ホーム

2021年3月28日日曜日

ドラマ 「燃えろアタック」

1979年~1980年(全71話)。




北海道の大自然で育った『小鹿ジュン』(荒木由美子)は、牧場を経営する父親、『幸太郎』(小林昭二)と二人暮らし。


物心ついた時から、母親の姿はなく、死んだものと聞かされていた。(家には母の写真すらない)

河川敷にある石像を、勝手に母親の墓だと決めて祈りを捧げるジュン。


そんなジュンを幸太郎は4歳の時からスパルタ教育で猛特訓してきた。


ひたすら馬にあおられての猛ダッシュ!


「走れ!走れ!!どこまでも走るんだー!!」(これ、今観ても凄い絵面である)


大草原の中を懸命に走るジュン。



お次は、高い木にぶら下げられたくす玉割り。


「それっ!それっ!」いくらジャンプしても届かないくす玉。


(父さんは何でこんな特訓を私にさせるのかしら……)

疑念に思いながらも、もはや日課になっていた特訓を、ジュンはひたすら続ける日々だった。



「このくす玉が割れた時、お前の新しい人生が開ける!」

幸太郎のこんな言葉に、ジュンは訳もわからずに従うのだが……



そして、ある日、とうとう、くす玉に手が届き、「パカッ!」と割れたくす玉からは、ヒラヒラと1枚の紙が、ジュンの手元へと落ちてきた。


紙に書かれていたのは、たった一言の文字……

《東京》


「父さん、これは……?」


その紙を持って父親に差し出すと、幸太郎は、

「転校手続きは済ませてある!お前は東京の《白富士学園》に転校するんだ!」

と言い放った。(ジュンでなくても、観てる方も、まるっきり訳が分からない)


「白富士学園?……」


「そこは母さんが通った学校だった」


「母さんの……?!」


(母さんの通った学校……もしかして、そこに行けば母さんの事が何か分かるかもしれない……)


そんな母への想いで、東京にいる叔父夫婦の家で世話になりながら、白富士学園への転校を承諾したジュン。



だが、東京に着くと待っていたのは白富士学園の教師でバレー部の顧問『速水大造』(小瀬格)だった。


「君の母さんは、この白富士学園ではバレー部のエース・アタッカーだった。小鹿ジュン君、君は今日からバレー部に入部するんだ!」


「私がバレー・ボールを……?!」


母親の手がかりを掴むために、せっかく東京に来たのに、まるで騙し討ちのように、ジュンは、あれよあれよという間に体育館に連れて来られた。(なんか、もうジュンの意志なんて関係なく、無理矢理バレー・ボールをさせる気満々の周囲の人々に、ちょっとドン引きする)


体育館では、大造の息子でバレー部のコーチである『速水大介』(南條豊)が、部員たち相手に鬼の特訓中。


そんな大介はジュンの姿を見るなり、


「君が噂の小鹿ジュンか……君は今日からバレー部員だ!俺のボールを受けてみろ!!」と、訳の分からないジュンにボールをぶつけて猛特訓を仕掛けてくるのだった………。



こんなのがスポ根ドラマ『燃えろアタック』の第1話である。


こうして、文章におこしてみると、本当に「何だコレ?」ってな感じで、クェスチョン・マーク???がズラズラ~と並んでしまう。


でも、映像で観ると、こんな違和感も吹き飛ぶほど、夢中になってしまうのだから、アラ!不思議なのだ。



なんせ、主役の荒木由美子さんが超可愛かった❤❤❤。


丸いオデコをのぞかせたロング・ヘアー。

耳打ちの両サイドをリボンで結んでいる。


ホリプロ所属で、歌では残念ながらヒットに恵まれなかった荒木由美子さんだったが、このドラマで大人気!


ドラマは大ヒットして、なんと!1年半のロングランで放送されたのだった。(今じゃ考えられない)



ドラマは、頑なにバレー部入部を拒否していたジュンの葛藤からはじまる。(当たり前だ。ジュンじゃなくても、こんな騙し討ちに東京に連れて来られて「さぁ、バレー・ボールをしろ!」なんて、そうそう納得できるものか)



そんなジュンを、速水大造と大介親子は、うま~く、《アメ》と《ムチ》を使ってバレー・ボールに引き込もうとする。



《大造》「これはお母さんがバレー部で使っていたシューズだ。君もこれを履いて頑張るんだ!」


《ジュン》「母さんが使っていたシューズ……」


母親の写真や持ち物すら、今まで見た事がなかったジュンは、手渡されたシューズを抱きしめて感無量。


「私、バレー部で頑張ります!」(ありゃ~、アッサリ。大造はニンマリ)



《大介》「走れ!飛べ!特訓だ!!」


《大造》「もし、今度の試合でレギュラーになれたら、君にお母さんの写真を見せてあげよう」


ジュンの母親への情愛をエサに、大造はこんな事を言い出すのだから、もう、ジュンも死にもの狂いで特訓に耐えて、レギュラーの座を獲得する。



そして、「さぁ、念願の母さんの写真だ」と大造からアルバムを渡されたジュン。


そこにあったのは、ネット上でスパイクを打つ瞬間を捕らえた、新聞の切り抜き写真。

白黒で粗い画像で、顔のボケた写真だが、初めて見る母親の写真に、ジュンは嬉しくて涙する。



こんな速水親子のマインド・コントロールにのせられて、ジュンはドンドン、バレー・ボールにのめり込んでいくのである。(なんか今更だけど、怖いドラマだね、これ (笑) )



やがて、バレー・ボールといえば《魔球》という展開はお約束か。



スクリュー・サーブやUFOサーブなんてのも飛び出してくる始末。(UFO?)


ジュンも「何か必殺技を考えなくては……」と焦りはじめてくる。



そんなジュンの前に、娘の危機を救うため、とうとう母親が現れた。(あら~母親生きていたのね)


ただ、母親とは名乗らず、名前を『小杉百合子(本名:小野民)』(河内桃子)として現れ出た母。


バレー・ボールのエキスパートとして百合子は、《必殺スパイク》をジュンに伝授する。


高いトスを上げると、空中に飛び上がり、突然、前方宙返り?をする百合子は、そのままボールを、コートに激しく叩きつけた。



それを見て呆気に取られるジュン。


百合子は近づくと、必殺技名を、

《ヒグマおとし》よ!」

と教えるのである。(ヒィーッ!!( ̄▽ ̄;))



《ヒグマおとし》を伝授されたジュンは、それからは水を得た魚のように大活躍!!



それからは、《ヒグマ返し》やら《Wヒグマおとし》のバリエーションが、次から次に出てくる始末。



そうして、ついに、最大級の必殺技がやってくる。



コマのように回転🌀したり、きりもみ回転🌀しながらスパイクを打つという、もはや人間ばなれした超必殺技。


《ハリケーン・アタック》

(これは見た目的にもどうなんだろうか? こんなに激しく回転する意味が、今観ても、まるで意味不明である)


こんなハチャメチャ魔球が飛び出しながらも、「いつか、きっと会える……」と信じるジュンと母親の絆を縦糸に、ドラマは最高潮の盛り上がりを目指して進んでいくのである。



こんな風に茶化してるけど、あの頃は真剣に夢中で観ていたんだよなぁ~。(「私が母親なのよ、ジュンちゃん!」と名乗りたくても名乗れない河内桃子さんの演技に、もう毎回が涙腺崩壊。涙ウルウル💧💧💧なのである)



この『燃えろアタック』、ごく最近、傑作選としてDVDが出たという。(完全版じゃないのか?……出し惜しみしないで全話出してくださいましな! フアンはそれを待ってますよ、メーカー様!)



中国ではいまだに大人気で、『排球女将』のタイトルで、何度も再放送されていて、主演の荒木由美子さんが中国に行けば、まるで国賓級の扱いをうけるとか。


こうして、文章におこせば、とんでもないドラマなんだけど、映像を観ると、やっぱり夢中になる。



伝説のドラマとして、今後も語りつぎたい1本じゃないかな。

星☆☆☆☆☆。(ハマるぞ~!荒木由美子様の可愛らしさに!)


2021年3月27日土曜日

ドラマ 「消えた花嫁」

1986年 アメリカ(NHKでは1990年)。





『生きていた男』を観る前から、ずっと、頭に浮かんでいたのが、この『消えた花嫁』。


アメリカではテレビ映画扱いなんだけど、このblogでは取りあえずドラマ扱いとしておく。(アメリカのテレビ映画って日本では二時間ドラマみたいなモノだから)


でも、この『消えた花嫁』を覚えている人も、今じゃ、どれくらいいることやら……。



なんせ、1990年、大晦日近くにNHKでたった1回だけ放送されたっきり。


あの頃、ビデオ普及の時代に、特にそれを観たかったわけでもないのに、その時間に、たまたまタイマー録画をしていた自分は超ラッキーだった。(多分、年末の長時間バラエティー番組に飽き飽きしていたのだろう)


そう、《ラッキー》だったのだ!


この『消えた花嫁』、前回挙げた『生きていた男』の、何段も上をいくような衝撃!


《どんでん返しモノ》の大傑作なのである。




アルプスのスキー・リゾートに新婚旅行でやってきた夫婦は、ある夜喧嘩になり、妻のクリスが飛び出していった。

夫の『ハリー』(マイク・ファレル)は、そんな事情を説明して地元の警察に届けを出す。


「いなくなってたった一晩でしょ? ただの夫婦喧嘩ならすぐに戻ってきますよ」

『ルドマイヤー警部』(エリオット・グールド)は、あまり深刻そうでもなく、カル~イ様子。


「真剣に捜索してください!妻の身に何かあったかもしれないんだ!」

ハリーはルドマイヤー警部の応対にイライラしながらも、懸命に訴えた。



翌朝、ハリーのロッジにルドマイヤー警部が、早速やってきた。


「奥さんが見つかりました」

ルドマイヤー警部の後ろからは神父の『マクリン』(フレッド・グワイン)と女性(マーゴット・ギター)が続く。


「もし奥さんを愛しているなら寛大な心で許しておやりなさい」

マクリン神父は諭(さと)すように、目の前のハリーに語りかけた。


女性はハリーを見ると、「許してちょうだい!ハリー、私が悪かったわ」と目に涙までためている。



だが、肝心のハリーは……


「誰なんだ?君は?!」の一言。



「何を言ってるの?ハリー、妻のクリスよ!」


「知らない!!こんな女、今まで会ったこともない!!」


「ひどい、ひどいわハリー!」神父に支えられて泣き崩れる女性。


ルドマイヤー警部も加勢して、「彼女が奥さんのクリスさんでしょ?!」と言うものの、ハリーは後方に下がって首をふるばかり。



「違う!こんな女は妻なんかじゃない!!」



果して、彼女は本物のクリスなのか……。





こんな導入部ではじまる『消えた花嫁』である。



どうです?面白そうでしょ?(それにしても画像を探してもないですわ)



主人公ハリーにしたら、目の前に突然現れた見知らぬ女が、妻だと名乗りでて、猜疑心で、何がなにやら、訳の分からない状態。


(誰なんだ?こんな芝居じみた事をして……いったい何が目的なんだ?……)ってな具合なのだ。


しかも、ルドマイヤー警部も神父も、完全に、この『見知らぬ女』(マーゴット・ギター)を信用していて味方になっているのだから、手に負えない。


孤立無援のハリーなのである。



こんな疑念だらけの中でドラマは進んでいき、やがてラスト、驚愕の《どんでん返し》がやってくる。


この《どんでん返し》を上手く表現するのなら、まるで万華鏡のような《どんでん返し》。


それまでの登場人物たちのイメージ、全てが反転するような、そんな見事な《どんでん返し》なのである。(もう、誉めちぎり!)



このドラマを当時、制作したのが『刑事コロンボ』や『ジェシカおばさんの事件簿』などを作っていたのと同じチーム。(なるほど!ミステリドラマの「なんたるか」を熟知しているチームである)



原作は、フランスの《ヒッチコック》と言われていた劇作家、ロベール・トマが書き下ろした『』という舞台劇である。


この『罠』も、日本では好評みたいで、何度も繰り返し、舞台上演されているらしい。



で、こんな有名な原作、この『消えた花嫁』以前にも、とっくに映画にもなってるいるかなぁ~と調べてみると、邦題で『罠』(1949)って映画を見つけた。


監督はロバート・ワイズ。(サウンド・オブ・ミュージックの監督さん)

内容はというと、「ボクシングがナンタラ、かんたら……」


全然、ロベール・トマの『罠』とは関係なさそうである。(くれぐれもタイトルが同じだからといって、お間違えのないように)



やっぱり、この『消えた花嫁』が、いまのところ舞台劇の原作に一番近いかも。


その後、かろうじてビデオが発売されたらしいが、やっぱり日本では、いまだにDVD化もBlu-ray化もされておりません。(またもや)


NHKの吹き替えでは、主人公ハリーの声をあてたのが、名声優富山敬さんだったと思う。


吹き替え付きで、DVD化されないかなぁ~。


『M★A★S★H』のエリオット・グールドや『スーパーマン』のマーゴット・ギターも出てるのに。



いつか、この傑作が発売されたら、是非、《どんでん返し》の妙技に酔って頂きたい。


微力ながら、ここに挙げておこうと思う。(メーカー様、よろしく!)

星☆☆☆☆☆。


2021年3月22日月曜日

映画 「生きていた男」

1958年 イギリス。




スペインはバルセロナ。

海を見渡せる豪勢な別荘に、美しい女性が一人、通いの召し使いを従えて住んでいる。


女性の名前は『キム・プレスコット』(アン・バクスター)。


ダイヤモンド王の社長である父親が、突然自殺して、その父親が所有する別荘へとやってきたのだ。


キムにはウォードという兄もいたのだが、その兄もまた、運転する車が崖から落ちるという悲劇で、すでに亡くなっていた。


もはや、近縁者といえば、近くに住んでいる叔父だけ。



そんなある夜、訪ねてきた叔父を見送った後、庭先に、ひょっこり現れた一人の男の影。


「誰?誰なの?!」


見知らぬ若い男(リチャード・トッド)は、キムの目の前に来ると、

「キム、久しぶりだな。ウォードだよ」と、兄の名を名乗った。


「何の冗談なの?!兄は死んだのよ!!あなたなんて知らないわ!!さっさと出ていかないと警察を呼ぶわよ!!」


そんなキムの言葉にも、この見知らぬ男はどこ吹く風。

悠長な姿勢を崩す様子でもない。


苛立つキムは、警察に電話すると、署長である『バルガス』(ハーバート・ロム)が、直々に別荘へとかけつけた。


「見知らぬ男がやってきて、兄の名を語っているのよ!さっさと逮捕してちょうだい!!」


激昂するキムに、バルガスはあくまでも冷静沈着。


「失礼ですが、運転免許証やパスポートを見せて頂けますか?」


若い男は、やれやれ!とばかりに懐から、それを取り出して署長に見せた。


隅から隅まで、それに目を通すバルガス。


「何も不自然なところはございませんな」

「そんな……」青ざめるキム。


それでもキムは気を取り直して訴え続けた。


「兄は事故で死んだのよ!遺体の確認だって私が、ちゃんとしたんだから!!」


それでも男はそんなキムの言葉を待っていたように、

「自分の財布と車を奪ったヒッチハイカーが崖から転落して、今まで自分と勘違いされていたんだ」と、淡々と答えた。


署長のバルガスの目も、どんどんキムを訝(いぶか)しげに見つけはじめる。



その時、キムは兄の写真のことを思い出した。


「そうよ!兄の写真があるわ!私の部屋に!!それを見ればこの男がニセモノだって、ひと目で分かるはずよ!!」


だが、持ってきた写真は、今ここにいる、見知らぬ男の顔写真に変わっていた。


「どうして……? こんな…あり得ない!………いつすり替えたのよ?!」


そして、とどめは兄と同じように、その男の腕に彫られていた《錨》の入れ墨。


もはや、目の前の見知らぬ男を『ウォード・プレスコット』じゃないと疑うような証拠は何一つない有り様である。


バルガス署長は、狂人を見るような目でキムを見ると、「これまで!」とばかりに、そそくさと帰っていった。


そうして、別荘に残されたキムと、得たいのしれない《見知らぬ男》。


「いったい何が目的なの?!」

キムは恐怖して、階段を駆けあがると、自分の部屋へと逃げ込み、鍵をかけた。


叔父に電話するも、ずっと不通。


(まだ帰っていないの?それとも受話器がハズレているの?!)


言い知れぬ恐怖でガタガタ震えながら、キムの精神は限界だった。


考えて、考えて、そして疲れきって、いつの間にか眠ってしまったキム。


だが、キムの悪夢のような日々は、まだ、はじまったばかりなのだった……。



《埋もれていた、お宝のような映画を、きっと掘り起こす……》



このblogを始めてから3年以上経つが、自分が、こんなblogを始めた理由はそれだった。


そして自分は大のミステリー好き。



このblog、1940年代~50年代が多いと思われるだろうが、この時期がミステリー映画やサスペンス映画の傑作が集中しているためである。


その後にも、もちろん傑作と言われるミステリー映画は現れるのだが、《基本型》といわれるモノは、この時期で、ほぼ完成されているような気がするのだ。


これ以降は、現代の今に至るまで、それらの《変形型》や《亜流》、《バリエーション》みたいなモノだと、自分なんかは、そう考えている。



推理小説の世界でも、傑作が産まれているのは、同じように40年代~50年代のこの時期。


しかも、そのジャンルの本家と言われるイギリスでは、今現在に語り継がれるほどの傑作が、軒並み現れている。(アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』や『オリエント急行殺人事件』なども、ちょうどこの時期である。)



意外なトリック、


意外な犯人、


「アッ!」と驚くような大どんでん返し。


こんな本格推理小説の傑作が量産されていた当時のイギリスなのだから、そんなのが映画界にも影響しないはずがない。


隠れた名作と言われるミステリー映画は、まだまだ掘り起こせば、枚挙にあるはずなのである。


そんな数多く作られたイギリス産ミステリー映画の中でも、この一編も長い間、埋もれていた良品なのだ。



『生きていた男』……


この映画の存在を知ってから、数十年、念願叶って、この度やっと観る事ができた。


もう、観る前にあまりにも時間が経ちすぎていたので、この映画に関する内容も知りすぎていた感もあったのだが、それでも実際に観てみると、やはり、「オオッー!」なんてため息が漏れてしまう。


『イヴの総て』でベティ・デイヴィスと火花を散らしたアン・バクスターが、この映画でも大熱演。


リチャード・トッドなんか、ヒッチコックの『舞台恐怖症』でしか知らなかった俳優だが、この《見知らぬ男》の不気味さを、大袈裟にならずに淡々と演じていて、この映画でグ~ン!と株が急上昇。


この後も、

「これでもか!これでもか!」と次から次に追い詰められていく『キム』(アン・バクスター)にハラハラする。(アン・バクスターに感情移入しすぎて、もう、胃がキリキリするほどである)

通いの召し使いは辞めさせられて、代わりに現れたのは、見知らぬ男が勝手に雇った『ホイットマン女史』(フェイス・ブルック)と執事の『カルロス』。


あの信用している叔父すらも、「オオー!ウォードじゃないか?!生きていたのか!!」と見知らぬ男を兄だと断定してしまう始末。


(どういうこと? いったいどうなっているの?!)

もう、どんどん孤立無援に追い込まれていくキム。



緊張感は最後まで続いていき……そして、ラスト5分!


「アッ!」と驚く大どんでん返しが待ち受けている。



映画の終わりには、この映画のプロデューサーであり、『絶壁の彼方に』などで有名な俳優ダグラス・フェアバンクス・jr.が、コッソリ現れて一言。


「この映画の結末は誰にも言わないで下さいね」



こんなの言われたんじゃ、絶対に言えないでしょうよ。


でも、言いたい!!

う~ん、やっぱり言えない!!


この歯がゆさを当時の人たちは、どう伝えたのだろうか。



とにかく、この『生きていた男』も《どんでん返し》のジャンルでは、確実にマイ・ベスト・テンに入るような傑作だと言っておこうか。



『生きていた男』を観るまで、『生きていて』よかった~ (笑)。

星☆☆☆☆☆。




2021年3月16日火曜日

ドラマ 「裏刑事 ーURADEKAー」

1992年4~6月。




主人公は警視庁捜査一課の警部『佐々木武夫』。


そんな武夫に「これでもか!これでもか!」と襲いかかってくる、連続悲劇の物語である。



武夫の悲劇 ①

麻薬密輸の捜査中に、暴力団の放った凶弾に何発も撃たれる。(奇跡的に、なんとか命をとりとめるけど。でも普通なら死んでるよな?これ?!)



武夫の悲劇 ②

その後、武夫の銃が、暴力団によって勝手に使われてしまい、関係のない相手を射殺してしまう。



武夫の悲劇 ③

結果、武夫が殺したとして《誤射殺》扱い。(これ、この人のせい?)



武夫の悲劇 ④

命はとりとめたものの、この武夫の処分をどうすればいいか?


警察の上層部は「ん~ん……」と頭を悩ませて、「ええい!もう、死んだ事にしてしまえ!」と勝手に殉職扱い。(ろくな捜査もしないで、酷すぎる上層部)



武夫の悲劇 ⑤

その後、本人には内緒で、勝手に整形手術で顔を変えてしまい、心臓には遠隔操作でいつでも止める事が出来るという特殊な《ペースメーカー》を入れられてしまう。(もはや人権無視もいいところ)



武夫の悲劇 ⑥

「君は今日から《岩城丈二》と名乗り、発足した超法規委員会の為に働いてもらう!断った時は容赦なく心臓に入れたペースメーカーのスイッチを切らせてもらう。分かったな?!」と、アコギな脅しをする上層部。(これでも警察なの?)


非合法なやり方で、『悪を裁く』という、『超法規委員会』(闇の組織)の為に、無理矢理に働く事になった武夫。


こうして生まれ変わった佐々木武夫は『岩城丈二』(藤竜也)と名乗り、《裏刑事》を襲名するのであった……。




真面目なドラマとは、とても思えないほど、ハチャメチャな主人公の設定である。


まぁ、昔は、こんな風な刑事ドラマなんてのが数多く作られていたのだけど。(だからこそ、テレビが面白かった)



こんな悲劇まみれの主人公、

「さぞや、毎日が悲壮感でいっぱい。苦渋に満ちた顔をして、与えられる任務を嫌々遂行しなければならないんだろうなぁ~ ………」と観た事がない人は、想像するはず。


でも、全くそんな風にはならないので、ご安心を。



それは、演じるのが藤竜也だから。



ストイックにバーベルなんて持ち上げながら身体を黙々と鍛える『岩城丈二』(藤竜也)。


整形した顔は顔で、中々気に入っているようである。(そりゃ、そうだろうよ)


たま~に心臓の診察をする組織の女医『長谷香織』(財前直見)を口説いたりする余裕もある。


その香織なんて、丈二に対しては、


「あなたは私の作り上げた最高傑作よ」と、まるで人間扱いしないのだけど。(それでも飄々としていて、暇があれば口説き続ける藤竜也)



裏刑事仲間には、岩城をサポートする、西村和彦山田雅人もいる。(この人たちの印象が薄くて、記憶が、ややボンヤリ。お色気担当の小林小夜子って人もいたっけ)


他の助っ人では、武夫の昔の知り合いで変わり者の『三枝(さえぐさ)』(近藤正臣)なんてのもいたりする。(ギャラの分だけしか働かない図々しい奴。「俺の仕事はここまで…」と言って、平気で途中退散する)


三枝の特技がカード・マジックで、トランプの達人。指に挟んだトランプを華麗に投げてもみせる。(お前は『キャッツ・アイ』か? (笑) )



そして、そんな裏刑事に、組織の指令を伝えるのがクールな美女『芹沢雅子』(戸川京子)なのだ。(ソバージュ・ヘアーの戸川京子を、今見ると、「あ~!バブリーな平成らしい髪形」と思っちゃう)



こんな面々が揃って、毎回毎回、非道な限りを尽くす犯罪者たちを成敗していく。


平成版仕事人みたいなのが、ドラマ『裏刑事』なのである。



なんで、今更、こんなマニアックなドラマを取りあげてみたのか?というと、ここ最近CMで流れている映画の宣伝をみて、突然、このドラマことを思い出したのだ。



藤原竜也と竹内涼真の『太陽は動かない』。


「心臓に爆弾を埋め込まれたエージェントが、組織の命令で繰り広げる大アクション映画」なんていう、(大袈裟な)謳い文句。



爆弾とペースメーカーの違いはあれど、何となく、この『裏刑事』に似かよった設定である。


オマケに、《藤原竜也》=《藤竜也》……名前も一字違いの二人。


いやがおうにも、この『裏刑事』を連想してしまうというものだ。



ただ、藤原竜也よりは、《渋さ》や《ダンディーさ》で、自分なら『裏刑事』の藤竜也さんの方に、なんとなく肩入れしてしまうかな~。(なんせオッサンなんで)



それにしても、こんな《渋い》雰囲気を漂わす俳優も、めっきり見なくなった。


これ、DVD化してくれないだろか?


毎回、ターゲットが変わる度に、『岩城丈二』(藤竜也)が、組織から渡される銃も、その都度変わるので、こんな所もワクワクさせて、面白いドラマでした。


星☆☆☆☆。


2021年3月10日水曜日

ドラマ 「ぬかるみの女」

1980年1月~9月。(続ぬかるみの女 1981年9月~12月。)





花登筐(はなと こばこ)』という方をご存じだろうか?


この名前を知っているのも、もはや自分のような50代が最後、ギリギリかもしれない。


戦後、小説や脚本家として特に有名だった方で、書けば、必ずドラマ化や映画化されて、それらはいずれも大ヒットした。


昭和ブームの立役者……『細うで繁盛記』、『どてらい男(やつ)』、『あかんたれ』などは特に有名である。(これも知らない人も昨今では増えてるんだろうなぁ~)


アニメでは、『アパッチ野球軍』の脚本を書いたり、漫画では水島新司の『銭っ子』の原作者でもある。


歌の作詞だってしちゃう。


とにかく幅広い創作意欲に生涯、長けた稀なお方だったのである。



そんな『花登筐』先生の原作で、自分がよく観ていたドラマが、これ!


ぬかるみの女》なのだ。



ネオンが映るぬかるみを~避けて通れる女なら、甘い~誘いも~見抜けます


そんな自信があったのに~、うっかりハマる嘘の罠


女ひとり、女ひとり、いつまで続く~



この主題歌(もちろん作詞も花登先生)を、しっとりと歌い上げるのが、若き日の石川さゆり


この曲、何気に名曲なので紅白で歌ってくれないかなぁ~(『津軽海峡』と『天城越え』のリピート、もう、いい加減飽きた (笑) )


この歌詞を見れば分かるように、このドラマは、水商売の世界に身を投じた女性の物語。


主役は、とても水商売なんて世界とは縁遠い、和服が似合う清楚な美人『星由里子』さん。




下関で女学校を出た『文子』(星由里子)は、戦後のドサクサで、博多で結婚し、1女2男の子供をもうけるが、亭主が根っからのダメ人間。


キャバレーのダンサーにのめり込んで、家も土地も手放してしまうという、スッカラカン状態に。



とうとう、そんな亭主に愛想を尽かした文子は離婚を決意する。


幼い子供たちの手をひいて、見知らぬ町、大阪へ……時は昭和28年。


(大阪には下関時代に父の知り合いだった桐山のおじ様がいるはず……優しかった桐山のおじ様……きっと私の力になってくれるはずだわ……)


だが現実は厳しく……そんな文子を『桐山』(三橋直也)は冷たく突き放す。



「今の時代、女が一人で生きていくには《水商売》しかない!君はキャバレーで働くダンサー(今の時代ではホステス)になるんだ!」


ガーン!!( ̄▽ ̄;)


あれほど、意味嫌っていたダンサーを!この私にやれ!と?!


嫌よ!イヤイヤ!!



すっかり当てがハズレた文子……でも、振り返ればお腹を空かせた3人の子供たちがいる。



桐山は、当座の生活の為に、資金を貸してはくれたが、「後は自力で何とかしろ!」の一点張り。


安アパートをやっと探すも、電球もない、ちゃぶ台もない、食べるものもない。


無い無い尽くしの貧乏生活。



そんな生活に追い討ちをかけるように、月末になればアパートの大家が家賃を取り立てにやって来る。(この大家が、またスゴい見た目。総金歯で、アパートの住人からは『緑獅子』なんて呼ばれてる)


「ちょっとアンタ!払うもん、ちゃんと払ってや!!払わんなら、とっとと出てってもらうで!!」(コッテコテの大阪弁)


文子も、とうとう決心する。


「もう、やるしかない!!子供たちのために!生活の為に!!」


キャバレー《メトロ》のダンサー(ホステス)として働く事になった文子。


店での源氏名は《準子》という名前を与えられた。


働くためには、店で着るドレスが必要なのだが……(トホホ……お金が無いので1着しか買えない)、散々迷って、文子は白いドレスに決めた。


「せめて心だけは、このドレスのように純白でいたいから……」(白いドレスなんて、汚れも目立つのにねぇ~)


それを毎日せっせと洗濯して、一張羅で頑張り続ける文子なのであった……。




こんな感じで始まる《ぬかるみの女》なのだが、私、本放送を残念ながら観ていない。(だって当時、月曜から金曜のお昼13時ですもん。さすがに学校行ってました)


そう、このドラマは、あの『真珠夫人』や『牡丹と薔薇』など名作を産んだ東海テレビの枠なのである。


このドラマ、よっぽど評判だったのか何度も再放送されており、私が観たのは早朝やっていた再放送。


その再放送をたまたま観てしまい、見事にハマってしまったのでした。



この主人公『文子』を演じている星由里子さんが、あまりにも清純そのものそう。(子供が3人もいるのに)


はかなげなお嬢様風で、突然、こんな境遇に置かれてしまった文子に、「大丈夫か?」と観ながらも、心配して毎回ハラハラ。



なんせ、文子以外のキャラクターが、見た目も中身もドギツイ人間たちばかりなんですもん。



「金歯がうずくぅ~」が口癖の総金歯の大家もだが、メトロのNo.1ホステス『アケミ』なんか、見た目も中身も超イジワル。(こんなにイジワルそうなのに、こんなのがNo.1だなんて、どんな店?( 笑 ) )



「ちょっと準子!!アンタ、よくもあたしの客に色目なんか使って奪ってくれたわね!! 許さないから!!🔥🔥🔥」


白いドレスは、案の定、アケミの意地悪で汚されてしまい、家に持ち帰って洗濯するも、「取れないわ……どうしよう……」(ほれ、みたことか)



でも、こんな準子(文子)にも、とりあえず味方ができた。



先輩ダンサーで、接客のプロ。

店やお客にも信頼されていて、人間性にも優れた女性『清美さん』(水野久美)である。


「準子、お客さまの気持ちになって、《どんな接客をされたら、居心地が良いか》……それを、まず考えなさい。あなたなりの接客方法を探すのよ」


「上に上がっていくためには、まず《目標》をお持ちなさい」


人生の先輩として、ベテラン・ホステスとしての経験を踏まえた上で、決して押しつけがましくもなく、時折、助言してくれる清美さん。(なぜ?この人が、店ではナンバー3か4に甘んじているのか分からないけど……影のNo.1ホステスは、実質上この人である)



「私なりの接客方法……」


『準子』(文子)は、考えはじめ、自分なりの接客方法を実行してみては、どんどん店の中で頭角をあらわしていく。



客にお礼状を書いて送ってみたり、


店に来た客には、床に膝をついて両手を合わせて「いらっしゃいませ」と挨拶してみたり……


やがて準子の接客方法は大勢の客たちを呼び込むくらいの評判になり、同じアパートに暮らす、メトロの落ちこぼれダンサーたちも巻き込んで、その輪は次第に広がっていくのだ。(落ちこぼれダンサーの中には、あの漫才トリオ『かしまし娘』もいたりする)



そんな準子(文子)の活躍にアケミの嫉妬が、またもやメラメラ


「おのれ~準子! 生意気な…今にみてなさいよ!!🔥🔥🔥」

(お~怖っ((( ;゚Д゚)))ガクガク、ブルブル…)



清美は清美で「やっぱり私の見込んだとおり……」と、ひとりほくそ笑む。



博多からは、前の旦那の弟『正和』(三波豊和)までやって来て、準子の店でボーイとして働きはじめたりもする。


「バッテン!義姉さん、なんとか助けてくだっさい!」(大阪でも一人、博多弁のコイツ。もはや赤の他人なのに、前の義理の姉に泣きついてくるなんてねぇ~)



それでも、懐の広いところを見せる『準子』(文子)。


「頑張りましょう、正和さん!一緒に、この《メトロ》で!!」


接客術の成功は、いつしか準子に、人間としての懐の広さまでをみせるような、大きな《自信》をつけていたのである。



やがて、紆余曲折ありながらも、自分の店までも持つようになっていく準子のサクセス・ストーリーにいつの間にかグイグイ引き込まれていく……。



お客さまをもてなす《気遣い》や《心遣い》……接客業に携わる人間なら、こんな昔のドラマでも、『準子』のような考え方を参考にしてはいかがだろうか?


星由里子さんに、星☆☆☆☆。

観はじめるとハマるぞ~!


2021年3月4日木曜日

映画 「ゴリラ」

1986年 アメリカ。




このタイトルだけを辛うじて覚えていたのだけど……内容に関してはスッカリ忘れてしまっていた、この『ゴリラ』。


何でだろ?

あの、大ヒット作『コマンドー』の翌年に、天下のシュワルツェネッガーが主演しているのに。


数十年ぶりに観てみる。


あ~なるほど!

これなら仕方ないかも………



FBIが隠れ家を用意して匿っていた重要参考人。


それを、いきなりマフィアの連中が襲撃した。


重要参考人はおろか、警護していた捜査官たちも無惨に殺害されてしまう。


そんな殺害された捜査官の中には、死体現場を捜索にきたFBI捜査官『ハリー』の息子の姿もあった。


「許せん……」

ハリーはFBIにも関わらず復讐を決意する。


だが、こんな隠れ家まで探し当てるなんてきっと内通者がいるはずだ……表立って、捜査官の私は動けない。


いったいどうすれば……


そんなハリーの頭に一人の男が、パッ!と思い浮かんだ。

(アイツなら……)



行き過ぎた捜査で田舎の警察へと左遷された、昔の部下『マーク』(アーノルド・シュワルツェネッガー)。


今日もニセ警察を騙るバイカーをしょっぴいてきたマーク。(田舎じゃ、た~まにこんな事件があるくらい)


家に帰れば、妻の『エイミー』に「こんな田舎暮らしは、もうたくさん!!」とギャンギャン!八つ当たりされるマーク。


(しょうがないだろ……俺のせいじゃない)


マークだって第一線に戻ってバリバリ活躍したいのだ。



そんな今のマークにとって、ハリーの提案は渡りに船だった。


FBIへの復帰を条件に、ハリーの代わりに潜入捜査をする。


「やります!!」


マークは、自らの死を偽装すると、FBIが用意した身分証で別人になった。(奥さんいるのに、いいのか?)


「今日から俺は、『ジョセフ・P・ブレナー』だ!」


ジョセフとなったマークは、マフィアが暗躍する街へと向かって車を走らせていく……。





こんな冒頭ではじまりをみせる『ゴリラ』。


お察しのとおり、この後は、

「シュワルツェネッガーが、敵のマフィア相手にハデなアクションを仕掛けていくだろうな……」

と、想像どおりの展開になっていくのだが、………いかんせん!この映画は全くダメだった。


※ここから先は自分が《ダメ》だと思う事を、ツラツラと書いていくので、この映画をお好きな方は、ここでストップしてくださいませ。




①『撮影がダメ』


まるでホーム・ドラマみたいなアングルやカット割り。これじゃ、せっかくのアクションも盛り下がるというモノ。(その点、マーク・L・レスターが監督した『コマンドー』は、どこをとっても良かった)



②『脚本がダメ』


焦点をシュワルツェネッガーにあわせて話を進ませればいいのに、やれ、マフィア同士の内紛場面だの、話が脇道にそれすぎである。


その上、この脚本、主人公マークの人物造型が、あまりにも下手くそすぎる。


最初から、マフィアのアジトを破壊してみたり、手下どもの所に堂々とのりこんで行ってメチャクチャに大暴れしてみたり……


この、マークが、死んだ事にしてまで名前を変える意味もあるんだろうか?


やってる事が、あまりにも幼稚でアホすぎる主人公。(これでもFBIの捜査官なの? そりゃ、地方にとばされるはずだわ (笑) )




③『シュワルツェネッガーに長い台詞を喋らせては絶対にダメ(笑)』


生前、淀川長治先生が言っていた事が、やっと分かった。


「シュワルツェネッガーは演技は下手くそだ」と。


元々ボディー・ビルダーの彼は、演技の下積みも無しに、その見た目だけでここまで、のしあがってきたのだ。


『ターミネーター』はロボットゆえ、ほとんど無口で喋らないので、《粗(あら)》は見えなかった。


『コマンドー』でも、長い台詞はなるべく敵や、相手側に喋らせては、間に「チクチョー!」とか何とか言わせたり、決め台詞を言わせるだけにとどめておいて、これまた成功している。



でも、この『ゴリラ』は、シュワルツェネッガーに喋らせる。



冒頭、ハリー捜査官が潜入捜査をマーク(シュワルツェネッガー)に依頼する場面では、シュワルツェネッガーが長い台詞を喋っているのだが………英語でも棒読みが分かるくらい《超下手くそ》なのだ。



気の利いた監督なら、相手側のちゃんとした俳優にその部分を喋らせて、シュワルツェネッガーには「分かりました」の一言くらいで、とっとと短く切り上げるところを、この監督は、長々と尺をとってシュワルツェネッガーに喋らせる、喋らせる!


今までは、バレなかった演技の下手くそさが、これで完全に《露見》してしまったのだ。



そりゃ、シュワルツェネッガーだって、場数を踏んでいけば、それなりに後年の映画では、台詞まわしも、多少はマシになっていくのだが、この時点ではまだまだである。



こんなダメダメ尽くしの映画、案の定、本国アメリカでも赤字を出して、製作会社は倒産にまで追い込まれたそうな。



そうして、日本の配給会社は、この映画を売り出そうとして、どうしたかというと……


「前年、スタローンの映画が『コブラ』だったんだから、シュワルツェネッガーなら、対抗して、タイトル『ゴリラ』でいいんじゃねぇの?」


なんて言いながら、安易なタイトルを勝手につけてしまう。



主人公の名前は、『ゴリラ』でもないし、内容のどこにも『ゴリラ』の『ゴ』の字すら出てこないのに。(笑)



もう、完全にシュワルツェネッガーをおちょくったタイトルとしか思えないような、酷い邦題である。



そして、この映画の原題は、『Raw Deal』。



翻訳すれば、意味は《ひどい仕打ち》なのだ。



何だか、この意味を知ると、酷い邦題をつけた日本の配給会社に対するシュワルツェネッガーの言葉にも聞こえるのだが………(どう思います? (笑) )



だが、シュワルツェネッガーは、やっぱり強運の人。


この翌年には、あの『プレデター(1987)』で、颯爽と不死鳥のように蘇るので、皆さまご心配なく。(最後に精一杯フォローさせていただきます (笑) )



※あ〜、そうそう、この人が珍しく、こ〜んなマトモな刑事役で出演してました。




いつもなら悪党役か汚れ役専門のエド・ローターさんが、マフィアを捜査する善人側の刑事とは …… (一瞬、誰か分からずに見逃すところでしたわ)

2021年3月2日火曜日

映画 「イン・ザ・ネイビー」

1996年 アメリカ。




『トーマス・ドッジ海軍少佐』(ケルシー・グラマー)は、指揮官としての素養は認められていても、その破天荒な性格ゆえ、何度も艦長になるチャンスを棒にふってきた。


そんなドッジにも、ようやっとチャンスが巡ってくる。


艦長への就任。


「やったー!これで俺も念願の潜水艦の艦長だーー!!」

ルンルン気分のドッジだったが、世の中、そんなに甘くない。



ドッジが大嫌いで、嫌味な『グラハム提督』(ブルース・ダーン)は、したり顔で、こう続けた。


「ただし、原子力潜水艦じゃなくて、ディーゼル潜水艦の艦長だがな」


ゲゲーッ!ディーゼルといえば、ひと昔前の骨董品じゃないか!!

冗談じゃない!!



プンプン怒りのドッジは、本部のウィンズロー提督の元へ出向いて直談判した。


そんなドッジをなだめるようにウィンズロー提督は話をはじめる。


「今、ロシアが旧ソ連時代の古いディーゼル潜水艦をイランや他の国に叩き売りしてるのが分かったのだ。この先、我々アメリカはディーゼル潜水艦を相手に戦(いくさ)をせねばならない事態がくるやもしれない。そこでだ!実際にディーゼル潜水艦相手に戦闘をする《模擬練習》が必要になってくるわけだ」


「で、そのディーゼル潜水艦の艦長を私にしろと?」


目的は《ディーゼル潜水艦がどこまで闘えるか》を知ること。

予定の演習ルートを通りながら、見事にダミー船を撃沈させる……それがドッジに与えられた使命だった。



見事任務を成功させれば、ドッジは晴れて原子力潜水艦の艦長に任命。

だが、この話を断れば一生デスク・ワークか、はたまた海軍を辞職せねばならない。


(こんなの、もはやヤルしかない選択じゃないか!……もう、こうなったらやってやるわい!!撃沈させればいいんだろう!!)



ヤケクソ気味で了承したドッジだったが、いざ乗り込む潜水艦を目にすると、テンションはドヨヨ~ンと下がる。


錆びだらけのオンボロ潜水艦……

こんなの博物館行きか、とっくに廃棄だろうに……トホホ……。



そして、オンボロ潜水艦に集められた乗組員たちといえば、これまたはみ出し者の問題児たちばかり。


一応、見た目礼儀正しいが心の中では(こんなオンボロ艦に何でエリートの私が?)と不満タラタラの『マーティ副艦』(ロブ・シュナイダー)。


元バスケットボール選手で博打好きな『ジャクソン』(デュアン・マーティン)


命令無視で、やる気なしのウィンズロー提督のドラ息子、『ステパナック』(ブラッドフォード・テイタム)


感電する事に快感を覚えるソナー員やら、肥満体の炊事係やら……変わり者ぞろい。



そして、極めつけは、初の女性乗組員『エミリー・レイク大尉』(ローレン・ホリー)まで着任してくる。


「こんな男所帯に、何であなたみたいな人が?」


「これも任務ですから、ヨロシクお願いします、ドッジ艦長!!」

ヤレヤレ……この先どうなるのやら……



不安や不満を隠して、ドッジは、まずディーゼル潜水艦の錆び落とし、ペンキ塗り、内部の整備などを命令した。(そんな任務も、この面々ですもん。グズクズ、モタモタ……)


それでも何とか見た目、綺麗に仕上がった潜水艦。


さぁ、いざ出港!!………。




こんな冒頭で始まる『イン・ザ・ネイビー』。


ブルース・ダーンやら、ローレン・ホリーは懐かしいなぁ~。


さぞや、腹を抱えて大笑いできるんじゃないか、と期待して観たのだが……ぶっちゃけ、私には、あんまり……。


潜水艦モノなら、ケーリー・グラントとトニー・カーティスの『ペティ・コート作戦』を観ているせいもあるが(これは傑作!)、これは、それまでに及ばない気がする。


有名無名関係なく、せっかく面白くなりそうな俳優たちの個性が、なんだか最後まで中途半端に思えたのだ。


これが脚本のせいなのか、演出のせいなのか……


それとも自分の《笑い》に対するハードルが高すぎるのか……。


笑いのメーターが100まであるなら、せいぜい50止まりくらい。


そこまで振りきれていない感じがするのだ。


全編、「このくらいで抑えておこうか……」というのが、私にはチョイチョイ見え隠れしてしまう。



《はみ出し者》や《変わり者》といっても、私から観れば、逆に、潜水艦の乗組員、皆が優等生に見えてしまった。



私が、この映画で、一番馴染めなかったのは、主人公の『ドッジ』(ケルシー・グラマー)の性格。


破天荒さや不真面目だという人物設定が、艦長になった途端に影を潜めて消えてしまい、最初から、ごくごく常識的で立派な艦長。


これに、一番の違和感を感じてしまったのかも。(だったら最初から、『真面目なのに今まで運がなくて、たまたま艦長になれなかった』でも、よかったのにね)


ドッジの《破天荒さ》や《不真面目さ》が、はみ出し者たち乗組員の、上をいくくらいの勢いで、ハチャメチャにかき乱すのを、おおいに期待していただけに、これにはガックリ。


なんだか肩透かしをくらった気がしたのだ。



映画は、予測通り、嫌味なグラハム提督の鼻をあかして、ディーゼル潜水艦の勝利で終わる。(これはこれでハッピー・エンドで終わるし、爽快感はあるのだけどね)



それにしても、《人を笑わせる》って本当に大変だし、困難な作業だなぁ~。



特に、コメディー映画ともなれば、監督一人だけの力を越えた何か……《プラスα》みたいなモノが必要になってくる気がする。


《誰》と《誰》の相性が合うか、合わないか……それらは運みたいなモノで、それが特別な化学反応を産み出して、笑いに変えていく。

近頃は、そんな気がするのだ。



先日、観た宇宙コメディー『ギャラクシー・クエスト』がまさにそう。


ティム・アレンが大袈裟にふるまえば、アラン・リックマンがジト~ッ!とした目付きをする。


特別な事はしていないのに、お互いの間合いや空気感に、私たちは《笑い》を観いだすのだ。



なんか、こんな風に《笑い》の分析をするのも野暮なような気もするのだが…。


それでも、この『イン・ザ・ネイビー』を観てみて、そんな事を、ふと考えてしまった私なのである。(この映画を「面白い」という人にはごめんなさい)


星☆☆。

※ヴィレッジ・ピープルの歌う有名な曲『イン・ザ・ネイビー』がエンディングで流れるのは良かったです。(これ大ヒットしたもんね。私世代にはチョー懐かしい曲でした)