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2019年9月21日土曜日

映画 「疑惑の影」

1943年 アメリカ。






『チャールズ・オークリー』(ジョセフ・コットン)は自宅のアパートのベッドで、虚空を見つめながら寝ていた。


何を考えているのか………しばらくするとチャールズは起きあがって、窓辺に立つと、こっそりカーテン越しに、外の通りを覗いてみた。


通りの角には男が二人立っている。



「何も証拠はないはずだ……」



チャールズがアパートを出てくると、早速、その後ろを、さっきの二人組が尾行しはじめる。





チャールズは角を曲がると、いきなり走りだした。


尾行していた二人も追いかけるが、どこにも姿がない。

アッサリ尾行を撒いてしまったのだった。






そして、電話ボックスに行くチャールズ。


「あ~、電報局ですか?電報を頼みます。カリフォルニア州サンタローザに。『皆に会いたくなった。木曜には着く。姪のチャーリーへ、叔父のチャーリーからキスを』と。」


チャールズはそれだけ言うと受話器を切った。






一方、カリフォルニア州サンタローザのニュートン家。



ジョセフ・ニュートンは穏和な性格で、真面目な銀行勤め。

エマは、そんな夫を支える献身的な妻である。


どこにでもある中流家庭。(当時としては上流と言ってもいいか)




そんな夫妻には3人子供たちがいる。


次女のアンは眼鏡をかけた本の虫で片っ端から1日中、本ばかりを読み漁っている変わり者。(10歳くらい)

長男のロジャー(7歳くらい?)は家から薬局まで何歩で歩けるか?どうでもいい事に夢中。(これも少々変わっている)



そしてもう一人………。


長女の『チャーリー』(テレサ・ライト)は2階の自分の部屋のベッドで、昼間からゴロゴロしていた。




思春期のチャーリーには、毎日繰り返される日常が退屈でしょうがない。



「そうだわ!電報を打とう!チャーリー叔父さんに!」



母親エマの一番下の末っ子で、ハンサムなチャーリー叔父さん。

私と同じ名前の叔父さん。




(彼が来れば、こんな陰鬱な気分も吹き飛ばしてくれるにちがいないわ……)


思いついたチャーリーは、両親の制止を降りきって、近くの電報局に走っていった。





「ちょうど良かったわ。チャーリー、お宅に電報が届いているのよ。チャーリー叔父さんって方から。木曜にこちらに来るって。」


受付係の言葉に、しばしポカ~ン顔のチャーリー。



(以心伝心? それともテレパシーなの? こんな風に遠く離れていても心が通じるなんて……。)



ウキウキ顔で電報局を出たチャーリー。

自然に歩きながらも笑みがもれる。





そして木曜日、家族が待ち構える中、チャーリー叔父を乗せた列車がやってきた。



モクモクと黒い煙りを吐く列車は、昼間なのに、あたりの空を暗く覆い隠すほどで、何か不吉の前兆にも見えたのだった………。





叔父の《チャーリー》と姪の《チャーリー》、二人は徹底的に対極な位置にある。


ヒッチコックもそういう風に、わざと撮っている。




冒頭、ベッドに寝ているチャーリー叔父さん。



そして場面は変わって、自分の部屋のベッドで寝ている姪のチャーリー。

二人の行動はまるで同じである。




ただ、中身は《善と悪》、《陽と陰》に分かれている二人なのだが……。



未亡人を騙して、金を巻き上げ、ためらいなく殺してしまった『チャーリー叔父』(ジョセフ・コットン)。


しばしの隠れ家に選んだのが、サンタローザのニュートン家だったのだ。




だが、隠れ家として選んだニュートン家でチャーリー叔父は度々ドキッ!とする出来事に遭遇する。



それは姪の『チャーリー』(テレサ・ライト)の、何気ない一言や直感である。




「何だか頭の中で、ある曲が流れるの……そう、『メリー・ウィドウ』ってワルツの曲が……」



姪のチャーリーの言葉に叔父のチャーリーは、とても平静でいられない。(『ウィドウ』は『未亡人』の意味)




新聞に未亡人殺しの記事を見つけたチャーリー叔父は、咄嗟の機転でそれを誤魔化すが、姪のチャーリーは何かを感じとる。(このあたり、本当に霊感というか、テレパシーというか、二人の間にだけ存在する不思議な能力である)




そして、そんな姪のチャーリーが真相にたどり着くのに、そう時間はかからなかった。



(お母さんやお父さん、家族には話せないわ………どうすればいいの……)



姪のチャーリーの疑惑を、チャーリー叔父さんも逆に感づいたようだった。




(残念だが、口を塞がなくてはならない……)


ハンサムな姿に悪魔の心を宿したチャーリー叔父は、姪を事故死として片付けようとするのだが……。






この映画を観たのは、ヒッチコックの映画にハマりだして、だいぶ経ってからだった。



と、いうのも、この映画だけが、あのビデオ普及の時代にも、なかなかビデオ化されなかった為である。


ビデオ化されると即決で買い求めた記憶がある。(直ぐに、その後に、DVDやBlu-rayの時代が来ようとは誰が予測できただろう)




観てみて感心。

やはりこれも傑作だった。




テレサ・ライトが抜群に良い。


これは彼女の成長物語でもあるのだ。



普通の少女が、叔父の悪事を知ってしまい、誰にも相談できずに苦悩しながらも、ひとり、孤独な闘いに挑もうとする。


『少女』は、この事件をきっかけに急成長して、『大人の女性』になっていくのだ。
(この映画を観ると、『少女は大人になりましたぁ~♪』っていう、牧村三枝子の歌を思い出してしまう(古っ!))


人間の邪悪な暗い部分を覗いてしまった事が、大人になるって事なのかなぁ~。




映画のラストシーンで、チャーリー(テレサ・ライト)の顔は、少し成長した大人の女性になったような気がする。



この演じ分けは流石で、女優テレサ・ライトには、素直に魅了されてしまいました。





それと、もうひとつ感心したのが、映画の舞台となるサンタローザの町。



1943年といえば、第2次世界対戦中なのに、カリフォルニア州のサンタローザの街並みには、そんな気配すら微塵もないのにビックリ。

のどかで平和そうな時間が流れているのだ。




緑の木々が風に揺れて、広い庭付きの2階建ての家が、いくつも並んでいる。



車の行き来には、交差点の中央で警察官が手旗信号をしている。(信号機ないし、車もそれほど走ってない)


列車が到着する駅などは、ただ道の真ん中に線路が、ズドーンとあるだけで、ホームもなけりゃ、踏み切りも標識さえもない。(閑散としている)




そして男も女も、皆が格段にオシャレなのである。


男たちはパリッ!としたスーツに身を包んでいるし、チャーリー役のテレサ・ライトもモダンなワンピース姿である。


軍国主義に傾いていき、「贅沢は敵!」と言って、男も女も粗末な身なりをしていた当時の日本とは、どれだけの差があったのだろうか。





この1940年代の映画にふれる度に、つくづく思い知らされる、この違い。


戦争の暗い影すらも匂わせる事すらない。



そして、当時の戦争には全く関係なく、このような極上のサスペンス映画を普通に撮れる状況にも驚かされるし、この映画の存在も、今となっては、超貴重な財産。



星☆☆☆☆である。

※ジョセフ・コットン&テレサ・ライトのコンビで『the steel trap』なる映画が存在する。(1952)

観てみたいが、日本では全く無視されてる。(上映どころか、ビデオ化、DVD化、Blu-ray化もされていない)



どこかのメーカー様、出して頂けないでしょうかねぇ~、お願いします!(せめて生きている間に観てみたいものである)