していた。

かくいう自分も第1回目の放送は、テレビの前で鎮座して待ち構えていた。



でも、なんだか、このドラマは少し様子がおかしいぞ ………


明菜はセリフをキチンと覚えて、ドラマの中で笑って、怒って、泣いて …… 色々な表情を見せようとしているのだが ……


なぜだか、一人だけ浮いているように見えるのだ!


(何なんだろう?この違和感は …… )


ドラマを最後まで観ていても、結局、訳のわからない《違和感》は拭えなかったし、その理由も当時は分からなかったが、今なら分かる。



彼女は、得意の《自己演出》だけでドラマを乗り切ろうとしていたのだ!



分かりやすく書くなら、安田成美や他の共演者たちが、等身大で役を演じても、常に《平熱》をキープしているとする。


明菜だけが、過剰な《自己演出》で表現しようとすれば、ずっと《高熱》のままなのだ。



そこには、他の共演者たちとの微妙な《温度差》が生まれてしまう。


この《温度差》こそが、当時感じていた《違和感》の正体なのである。



でも、人間は千差万別。


色々な種類の人間がいて、それぞれ性格も違えば生きてきた環境も違う。

話し方のスピードや声の大きさ、会話のキャッチボールも違っているのは当たり前のこと。



それでも、いざお芝居ともなると、そのままではダメなのだ。


ドラマでも映画でも、皆が同じ《枠内》に収まらないといけないのだから。



こんなのを本業の俳優さんや女優さんたちは、どうしてるかというと ……


ドラマの空き時間や休憩中にお喋りをしたり、友達になったりして、お互いに素を見せ合いながら、手探りで、その相手との《温度差》を縮めようと努力するのだ。


一見、たいした事のないように思えるが、コレが一番大事な事で、本番でも相手との《距離感》、《空気感》を計る手がかりになる。


まさに、お芝居は《皆んなで創り上げていくモノ》とは、よく言ったものである。



こんなのを明菜が知っていただろうか。 



多分、休憩時間も台本片手に一人で、

「次のシーンは、どう表現しようか?」

《自己演出プラン》ばかりを模索していたのかも。



とにかく、このドラマは、当時の月9としては、まぁまぁの視聴率を稼ぎ出したものの、私は少々不安になった。


(ちょっと、ドラマの方は無理なんじゃないか?止めておいた方がいいんじゃないの …… )と。


そんな自分の不安をよそに、それ以後もドラマに出演し続けるのだが、その予感が的中するように、彼女の主演ドラマはドンドンと失速していく ……(あ〜、やっぱりね)



因果なものである。


歌の世界で高めた《自己演出力》が、お芝居では仇(あだ)となるのだから。



つくづく不器用な人なのかも、中森明菜って人は。(松田聖子もこれに分類される。お芝居は下手クソでダメだ)




①でも書いたことが、ここでも活きてくる。


自己演出力を極めた者は、お芝居には向かない



今後、中森明菜や松田聖子がドラマや映画に出る事は、まず無いだろう。

『自己演出力』が主流になった現代、他のアーティストと呼ばれている人たちも、またしかりだ。



似ているようでも非なる者、『山口百恵』と『中森明菜』の違い、どうだっただろうか?


異論もあるだろうが、案外、自分の考察、的を得てるんじゃないのかな?



※尚、これには少なからず例外もいる。


歌は『自己演出』、お芝居は『演じる』事だと、完全に割り切って考えてるような、小器用な者たちも存在するのだ。



そんなのが薬師丸ひろ子だったり、斉藤由貴だったりする。


二人ともポワワ〜ン🏵️とした空気感を漂わせていても、中身はどうして ……

《小器用さ》と《したたかさ》を充分に持っていて、芸能界を渡り歩く術に長けてらっしゃるのだ。



人は見た目じゃわからない。

怖いね~女性は(笑)


《おしまい》