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2020年1月11日土曜日

映画 「抵抗」(2度目のレビュー)

1956年 フランス。







抵抗』2度目のレビュー …………

自分としては異例中の異例だが、もう1度ここに書き記しておきたい。


というのも、普通の脱獄映画だと思って、先日、この映画『抵抗』を観て、サラサラとココに取り上げて書いてみた自分なのだけど………

なぜか?この映画に限っては、今までの映画とは、少し違うような気がしてきたからだ。



日が経てば、また、すぐに観たくなってしまうのである。



気がつけば、すっかり『抵抗』にハマっていて暇さえあれば、繰り返し、繰り返しDVDを観ている日々。



これはいったいどうしたものか?



何でこの作品に限ってこんなに強く惹かれるんだろう……。



1度観ても、また、すぐに観たくなるような、そんな中毒性のあるような作品。

そんな作品に、この歳で出会って、これまた夢中になるというのも珍しいこと。



監督のロベール・ブレッソンの世界は、他の映画と、どう違うのか?




そんな考えを巡らせながら、繰り返し観ているうちに、ある事に気がついた。




『抵抗』の主人公『フォンティーヌ』は、ほぼ口を開かないのだ!




そのかわり、《 心の声 》(フォンティーヌの、その時々の心情・ナレーション)が、画面に被さりながら話は進められていく。


こんな手法を、この映画は存分に好んで取り入れているのだ。




これは、まるで日本なら《少女漫画》が昔から好んで使う手法だ。



ふきだし(セリフ)以外のところで、主人公たちが、自分たちの心情を吐露する場面を色々な少女漫画で見かけた人たちもいると思う。




こんなのは少年漫画には、あまり使われない表現方法。


この独自の手法を発展させることによって、少女漫画は、少年漫画や青年漫画とは違って、より深く精神世界へと踏み込んでいったのだ。




この方法は、否が応でも観ている人たちを、主人公に感情移入させて引き込んでいく。



なぜなら、他に現れる登場人物たちが、決して知ることのない主人公の心の声を、観ている我々(自分)だけが知る事になるからである。




それを、こんな大昔から既にやっていた監督のロベール・ブレッソンは、この分野の元祖といってもいいくらいだ。




脱獄の機会を伺いながら、フォンティーヌの無表情の顔を映しては、


(手間取った …… 看守の見廻りの音を怖れたからだった ……… )


なんていうような心のナレーションが、いちいち入るものだから、観ている我々もフォンティーヌと一緒に、ピン!と張りつめた緊張感を味わいながら、脱獄に挑戦しているような気分になってくる。



いつしか、このスリリングな体験を、主人公を通して自分もしているような錯覚さえおこしてしまうほどだ。



こんな手法は、いやはや、なんとも ……

盛り上がらないはずがない。




俄然、こうなると『ロベール・ブレッソン』に関して調べたくなるのが自分の性分。




やはり、他の映画監督たちとは、だいぶ変わった趣向や考えの方の持ち主だったようである。

             《監督のロベール・ブレッソン》


ロベール・ブレッソンは、既存の玄人俳優たちを嫌がったようだ。



変わりに使われるのは、演技経験なんて全くした事のない素人たち。(まぁ、その素人たちもブレッソン映画出演以降、映画界にとどまった者が何人かいたらしいが)



そんな素人たちにさえ、「無理に演技しないでくれ!ただ、そうやって、そこに存在してくれればいい!」だったらしい。



《 俳優が演技しない? 》とは何なのか?



この『抵抗』でもフランソワ・ルテリエは、うつむき加減で左右に目線を走らせるだけ。



映画は、その場面場面を切り取って我々に見せている。


ブレッソンが目指したものは、過剰な演出を徹底的に省いた《 リアリズム 》。


ごく普通の人間が、普通でない状況に置かれた時に、「どう考えて、どう行動するのか?そして、どんな反応をするのか?」………映画はその場面を単純に繋ぎ合わせたモノだと考えたのだ。


ブレッソンは素人の俳優たちを『モデル』と呼び、自らの映画作品たちを『シネマトグラフ』と呼んだ。


極限まで要らないモノを徹底的に削ぎおとして、俳優たちにも内面を演じさせず、ただ、その様式だけを我々に見せる。

それは時として、観ている者たちに強い印象を残し、無限な想像をさせるのである。




今、自分の手元にはブレッソンの別の映画『スリ』があって、それを観てから、すぐにblogに挙げてもいいのだが簡単には進められそうもない。


しばらくは、この『抵抗』の印象が強くて、他の映画に寄り道したりして、この『抵抗』の印象が薄くなるのを待たなければ、どうにもいかない次第である。



こんな経験も、また嬉しく、珍しいものなのである。