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2024年6月20日木曜日

よもやま話 「暗黙の序列」

 



たぶん、私のヘンテコなブログを読んでいる方は、とっくに気づいてると思うが、私、最近のテレビや映画をほとんど観なくなってしまった。

LGBTQやコンプライアンスなどへの配慮で、表現の自由は制限されて、がんじがらめ。

要するに、つまらなくなったのだ。


だが、そんな私でも最近のニュースは、時折、耳に入ってくる。


セクシー田中さん事件』。

『セクシー田中さん』という漫画がドラマ化されたのだが、原作者がその出来に全く納得せず、ドラマの最終2話を自らのりだし、脚本を手掛けるという緊急事態となった。

だが、仕上がった放送を観ては、さらに絶望して【命を絶つ】という、2024年最初を賑わす事件である。


この漫画は連載中だったらしい。(完結してない漫画をドラマ化するのも、どうなんだろう?)

私自体、漫画やドラマを実際に観ていないので、なんとも言えないが、ドラマを手掛けた女流脚本家は相当ネットで叩かれていた。


でも、こんなのは今に始まった話ではない。


漫画家や小説家の作品が、テレビでアニメ化や実写化されたり、映画化されたりする度に、オリジナルとの差異に苦しんだり、どう折り合いをつけていくのかは、昔からあった事である。


大昔、まだテレビや漫画が無かった時代に、最初に出来た序列は【映画>小説】であった。


横溝正史金田一耕助なんてのは、映画化すればパリッとしたスーツ姿に無断改変されて、何本も映画が作られていく始末。(原作のような袴姿の石坂浩二が出てくるのは、ずっと後である)

推理よりも、変装したり銃をぶっ放したり、何でもアリである。(今じゃ考えられない話だが)


松本清張の小説だって同じようなもの。

主要人物を男から女に変えられたり、登場人物を削られたり足されたりしてる。

映画になれば、そこは無法地帯。もう、やりたい放題なのだ。


公然とこう言っていた輩もいたくらいである。

「退屈な小説を映画にしてやるんだから、《有り難く思え!》」と。(←どんだけ上から目線なんだか)


改変するにしても、原作者に、ちゃんと了承してもらいに出向いていくなんてのは、稀中(まれちゅう)の稀。

長い間、《映画》=《王様》の時代が続いてゆく。


その後、《テレビ》が入ってきても、《漫画》という媒体が入ってきても、《映画》の絶対的地位は揺るがず。

いつの間にか、昭和の終わり頃には、【映画>テレビ>漫画>小説】という、暗黙の序列が完成してしまうのである。(やっぱり《小説》が、ここでも四番手だ)


と、ここで、前回書いてみた泡坂妻夫先生の『乱れからくり』を例にしてみる。

この『乱れからくり』は、ドラマ版(1982年)より先がけて、1979年に映画化されている。



上の写真を見ても分かるように、主演は松田優作

この映画化が、前回べた褒めしてたドラマ版の真逆をいくような仕上がり具合。


ハッキリ言えば、最悪の原作無視映画 に、なっているのだ。


ドラマ版であった《隕石落下シーン》は映画ではカット。(依頼人 『馬割朋浩』の死は凡庸な《交通事故死》に変えられている)

【ねじ屋敷】の《巨大迷路》もカット。(どうも予算の都合らしいが)


それらは、まだ良いにしても《交通事故死》した『朋浩』(沖雅也)が後半、再び突然出てくる展開にはビックリ業天する。(こんなのは原作にもない。死んだのは《影武者》だったとかに改変されているのだ)


オマケに、原作が推理小説にもかかわらず、この映画は決してやってはいけないような、何よりのタブーを犯している。


真犯人を別人に変えられているのだ!

これには開いた口が塞がらない。


生前、松田優作も「あの映画は思い出したくもない …… 」とか、言ってとかどうとか。


でも近年、小説を知らない人たちや松田優作フアンには、「そこそこ楽しめました」の評価。(人の受け止め方は、本当に十人十色だ)

観るかどうかは人それぞれにお任せしときます。



こんな変な慣習は、当然アニメ界にも存在していて、かの宮崎駿なんかは、まるで当たり前のように振る舞っている。


セカンド・シーズン『ルパン三世』の最終2話分『死の翼アルバトロス』、『さらば愛しのルパン』、劇場版『ルパン三世 カリオストロの城』を、自分好みにキャラクター・デザイン、脚本、演出まで、全て変えてしまい、原作から遠く離れてしまったルパンを堂々完成させてしまったのは有名な話。


今でこそ、これらの評価は高いが『カリオストロの城』なんかが劇場公開された当時は、悪評の嵐でございました。


「こんなのは本当のルパンじゃない!」と。(まぁ、分かるよ。漫画のルパンを読んでる人には真逆に映っただろうよ)

お陰で、映画は 大赤字 を叩きだしてしまい、宮崎駿は当分の間、業界からも干されてしまう。


この評価がガラリと変わったのは、何度かのテレビ放映や、ジブリを立ち上げてからの後の発展があったからこそ。(こんなに評価が180℃変わるなんて …… 世の中分からないねぇ~)


それでも、その後も宮崎駿の暴走は止まらず。

ある日、少女漫画『耳をすませば』を読んでいた宮崎駿は、(いい年したオッサンが少女漫画?)結末が間違っている!!と勝手に大激怒する。


キャラクターの趣味を《絵画》から《バイオリン》に変えて、ストーリーも結末も変えた、勝手な『耳をすませば』の映画にしてしまう。(原作者の柊あおいが、ジブリ作品のフアンだったので大事には至らなかったが …… どう見てもこれは暴挙だろう)


これらの例を見ても、分かるように「《映像》こそ一番のエンタメで、何をしても許されるのだ!」と思っている輩は、けっこう多いのである。


これは日本だけに限った事じゃなく、海外でも同じようなものだ。


あのアガサ・クリスティーなんか、生前幾多の映画が作られても、ポワロやミス・マープルものに及第点を与えなかった。(生前最後に観た、あの『オリエント急行殺人事件』のアルバート・フィニーのポワロにさえだ)


そうして、こういう小説と映画の溝をパロディーとして描いたテレビドラマも存在するくらいである。


それが、あの有名な海外ドラマ『ジェシカおばさんの事件簿』だ。(原題:Murder,She Wrote)



ある日、ジェシカの小説が映画化される事になった。

だが、撮影現場に行くと、原作には無いような墓場のセットが作られていて、今からここで主演の若い男女が真っ裸で《SEXする》というのだ!(ゲゲッ)


「私、こんなポルノまがいの小説なんて書いてない!こんな映画化なんて断固止めさせなきゃ!」


だが、プロデューサーの見せた契約書には、ジェシカの合意のサインが。

「あたし、なんてモノにサインしちゃったのかしら」と、ジェシカは慌てふためく。

でも、そのうち、本物の殺人が起きてしまい、無事(?)ジェシカの小説は撮影中止となるのである。


このドラマを観た時、私、膝をたたいた。

これを書いた脚本家、こういう業界の裏事情を、ちゃんと理解しているわ!


でも、こんなのが誇張でもなく、今まで現実として行われてきたのは、紛れもない事実なのだ。


だが、近年、この暗黙の序列も変わりつつある。


それが《インターネット》の普及によって。


最初に書いたように、『セクシー田中さん』の脚本家みたいに、原作者の意に沿わないような改変でもするものならネット上で総叩きになる。(この脚本家は名前を変えてでも復活するかしら?まぁ、無理だろうな~)


今や、この序列は《インターネット》を全監視役にして、【インターネット>(映画>テレビ>漫画>小説)】と、こんな具合になっているだろうか。


でも …… これも良し悪しの気が。


なんだか、誰も彼もがビクビク怖れて、何もかもが《小粒》というか《安全牌》にばかり走っているような気がしてきたのだ。


《小説》は、不景気や物価高、若者のゲーム依存諸々で、全く読まれなくなり売れなくもなってしまった。


あれだけあった本屋さんも簡単に潰れていく時代である。(政府は分かっているのかねぇ~、本屋が潰れるような国は、それだけ民度が低い国になっていくということを)


小説を読む者がいなくなれば新進の小説家など育つはずもない。(ベストセラーって言葉も聞かれなくなった)


《漫画》は、一本当たれば、それを出版社が延々と続けさせる。(100巻を超える漫画も今じゃザラ。誰が全巻揃えるのか(笑))


《テレビアニメ》は、昔のリメイクものばかり。

《テレビドラマ》は、漫画のドラマ化ばかり。(オリジナルの脚本なんてのは、滅多に書かせてもらえません)


そうして《映画》は、《テレビ》の映画化か、続編につぐ続編ばかりである …… (あぁ、書き出しながらイヤになってくる)


最近のモノにアンテナこそ張ってはいても、あまり観なくなってきたのは当然のような気がする。(同じような人は大勢いるはず)



結局、行き着くところは、今の政治が悪いからって事なのか?(反旗の声は高まってきてますが)


そんな中で少しだけ見えてきた一筋の光。(地方選挙で自民党惨敗中)


それまで私は一人、負のループから抜け出して、タイムマシンで時をさかのぼってみます。

80年代、70年代、60年代と …… なんなら100年前までと。


だいぶ映画やテレビについて厳しく書いたが、それでも砂山のような中からも、まだまだ私が見つけていないような砂金(良品)が見つかるかもしれないので。


おしまい。